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幼少期から今
長いです
・幼少期
3歳
3歳くらいの頃、私は毎日お母さんに「いい子」という言葉を聞かされていた。
「いい子になりたいんじゃないの?」
「いい子になるって約束したよね?」
悪いことしなくてもお母さんの機嫌を
損ねる度に。
悪いことをしてないのに怒られて、殴られて、
話しかけるだけで睨まれて無視されて。
その時、どうにか寂しさを紛らわすために
私はぬいぐるみで家族ごっこをして
ナレーションもキャラの言葉も頭の中で
考えて遊んでいた。
口にした瞬間、殴られるから。
そんなひとりぼっちの私に
イマジナリーフレンドの2人の存在ができた。
白いワンピースの帽子をかぶった女の子と
優しそうな見た目をした本当のお母さん。
当時私は父、母、姉から
「お前はうちの家の子供じゃない。」
「血が繋がってない」
そう言われていたせいで、
私には本当のお母さんがいると思っていた。
だから頭の中ですごく優しいお母さんと、
一緒に遊んでくれるお友達をつくった。
すごく楽しくて幸せだった。
5歳
そして、5歳くらいになった時。
おばあちゃんが頑張って福祉の方に相談して
ようやく保育園に行けるようになった。
だけどお風呂にいれてもらえない。
毎日汚れた同じ服を着ているせいで
臭い、汚いと周りの子達から虐められた。
・小学生
小学校に上がるとイマジナリーフレンドは
自然にいなくなっていて、
周りの子と遊ぶようになった。
でも本物の人間と遊ぶのはうまくいかない。
頭の中で想像してる人間じゃないから、
思ったような言葉が聞けない。
どうやったら周りに注目を得られるのか、
考え抜いた結果、攻撃性が高くなった。
1度、女の子の腕を思いっきりつねって
一生残る傷をつけてしまった。
その時はお母さんにその女の子のお母さんが
連絡をして一緒に謝った。
仕方ないけれど、その日は飲食禁止だった。
補導時間の22時まで外にずっと追い出された。
私もなぜしたのかわからない。
そして次に嘘をつくようになった。
なぜかというと
周りの子達は新しいゲーム機をもっていたり
習い事をしている子が多かった。
嘘をつく前にお母さんにちゃんと相談した。
そしたら
「お父さんに聞いたらだめだって」と言われた。
だから嘘をつくしか無かった。
(あとから聞くとお父さんはしていいと許可してた。
送り迎えが面倒臭いからだったと思う。)
小4
そして小学四年生になると全て嘘だとバレた。
ゲームの話をされてカマをかけられたから。
わかる訳もなく適当に答えると
「やっぱうそつきー!!!」とクラス中に言われ、
笑い声と私を指さす子がたくさんいた。
そこからある1人の女の子に
中指をずっと立てられるようになった。
もちろん先生も
クラスの子達も助けてくれるはずはなかった。
私はそれくらいの事をしたんだってわかった。
小5
小学五年生になるとお母さんが
お酒の飲みすぎで脚気とアルツハイマーになった。
上手く歩けなくなった。
お姉ちゃんの受験も重なって更に私への
当たりが酷くなった。
ある日お母さんと大喧嘩をした。
わたしは放心状態になっていて、
ふいに頭に手を伸ばして髪の毛を抜いていた。
抜いた先になにか白いものが着いていて、
興味本位で食べてしまった。
そこから地獄の始まり。
どんどん抜いては食べてを繰り返したため、
髪の毛で隠せないほど禿げてしまった。
学校へ行くとさらに虐められた。
ハゲと言われて、嘘つきと言われて、
全部全部私が悪いのに。
小6
小学六年生についに苦しくなって🐿️🦟を始めた。
最初はハサミを押し付けてぐぐっと引いて
蚯蚓脹れになる程度。
誰かに助けて欲しくて。
だからクラスの人達にも見せびらかした。
