自分のことを信じていなければ発すること≒書くことのできない言葉の領域があり、語彙を増やすとはつまりその自分への信頼を自分の力で得ていくことだと思っている。 ただ感覚的に、語彙というものは抱えられる容量が決まっていると自分は思っている。 新しい語彙が増えれば古い語彙は自然に淘汰される。 だから自分の中の容量をどの種類の語彙で満たすのかは注意深くあらねばならない。 否定語ばかりでは気が狂う。 かといって肯定ばかりでは語ることがなくなる。 疑いはさらなる疑いを餌に増幅し
娘は虫が嫌いなのだが昨日一緒に散歩をした時に用水路沿い群がるちっちゃい虫(名前がわからない。グラウンドで野球とかやってる時に頭の上を群がって飛んでるやつ)に発狂してキモイキモイと言う。「虫が可哀想じゃん」と言うと「しょうがないじゃん。虫は虫に生まれたんだから」と言う。「でもキモいと言うのはどうなんだろう」と俺が食い下がると娘はしばらく考えて「でも虫に生まれたんだからしょうがない」と改めて言う。「まあわかるけどキモいは可哀想だよ」と俺が改めて言う。「でも虫が嫌いなんだもん」と娘
自分のためにも今年を振り返ります。リサーチや執筆に費やした部分は省きます。 1月:海城中学2022年度の演劇WS。ほわほわWS 2月:福岡「私がみたあなたの物語」WS。ほわほわWS 3月:全国学生演劇祭審査員講評。「岸田戯曲賞と私」寄稿。 4月:文京リーディング「富嶽百景」上演 5月:ソロ企画「キャメルと塩犬」上演 6月:浅草九劇「君しか見えないよ」上演。福島おでかけアリオスWS。ほわほわWS 7月:成城大学講演会登壇。「バナナの花は食べられる」上演 8月:常磐線舞台芸術祭
札幌の高校生のための劇作ワークショップで高校生たちに出した課題をぼくが書いたものです。課題は1時間で「雪」をテーマに1000字程度以内の戯曲を書くこと。みんな難しそうに唸っていましたが、時間を(大幅に)オーバーしながらも最終的に参加者全員がきっちり戯曲を書くことができました。すばらしい。 で、ぼくが書いたのがこれです。構想から執筆、仕上げまで、だいたい30分くらいの時間を要しました。おじいちゃんが喋っているのは甲州弁です。いつか甲州弁の長尺の芝居を書きたいと思っています。
何年かに一度「日記を書くぞ」と思い立って書いてみるも、最初はその初動のエネルギーで楽しく書けるのだけど、だんだんと交感神経が副交感神経に切り替わっていくみたいに批評的に自分の日記を読むようになって、それならまだしも、なぜかわからないのだがだんだんと日記のために日々を過ごしているような感覚になっていき、よくて数ヶ月、悪くて数日で「日記は俺には合わないのかもしれない」と思い結局のところ頓挫するというリフレイン。昼飯を食べながら、ああこの天津飯の味のことをまた日記に書くんだろうな
娘が小学校に入学し、それだけじゃないけれど、いよいよ僕をとりまく環境も、数年前ニューヨークに留学した時よりもはるかに、ある意味ではかなり強引に、変化しつつある。35年生きてきて振り返ってもこんなにハードな山を、酸欠になりながらもポジティブに越えられたという実感はこれまでになく、いまはゆっくりこの山を下山しながら、苦しかったことや楽しかったことを振り返りながら遠くに見える街を目指している。 僕は僕自身の、感覚の自認とでもいうか、感性の自認に、それが鮮明にわかるまでにずいぶん
2023年2月17日から19日に福岡県のキビるフェスで行われたワークショップ「私がみたあなたの物語」に向けて執筆した「あなたがみた私の物語」という30分程度の戯曲を公開いたします。 言葉と物語からワークショップとショーイングの雰囲気を感じていただけたらと思います。 僕のレパートリーの変遷の中で、今作がどのような位置付けになるのか、ぜひご笑覧ください。 そしてもしよければ下記の「サポート」ボタンからご支援いただけると今後の「切れ端」活動の励みにもなります! また劇場や紙
創作 ①障がい者福祉施設ほわほわでワークショップ&超名作短編「ほわほわのぷりぷり」書き下ろし ②KAAT神奈川芸術劇場ドラマ•インスタレーション「オブジェクト•ストーリー」展示 ③ストレンジシード静岡「かぐや姫のつづき」上演 ④東京芸術劇場「ディグディグフレイミング!〜私はロボットではありません〜」上演 ⑤範宙遊泳ワークショップで戯曲の書き方講座&超名作超短編戯曲書き下ろし ⑥東京芸術祭「となり街の知らない踊り子」上演 ⑦やまなし連詩林にてはじめて詩をつくる! その他 ⑧G
