柳田知雪『明日、誰かに言いたくなるような食べ物の話』
「マスクメロンの語源は一体何でしょう?」
何だそれは、とぼやぼやする頭ではあるものの、葵は答えを探そうとした。
どうにも見覚えのある顔に降参というのが何となく悔しくて、クイズを出してきた妖精と同じ色をする目の前のメロンを見つめるのだった。
* * *
湧きたてほかほかの湯船の中へと、体を洗うのもそこそこに半球状のメロンとスプーンを両手に携えて飛び込んだ。疲れた体がお湯に包まれていく幸福感。そして、目の前には甘い果汁をたっぷりと蓄えたメロン。お風呂に置いてあるシャンプーやボディーソープの匂いと混ざり合いつつも、湿度百パーセントの浴室にはキッチンで嗅いだ時以上の噎せ返るような匂いに襲われた。
「長風呂の時は水分を摂りながら入るといい、って前に先輩が言ってたっけ?」
葵より二回りほど上のクイズ番組好きのおじさまなのだが、時折そんな女子力高めの情報をくれる。先輩の言葉を思い出しつつ、甘い水分が目の前にあることに長風呂の準備は万端だと鼻を鳴らした。
この少し行儀の悪い食べ方を思いついたのは、小学生の頃に見ていたドラマのワンシーンが頭を過ったからだ。ドラマの主人公もその当時の自分と同じ小学生で、食いしん坊な主人公の女の子は家族のみんなが留守にしている間、冷蔵庫のスイカを一人で食べてしまうことにした。さらには『好き+好き=大好き』という計算に従い、湯船に浸かりスイカをスプーンでひたすらほじるように食べる、という小学生には何とも背徳的なことをやってのけたのだった。
小学生の頃に憧れて、今までずっとその憧れを葵が抱いていたというわけではないけれど、ふと今日の仕事帰りに衝動的にメロンを買ったおかげでそんな憧れを思い出した。誰に文句を言われるわけでもない。でも少しの背徳感を覚えながら、いざ目の前のメロンを睨みつける。
ごくりと唾を飲み込む。もうここまで来れば後戻りはできない。
大きなスプーンの先端を半分に切っただけのメロンに突き刺した。熟れに熟れたキウイと同じくらいの柔らかさだろうか、するりと掬いとれた薄緑色の果肉を目の前に掲げる。果肉は風呂場の照明を反射し、湯気の中で仄かにきらめいていた。宝石のようなひとさじをゆっくりと口に運ぶ。まだ冷たさの残るスプーンが唇に当たり、同時にとろりとしたものが口の中に流れ込んできた。
「うっま……っ!」
そこからスプーンは止まらなかった。掬っては口に運び、掬っては運びを繰り返す。最初はメロンの中央にできた小さなくぼみ程度だったが、今ではメロン大陸にできた立派な果汁の湖だった。
食べる度に甘い蜜が口いっぱいに広がっていく、少しぬるいを通り越して温かくなってきたけど、それはそれで美味しい気がする。手が少しべたっとしても、すぐに洗い流せるから問題はない。
「幸せだ……」
「行儀の悪い食べ方しちゃってさー」
「え?」
突然聞こえてきた声に辺りをきょろきょろと見回す。もちろん人の姿なんてない。テレビだってつけてないし、スマホもおそらく鞄にいれたままで音が聞こえるとは思えない。
だとすれば、一体どこから声が? と背筋に薄ら寒いものを感じ、葵が身を縮こまらせた時だった。
「探さなくても目の前にいるよー?」
改めて声が聞こえてくる方向へと視線を向けた。目の前のメロン。その上で透き通った羽を羽ばたかせ、ふよふよと浮かぶ緑色をした“何か”に目を見開いた。虫ではない、人型のようなシルエットはまさに絵本で見るような妖精だった。正体も分からないものに触れるのも恐ろしく、呆然と見つめたまま固まってしまう。
「別に悪戯しにきたわけじゃないよ? 変わった食べ方をしてるなぁ、って見てたの」
「えっと、どちら様ですか……?」
「うーん……メロンの妖精ってとこ?」
はぁ、と葵の口から気のない返事が漏れる。子供っぽい口調と声の高さは、男の子なのか女の子なのかよく分からない。そもそも性別なんてないのかもしれないけど、普通に話せる自称・メロンの妖精から敵意も感じられず、少しずつ葵の警戒心は薄れていった。