そしたら担任の先生に怒られた。泣かれた。
泣きたいのはこっちなのに。
自分を傷つけた事実より、背景の意図を
汲み取ってほしかった。
私が何かするとみんなに嫌われると気づいて嘘をつかない、大人しくしようと思った。
・中学生
中1
中学一年生になるとウィッグを買って
使うようになった。
これでようやくいじめられないと思った。
なのに、
同じ小学校の人が別の小学校の人に
「アイツはげてるんだよ」
「自分で抜いて食ってんだよ」
言いふらされた。
わざわざ別クラスから見に来る人もいた。
死にたかった。誰も助けてくれなくて、
でも絵を描いていると
自然に人が寄ってきてくれた。
友達ができた。本当に幸せだった。
その子たちはとても優等生で
みんなと同じ高校に行きたいとおもった。
だからある双子の友達の誘いで塾を始めた。
中学二年生になるまでは順調だった。
中2
中学二年生になるとお母さんの状態が
更に悪くなった。
一日中お酒をのんでずっと酔っている状態。
ある日
お酒を買いに車を運転し、単独事故を起こした。
電柱にぶつかりハンドルを思いっきり切ってアパートの柵に突っ込んだ。
お母さんは無傷でアルコール検査もされなかった。
もちろん車は廃車。
そこのアパートは友達の家で
お父さんがその子の親に怒られたと聞いた。
「車のことばっか心配して嫁のこと心配しろ」
だってさ。
その時の私の生活は
朝6時に起きて学校行って帰って洗濯物干して家にご飯がないし作ってくれないから、
おばあちゃん家に食べにわざわざバスに
乗って行って、塾に時間ギリギリで行って
22時に終わって帰ったらお母さんに怒られて
勉強を3時までして寝るという生活をしていた。
お父さんは朝の6時に帰ってきて7時に仕事に行く。
ほとんど家にいなかった。
助けてくれる大人がいなかった。お父さんは逃げた
そして
朝起きれなくなった。
酷い頭痛が起きるようになった。
あまりの痛みに吐いてしまうくらいの痛み。
それでもお父さんは起こしてきた。
「仮病のくせに怠けんなや」と
そう言われた。
でもお昼すぎになると痛みが引く。
だから塾には行って勉強の遅れを取っていた。
だが現実はそう上手くいかなかった。
塾を誘ってくれた双子の友達に縁を切られた。
わたしはいきなりの事でパニックになった。
学校に来ないくせに塾にはくるんだ。
私達は学校も行って頑張ってるのに。
そう思われたんだと思う。
その子たちには家庭の事情も髪の毛のことも
すべて話して信頼していた。
その子たちにいきなり縁を切られてしまった。
塾にも行けなくなった。
塾の月謝を払ってくれていたおばあちゃんにとてつもなく怒られた。
理由を話しても
「そんなの関係ない。おばあちゃんが必死に
あなたのためにしてきたのにどうして?」と
誰も信じれなくなった。
不登校になった。
やめていた🐿️🦟も再開するようになった。
中3
中学三年生になると何もしていない自分が
情けなくて自己嫌悪に陥って、
市販薬を大量に飲むようになった。
それだけなら良かった。
構ってもらいたくて飲んだ状態で
学校に行った。ぶっ倒れた。
救急車に運ばれて何度も病院に行った。
今考えれば大迷惑。
さすがに良くないことなので児相へ繋がった。
その頃のお母さんはもう自力で座ることも
立つことも歩くこともできなくなっていた。
お父さんが朝帰ってきたらトイレに連れていく。
一階のリビングにいるお母さんの場所は
大量の嘔吐物と排泄物だらけだった。
2023年の5月くらいかな。
体育祭があって見学で行くことになった。
そして家出る前、
トイレでお母さんがうつ伏せで倒れていた。
おそらくお父さんが嫌になってそのまま放置して
仕事に行ったのだろう。
「助けて、手伝って」とそう言われた。
でも私は無視して体育祭に行った。