今作は2012年の年末に名古屋で行われた「ミソゲキ」という演劇イベントで出品しました。その当時は「おなかのそれよりも前」というタイトルでしたが、この度「切れ端」として公開するにあたってタイトルを「コンテニュー」に変更しました。 振り返って読んでみると「幼女X」(2013年初演)の基盤となった作品であることがわかります。ひとつのアパートという点では「うまれてないからまだしねない」(2014年初演)の遺伝子も持っています。プロジェクターを使って文字を投射し俳優と共存させたの
ご無沙汰しています。 岸田賞を経て更新がすっかり途絶えていましたが、日々書いたり、悶々としたり、運動したり、酒をのんだり、しています。 さて、二十歳ごろから僕はこれまでにもあまりにたくさんの戯曲や随筆を執筆してきました。短編から中編、長編まで、ほんとうにいろいろ書いてきたなと、最近振り返って思います。で、これら埋もれた過去作をそろそろ世に出しても良いのではないかと思い始めました。どのようにまとめて、どのように世に出すか、は今はまだ考え中なのですが、手始めに短編たちをここno
第66回岸田國士戯曲賞、受賞いたしました。人生でこんなにも祝福されたと感じたのは、もしかしたらはじめてかもしれません。そして僕がこの賞を受けることによって、喜んでくれる人々がいる、ということがとっても励みになりました。みなさんほんとうにあたたかい言葉をありがとうございます。 この賞の重みに耐えかねて軽々しく書けない、みたいなことにはならぬように、むしろもっと軽やかに、けれど激しく、大胆に、でも繊細さを忘れることなく、切実に、戯曲を書き演劇をつくり続けます。僕の身辺にこれ
第66回岸田國士戯曲賞の選考会が迫ってきているということで、戯曲も公開されたりするなかで、いよいよ、まあまあストレスを感じてきてはいるというのが正直なところだ。嘘をついたり体裁を取り繕ったりするのも嫌なので告白するが、もうこんな思い二度としたくないという気分ですらいる。僕がウディアレンみたいに「賞なんかくだらない」みたいな態度を取れるほどの性格や境遇(賞なんかもらわなくたって売れてれば)であればまだしも、学生の頃から図書室に通ってはこの賞の選評を読み学んでいた自分にしてみれ
この度、第66回岸田國士戯曲賞の最終候補作として拙著「バナナの花は食べられる」がノミネートされました。公の発表よりも数日前に報を受けたのですが、嬉しさもさることながら深く安堵の感覚が全身に行き渡りました。御多分に洩れずそれだけ厳しい一年ではあったわけです。束の間の安堵、浸かりすぎると水風呂のごとく冷え込むことは承知しており、いまはもう新作の執筆にとりかかっています。 「バナナの花は食べられる」は僕にとっても範宙遊泳にとっても非常にエポックで、超大事な作品です。大事に(で
11月21日にGAKUの授業が始まりました。ご支援・応援くださったみなさま、ありがとうございます。なんのことやらという方は先日の記事をご覧ください。 クラウドファンディングは目標の金額には及びませんでした。自分のお金集めの下手さにだいぶ凹みますが、最終的に演劇界隈のみなさんがSNSで反応してくださったことにはたいへん勇気づけられました。 また、応援コメントをくれた平田オリザさん、内野儀さん、岡田利規さん、木佐貫邦子さん、桂枝之進さん、高尾隆さん、小堀陽平さん、事務局の杉田聖
けっこうやばいです。 数日を残してクラウドファウンディング達成率64%です。 参加してくれる中高生メンバーとの面接も終え授業の内容もある程度定まってきたので、僕の心配はあとはこれだけです。 そもそも僕がGAKUの精神に惹かれたのでこのワークショップのオファーを受けたわけですが、その辺りの過程の詳細をみなさんに知ってもらいたいと思い、ここに書くことにしました。 最後まで読んでくれたら幸いです。 はじめにGAKUから連絡が来たのが今年の3月でした。 *以下GAKU事務局Sさ
なんだか朝から思考がぎゅんぎゅんで、止まらず、執筆にぶっつけてみるも、止まる気配あらず、つまりはむちゃんこ、怒っている。ぼくが怒っているとき、たいていは特定の人にではなく、この世界の現象とか、総体めいたでかいものに対して漠然と怒っているのだが、今日もその例外ではない。面倒なのは、この怒りの原因はおそらく「僕が人間として生き、人間として世界を見ようとしてしまっている」からであり、つまり、死んだり、人間を卒業でもしない限り、つきまとうものであるからだ。ああ、これは自死願望ではない