空席の玉座について
フレイザーの「金枝篇」にネミの森の王の話がある。
王はその立場に7年間在位した後に殺されることによって次の王ととって変わるという話だ。
古い王から新しい王への権力の継承は暴力的儀礼をともなわなければならない。
同様はアフリカや世界各地にあり、この話が満更全くの神話でもないということを示している。
実際、同様の出来事は現代においても韓国や中東を見れば確認できるだろう。
失脚した権力者が完膚なきまでに否定され、遺骸が辱めを受けることはよくあることだ、かのカダフィも死後、民衆にその遺骸が叩かれたりなどいった映像は記憶に新しい。また韓国に至ってはまともに余生を過ごせる最高権力者はいない。前の権力者に対する政治的身体的否定、これはネミの森の王の話にみる神話的な権力移行の姿そのものである。
ではなぜ王は殺されなくてはいけないのか。
これは王がある種、穢れを払う存在であるということを示している。
つまり「呪い」を負う存在なのだ。
権力者は民を生かしも殺しもする。
例えば、震災後にある街に援助をし、その隣街には援助をしないと決めるのも政治である。その微妙な線引の違いだけで富める者と貧す者が決定する。
昨今の感染爆発についての権力の対応についても同じことが言える、国民の自由を制限するような政府は人のコントロールを制限できるが、国民の自由を尊重する社会においてそこ、むしろ感染は広がっている。
政治は人を生かし、人を殺す。半分は祝福されていて、もう半分は呪われている。
このような王権の呪いを回避するために、人はいろいろな手段をこうじてきた。権力が移行するごとに王を殺しては弊害も見えてこよう。
いちいち王権が倒れ、また一から権力体型をつくるのであれば社会そのものが安定しない。日本であれば、天皇制のように象徴的な祭司的権力を俗なる権力とを分離したものも多くみられてきた。
おそらく民主主義は王の殺害をともなう権力体型に対するアンチテーゼだ。
王の所在を見えにくくし、システムに呪いを代替えさえる。
空席の玉座とともに王権を成立させることがひとつの近代の条件ではなかったであろうか。