本との運命は一度だけなのか
本が好きになった年もタイミングも覚えていない。だけど、本をよく読むようになったきっかけの一冊は覚えている。
小学生の頃、周りが「かいけつゾロリ」「キャベたまたんてい」「黒魔女さんが通る」「もしかしたら名探偵」などの争奪戦をしている中、私はちょっと背伸びしたコーナーを見るのが好きだった。今思えば年相応だろうが、私の学校では絵が多くて分かりやすい話が人気だったから、ませた奴とかカッコつけてる奴と思われていたのではないかと、内心ひやりとする。
それは、図書室入ってすぐの狭い海外文学のコーナーにあった。一番上の棚に刺さっていて、背伸びをしないと届かない高さだった。古い本で、擦れた布に覆われている上に、タイトルなんて読めなかったと思う。どう考えても、同級生には人気が出ない本の風貌をしていた。しかし、この本が気になる。「これは借りよう」と表紙をめくる。
中には文章がみっちり詰め込まれ、挿絵は少なくて、くらくらした。だけど、借りると決めたから借りた。結局、読めずじまいで返したが私はそれから、その本を忘れていなかった。「いつか必ず手に入れる」と決めた。
数ヶ月後か、数年後か、何かのタイミングで本屋さんで買ってもらった。探すのに苦労したけれど、見つけた時の高揚感は、図書室で初めて目にした時と同じだった。
「はてしない物語」 ミヒャエル・エンデ
箱入りで、ずっしりして、臙脂色の布を纏った姿は、心底かっこよかった。
本当にこれがあれ???????
のちにこの出会いを、本に目覚めたきっかけとして作文に書いた。確か、万華鏡に喩えて書いたその文章は、カッコつけの何物でもなかったと思う。恥ずかしい。
その頃と変わらず考えることは、「はてしない物語」と私は運命だということ。
見た目や、分かりやすさ分かりにくさ、世間体、子どもらしいかどうか、そんなことは考えず、直感で選んだ私と、背伸びした子どもを導いた本が赤い糸で結ばれていなかったらおかしい。しかも、「はてしない物語」は私の好みど真ん中だった。というか、「好み」のはじまりの物語だった。
それから本のある場所に行った時、引き寄せ率がぐんと上がった気がする。それはきっと、運命が装丁や話の好みの軸を突き刺してきたからだ。今では、書影やあらすじを読んで好みかどうかで決めるが、感覚的に欲する本に出会いたいとも思う。
あのときのときめきと息切れしそうな興奮を感じたいのだ。
こうして私は、本を読むようになった。
このことを考えながら、一つ頭に浮かんだ。
私は読書が好きなのか?私は本が好きなのか?
これについてはまた考えて、ここに書き記したいと思う。
「はてしない物語」の好きなところについても今度書こうと思う。あの厚さを読み返すことに成功した暁には。