「あの、見られてると食べづらいんですけど」
「気にせず食べてよ。でもそうだな、気を紛らわせるためにクイズでも出そうか」
「クイズ……?」
「問題、メロンの皮はあみあみの線で覆われていますが、これは人間でいう何でしょう?」
「え、知らない」
「もう少し考えるとかないの?」
そうは言われても、ただメロンを美味しく味わいたいだけの葵は困ってしまう。しかし、この調子だと少なくともこの問題に何かしら答えない限り、妖精は帰ってくれないようだった。
「そもそも果物の部位って、人の体に例えられるものなの?」
思案を巡らせ始めたことに満足してか、妖精はニヤニヤと葵の様子を眺める。だからと言ってヒントを出すわけでもなく、まるでシンキングタイムを刻むように首を左右に振った。
「じゃあ、皮膚とか? 皮だし」
「ぶぶーっ! 正解はかさぶたでした!」
「え、かさぶたってあのケガしたあとにできるやつ?」
そうそう、としたり顔で妖精は頷く。何となくその表情には見覚えがある気がした。
「メロンの実が大きくなる時に皮よりも先に中の実の成長が大きくて、バチバチって割れちゃうの。で、その傷を塞ぐためにできるのが、あの“あみあみ”ってわけ」
「知らなかった。でも、これが全部かさぶたって、ちょっとえぐいな……」
「でも、網目が細かい方が美味しいんだよ。成長した証だからね」
思わず葵は自分の食べていたメロンを傾けて網目を確認してみた。特に網目の大きさなんて気にしなかったけど、これは細かい方なのだろうか。
「それに、えぐいとか言ってる葵だって、傷だらけでしょ?」
あみあみの線をなぞっていた指をぴたりと止め、葵は投げかけられた言葉に静かに顔を上げた。
「今日だって仕事で失敗して怒られて、帰り道にやけくそでこのメロンを買った」
「妖精は何でも知ってるんだね?」
「そういうことじゃないけど」
くすくすと笑いながら、妖精は綿棒のような細い腕を伸ばし葵の胸元を指差す。その瞬間、メロンの甘さですっかり忘れかけていた痛みが一瞬チクリと痛んだ気がした。
「今日受けた葵の傷も、傍目には見えないけど、きっとえぐい見た目してるんだよ。目を背けたくなるようなさ」
「何? 急に出てきて自分と向き合えとか説教する気?」
「そうじゃなくてさ。その傷もメロンと一緒ってこと」
「は?」
「傷ついてもかさぶたになって、また大きくなっていく。傷を負ってもかさぶたができれば、もっともっと大きくなれるんだよ。でもさ、傷ができたまま放っておくと、傷口からばい菌が入るから農家の人が割れたところを拭いたり、殺菌したりしてものすごく丁寧に育てる。人だって、傷ができたら丁寧に癒してあげないとダメなんだよ。そうじゃないと、他のところまで傷んじゃうからね」
突然出てきて、妖精のくせにひどく分かったようなことを言ってくれる。と、葵はこめかみから流れ落ちる汗が顎から滴っていくのを感じていた。
すっかりメロンを食べることも忘れてしまって、目の前の妖精にやりようのないモヤモヤをぶつけてしまいたいような。でも誰かにそんな優しい言葉をかけてほしかったような。さまざまな気持ちが入り乱れて何も言えなくなってしまう。
「じゃあ、次の問題」
「え、まだあるの?」
「マスクメロンの語源は一体何でしょう?」
また知らない問題を出されてしまった。マスクなんて、仮面とか医療用に使うあのマスクじゃないのか? でも言われてみれば、マスクとメロンの繋がりなんてよく分からない。栽培中にマスクのようなものでも被せるのだろうか。
今度は初めから考えを巡らせ始めたものの、徐々に意識がぼやけてくる。唇の上から汗がじわりと滲んでいるのが分かって、少し首を傾けただけで頭がぐらりと揺れた。まずい、と思った瞬間には目の前が黒く明滅し始める。湯気の立ち昇る視界の中で、妖精はひらひらと手を振っていた。