本当なら私も体育祭に参加して、
お母さんに見に来て欲しかった。
私も誰かに助けてもらいたかった。
児相と学校からの勧めで
6月1日に現在のかかりつけの精神科に
通うようになった。
たくさん今までの事を泣きながら話した。
主治医にたくさん話せたことですっきりした。
なのに
2023年6月21日
お母さんは死んだ。
最期に話したのは亡くなる2日前。
「そろそろお酒やめないと本当に死んじゃうよ。
嫌いって言ったけど本当は生きていてほしいよ」
そう伝えた。
お母さんは「うん。でもぱぱが連れてってくれない」
と悲しそうに言ってた。
そこから2日後だよ。なんで。
第1発見者はわたし。
朝に寝て夕方に起きた。
引きこもりだったしずっと部屋にこもってた。
すごく家が静かだった。
おばあちゃん家にご飯食べに行くために
準備をして外に出ようとした。
お母さんに「行ってきます」って言った。
返答はなかった。
すごく嫌な予感がした。
怖くて見れなかった。
そのままおばあちゃん家に行ってご飯を食べた。
おばあちゃんが
「死んでたらいけないからちゃんと見なさい」
そう言われたから夜の21時に家に帰り、
リビングのドアを開けた。
吐瀉物と排泄物、水道は詰まって汚水が溜まって
鼻がおかしくなるような匂いにえずきそうだった。
お母さんはうつ伏せで反対方向見てた。
服の隙間から見える浮き出た背骨と骨盤。
この時点でわかってた。
まずは遠くから呼んでみた。返事は無い。
少し近づいてもう一度呼んだ。
怖くて自分の心臓の音で耳が聞こえなくなった。
背中に触れてみた。石のように硬かった。
まずいと思って現在の恋人に連絡した。
脈あるか確認してと言われ、手首を触った。
氷のように冷たくて、顔を見ると目が開いていた。
「あ、これ死んでる」
そう思ってパニックになって
恋人に電話をかけ、お父さんに連絡をした。
お父さんはもうお酒を飲んでいたみたいで
歩いて帰ると言ってた。
それまで冷たくなったお母さんと2人きり。
ずっとパニックになって、お母さんに対して憎しみと悲しみでぐちゃぐちゃになった。
お父さんが帰ってきたのは23時。
お父さんが死んでると判断して警察に連絡した。
警察は玄関に来るとあまりの匂いに顔を顰めていた
お母さんを運び出すために黒いビニールにいれて
引きずりながら出された。
ガタンゴトンと岩を引きずるような音がした。
死斑も出ていたらしい。
そうやってお母さんはいなくなった。
お母さんが亡くなったことで私の病状は更に悪化。
自傷の回数も薬を飲む回数も増えていき、
情動不安定になりフラッシュバックも酷くなった。
そして
「反応性愛着障害」「解離性障害」と診断された。
そして2024年3月から自傷が酷くなり、
皮下脂肪まで切るようになった。
主治医からは何度も入院を勧められた。
もちろん断り続けて、お父さんも私の事を
普通だと思って入院させなかった。
高校生
高1
そして
私は高校生になって新しいスタートを切った。
だが、
お母さんが亡くなった時にいた恋人に
依存するようになり、
その人に何度も交際を求めた。(この時は友達)
そして突き放される度に自殺未遂をした。
1度目は首吊ると写真を送りつけ、脅した。
2度目はブロックされて薬で死のうとした。
3度目は付き合えないと言われ、飛び降りた。
この人しかいないと思い、見捨てられることが
とても怖かった。
私は散々この人の優しさを踏みにじって
暴言も吐いたりした。
それでも離れないからこの人しかいない。
周りの人間は信用出来ない。そう思うようになった
これは不幸自慢では無いです。
みんな過去に傷ついたことのある人は
必ずいます。
自分の中で前を向くために、
区切りをを付けるために書きました。
これが幼少期からの私の人生です。