元女流アマ名人の手料理とマル秘情報(後編)
その前菜を前に、久しぶりの乾杯。湯川博士師匠はプリン体オフのビール、ぼくと恵子さんはいきなり日本酒から入った。バシッと初手5六歩といった感じの大胆な1口目だ。
この恵子さんの前菜が美味かった。納豆と絶妙に合う長ネギなのだ。
湯川恵子さんは将棋の女流アマ名人を歴代最多の5回獲得して、あっさりアマ棋界を引退してしまった。そして文筆業へ。観戦記も書くし、将棋エッセイも書く。そんな人から素朴な料理を振舞われ、日本酒をともにできるよろこび! 師匠から誘われた時点では2月凶日だったが、ここでこの日が2月吉日に変わった。
この南蛮漬けも美味しかった。たくさん用意しておいてくれたのだが、たしか5匹くらい食べて空にしてしまった。骨も頭もしっぽも食べた。
湯川さんがひととおり話し、ぼくが拝聴し、やがて師匠のスリープタイムが訪れた。そこで恵子さんと日本酒を挟んで話す。恵子さんと本の話をするのが、とても好きなのだ。
恵子さんは最近読んだルシア・ベルリンの『掃除婦のための手引書』が大当たりで、すぐさま市のボランティアに申し込んで掃除婦になってしまった。小説に感化されてその職業にパッとついてしまうというのはすごい行動力だ! まさに本読みのお手本! それにしても『ジャッカルの日』に感化されなくてよかったと思った。
そうそう、と言って、ぼくは恵子さんのずっと前の著作をカバンから出した。表題の本だ。たまたま本棚から見つけたのだ。
あらぁ懐かしい、とさらに話が弾む。自宅にはなく、必要になったときに古本屋で高値で買ったという。
「このラストの対談の獏さんは若いですねぇ」と、ぼく。この本には夢枕獏さんとの対談が載っている。恵子さん、高校時代に2人で同人誌をやっていたのだ。
「そういえば、この前獏ちゃんと対談してきたわ。真剣師のこと」
と、恵子さん。来月号の『kotoba』(雑誌)が将棋特集を組んでいて、恵子さんと夢枕獏さんの対談が載るという。
来月発売の雑誌の情報を教えてもらえるなんて、本好きにはとてもうれしいことだ。これは出たらすぐ買わないと、と『kotoba』の発売日が毎月5日だったことを頭の中で確認した。
それにしても、真剣師かぁと思う。夢枕獏さんの真剣師を扱った『風果つる街』を読んだのが大学の頃だった。たしかノベルサイズだった記憶がある。
恵子さんには、夢枕獏さんの『大江戸釣客伝』3賞同時受賞パーティーに連れていってもらったこともある。帝国ホテルで隅っこの方に参加させていただき、その後コーヒーを飲んだのが強く印象に残っている。
そんな、本や作家の諸々を日本酒飲みながら語っていたが、幸せな時間がそう長く続くことはない。湯川博士師匠が目覚めてしまったのだ。
師匠はいきなり起き、そばを作ると言いだした。そして、とても1分前まで寝ていたとは思えない手際のよさで、
そばを茹でてつけ汁を作ってしまった。さすが師匠だ。
ただ途中、脚元がよろけてお湯を恵子さんにかけてしまうという、ベタなコントともいうべき一幕があったため、文学的な雰囲気は吹き飛んでしまった。
夕方には解散という予定だったが、結局日がしっかり落ちるまで長居してしまった。
久しぶりに刺激を存分に浴びた日となったのだった。