* * *
葵が意識を取り戻して初めて見た光景は、見慣れたリビングの天井と見慣れない下からのアングルの彼氏の顎だった。
「あ、良かったー。気が付いた?」
「タカくん……? なんで?」
彼氏である隆宏の膝の上で葵は目を覚ました。去年の夏祭りでもらって以降、本棚の端に放置していた団扇を見つけたらしく、それでパタパタと隆宏は葵を扇いでいた。脇の下には濡れたタオルが挟まれ……とそこまで葵が認識した瞬間、彼女の体がバスタオルをかけられているだけであることに気付く。
「いやぁーー!!!」
隆宏から思わず飛びのくも、急に起き上がった葵は再び目眩を覚え頭を抱えるように疼くまった。
「だ、大丈夫?」
「なんで裸のままなの!?」
「着替えも分かんなかったし、とりあえず横にしなきゃと思って……」
「というか、なんで家にいるの!?」
「合鍵あるから?」
「そういうことじゃなくて!」
仕事からの帰り際、葵は疲れた手で隆宏へと連絡をしていた。誰かと一緒にご飯を食べれば気分も持ち直せるかと思ってのことだったが、突然の連絡に彼からの返答は『ごめん、難しい』というものだった。だからこそ、一人分の晩ご飯用に惣菜を見に行ったスーパーでメロンを見つけ、勢いで購入してしまったのだ。疲労困憊状態での購買意欲は恐ろしい、と身をもって体感した葵だった。
「難しい、って言ってたじゃん……」
「何となく葵からの誘いが気になって、仕事早く終わらせたんだよ。でも、連絡しても全然返事来ないし、気になって家に来てみたら風呂でのぼせて溺れかけてるし……本当、心臓に悪かった。ってか、なんでメロンと一緒にお風呂入ってたの?」
その一言に様々な羞恥が葵を襲った。とんでもない現場を見られてしまった。まだ食べているだけならまだしも、そのままのぼせて全裸のまま救出されるなんて、呆れられても仕方がない。
再び肌は熱で火照り始め、それとは逆に胃は重く冷えていく。そういえば昔見たドラマでも、スイカを食べていた女の子は最後にお腹を壊しておばあちゃんに助けられる、というオチだった気がする。教訓を何も学んでいないことに、葵はのぼせとは違う目眩を覚えた。
葵は恐る恐る目の前の隆宏を見つめる。彼はお湯でぶよぶよになったメロンを突き、やがて盛大に噴き出した。
「さすがに半分は食べすぎだよ! 四分の一くらいだったらのぼせなかったかもしれないのに」
「そ、そこ……?」
「あー……面白い。お風呂もメロンの匂いすごかったし。さすがマスクメロン」
「マスク、メロン……?」
隆宏の言葉に、葵の中で風呂場での最後の記憶が蘇る。メロンの妖精が出していた問題だ。あの妖精はのぼせた頭が見せた都合の良い幻覚だったのだろうか。幻覚に励ましてもらいたいくらい自分は弱っていたのだろうか、と葵はぶよぶよのメロンへと視線を移す。
「さすがにもうそれ食べるのはやめといた方が……」
「そうじゃなくて、なんでマスクメロンって分かるの?」
葵の質問に隆宏はキョトンとする。続いて、ふふんと顎をわずかに上げ、絵に描いたようなしたり顔を浮かべる。彼の中でうんちくスイッチの入った音が聞こえた気がした。
「マスクっていうのは英語でMUSK、聞いたことない? 香水にもあるでしょ、ムスクって」
「あぁ、あの匂い好き」
「ムスクは日本語では麝香って言うんだけど、それくらい強い芳香をもつメロンの総称をマスクメロンって呼ぶんだよ。ちなみに日本では主にアールスフェボリットって品種であることが多くて、アールスメロンとも……」
隆宏の講義は、それ以降右から左へと抜けていった。
そして、うんちくを垂れ流す彼の顔が記憶の中の妖精と重なって、葵はまた納得とばかりに頷き、着替えを取りにずるずると体を引きずるのだった。
柳田知雪 Twitter:@chiyuki_yngd56
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