#創作日誌3
5月9日
打ち合わせ2本。合間に大戸屋で孤独飯食っていたら隣の席の若い女性二人が盛り上がっている。「演劇」という単語が幾度も聞こえてくるので饂飩食うふりして聞き耳立てた。2.5次元演劇を観てむちゃくちゃ感動したという話だった。人生で久しぶりに感動したと言っていた。
ふと、彼女たちが僕の演劇と出会うことなどこれから先あるのだろうか、そんなことを考えた。饂飩食うふりして世界の平和を祈った。
5月10日
夕方まで執筆。夜、冠ちゃんとラジオの収録。リハーサルのつもりでテスト収録にしようと言っていたけど結局なし崩し的に本番になっていた。事前に打ち合わせていたことをお互いひとつも喋らなかった。録音はSkypeとのやりとりだったが、割とクリアな音質だった。これならどちらかが海外にいる時とかでもできそう。こういうのは身軽なのがいちばんだ。10回はやると決めてしまったのでひとまずそれだけでもやろう。次回の収録日を6月中旬とだけ決めて通信を切った。眠れなくなりそうなのでウィスキー飲んだ。
5月11日
打ち合わせ。からの帰り道、コーヒー豆を買った。「インディアAPAA」深煎り200g。ガツンとくる切れあじ鋭い苦味。繊細さより大胆さが先にくる感じ。何杯も飲むと舌がしびれそう。インドのみんなは元気だろうか。
5月12日
14時からKAAT神奈川芸術劇場にてサンプル「グッド・デス・バイブレーション考」観劇。終演後、出演の板橋駿谷氏や椎橋綾那氏と話す。映画や小説が、周期的に全体主義国家の気配を描くことがある。代表的なのは「1984」とか「未来世紀ブラジル」とかがあるけれども、これらは冷戦時に生まれた。思想を取り締まるという意味では「華氏451度」なども。最近、この「グッド・デス」しかりHULUの「ハンドメイズテイル(原作は1984年出版)」しかり、ふたたびクリエイターたちが新たな全体主義国家の気配を感じてるような気もしなくもない。まあしかし松井さんは昔からそういったことを書いていたような気もしなくもない。むしろ松井さんは社会が全体主義的になったとしてもふふふと楽しんでいそうな気もしなくもない。といったようなことを松井さんと話す時間もなく軽く挨拶して帰宅。
5月13日
完全に執筆のリズムが崩れた。体調も崩れた。やめちまえ。
5月14日
朝から打ち合わせ。体調悪い。寒暖差に伴うものだろうことは自覚している。
5月15日
異常なほど寝た。にもかかわらず眠く、だるい。完全にキテいる。そんな身体に鞭打って昼過ぎから打ち合わせ。他人の書いた日記めいたものをたまに目にして「そんなに打ち合わせって、する?」と思っていたのだが、僕もそれなりに打ち合わせしているらしい。執筆はたいして進まず。
5月16日
脳が死んでないことだけが救い。体調悪くて人に会いたくない。今のこの感じ、立て直さないとやばい。
5月17日
復調の気配。執筆。無限にある可能性をどうやって絞って書くか。書けば書くほど制限は増える。書くということは可能性を殺していくことに他ならない。でも適切な制限の中ではむしろ自由を感じられる。
5月18日
今書いている新作のタイトルが決まった。実はもっと前から決まっていたけど、気持ち的に完全にこれでいくぞと決めた。
5月19日
午前中、いろいろあって下北沢へ。散々言われていることだろうし今更ここに書くまでのことでもないような気がするけど南口がないのは不便すぎる。例えば腕を失くした時、こんな感覚なんじゃないだろうか。あるはずのものがない。あった時の感覚がまだ残っている。
5月20日
細かい部分を書き直した。数日前に体調を壊してから、沸々といろんなこと(主に世の中の理不尽や不誠実)に対する怒りがこみあげて来る。この怒り、どうしたものか。ただ漠然とした不安、ではなく怒り。ただ漠然と、沸々と、着実に、怒りが増している。とりあえずは書くという行為が、僕にあってよかったとは思っている。