見出し画像

深本ともみ『貝の骨』

 墳墓発掘(ふんぼはっくつ)と盗難の容疑で逮捕。
 聞き慣れない罪名だった。赤崎雄市(あかさき ゆういち)は聞き流していたテレビのニュース番組に目を留めた。ジャケットをかぶせられ歩いてゆく容疑者の映像が止まり、ちらりと顔がみえる。
 容疑者 鳶切 柊二(とびぎり しゅうじ)(三〇)。
 いやに白い顔色をした細身の男。目が一重で涼やかだ。絵に描いたような京男だが、罪を犯したという情報が、その視線を冷酷にみせているような気がする。
「鳶切容疑者は半年前の五月、深夜未明、容疑者の祖父である修さんの墓を掘り起こし、遺骨を盗んだ疑いがあります。容疑者は黙秘に徹しており、依然、修さんの遺骨はみつかっていません」
 アナウンサーの声と共に画面が切り替わり、老人の写真が映しだされる。着物姿の厳格そうな姿を、どこかでみた覚えがあった。
「老舗の絵具店を営んでいた修さんが他界したのは今から十五年前。なぜ今になって墓を掘り起こしたのか。京都府警は容疑者への聴取を引き続き行う模様です」
 絵具。京都。
 雄市の記憶を揺さぶったその言葉は、やがて、学生服の少年をおぼろげに思いださせた。
「牡蠣の殻を下さいませんか」
 かぼそい声でそう呟いた、記憶の中の少年と目があう。
 もう一度テレビに顔を向けたが、ニュースはすでに次の事件へ移っていた。あの少年と、今の京男がなかなか繋がらない。本当に、あの気弱そうな少年だった男が、祖父の墓を暴いたのだろうか。今すぐにでも事件のあらましを調べたい気持ちを抑え、雄市は海へでる支度を始めた。
 雄市の仕事は牡蠣の養殖だ。種類によって通年養殖が可能である牡蠣は、町の特産品でもある。今の旬はいたぼ牡蠣。これは渾身の力作で、よそではあまり取り扱っていない主力商品だった。十年前、東北で唯一養殖に成功したのが雄市の養殖場だ。
 冬の牡蠣といえば真牡蠣が有名で、いたぼ牡蠣の認知度は低い。そもそもいたぼ牡蠣の生産地は瀬戸内近海なので、太平洋沿いにはみられない品種でもある。八十年代頃に漁獲されていたいたぼ牡蠣は、近年その姿を消し、瀬戸内近海であっても今では超貴重種とされている。雄市はその希少性と滋味に目をつけ、早い段階から養殖実験を始めていたのだった。
 養殖成功からさらに三年かけ、やっと納得のいく味に仕上げることができた。翌年から市場にだし始め、最初こそ奮わなかったものの、牡蠣好きの間で次第に広がりをみせ、今は冬の主力品になっている。今日の仕事もいたぼ牡蠣の引き揚げが主だ。十一月の太平洋は身に滲みる北風を吹きつけてくるが、海底で収穫を待つ牡蠣を思えば胸が躍る。今回引き揚げるのは三年もの。さぞ身も詰まっていることだろう。
 船の準備を済ませ、目的地の養殖場まで走らせる。目の前には灰色の海ばかりが広がっているが、慣れた道だ。耳を切る風とモーター音が、徐々に記憶を呼び覚ましてゆく。

 十五年前の、あれも十一月だったように思われる。
 冷え込む朝の漁港に、少年の姿があった。詰め襟の学生服だけを来て、吹きつける海風に体を震わせながら、繋がれた船と海とをじっとみつめている。海は鉛色にのたのたと波打っていた。
 声をかけようか迷いつつ船に向かっていた雄市に、少年が気づいた。歩み寄ってきた顔は白さを通り越して青みがかり、鼻頭と耳たぶだけが真っ赤だ。涼やかなまなじりも、寒さのせいか痛々しくみえる。
「あの、すみません。ここにいたぼ牡蠣の養殖をしている方がいると聞いたのですが」
 吐息が白く煙る前に、風に吹き飛ばされてゆく。
 少年の云う通り雄市は、四年ほど前からいたぼ牡蠣の養殖を始めていた。だがそれを知る人間は限られている。少なくとも、十以上も年が離れている少年に漏れる話ではないし、そもそも少年の興味を惹くような話でもない。
「おそらく、俺のことだが」
 少年の標準語につられ、使い慣れない言葉が無意識にでてくる。黙り込んだ雄市に焦ったのか、少年はおろおろと視線を泳がせた。
「突然すみません。あの俺、いやぼく、京都から来たんです。えっと、前に一度兵庫に視察にいらっしゃいませんでしたか。いたぼ牡蠣の」
「ああ。三、四年も前になるか」
「その時案内した今井さんからの紹介を受けて、来たんです」
 すでにいたぼ牡蠣の養殖を始めている今井という男のところへ足を運んだのは、養殖を始めようと思いたってすぐの頃だった。東北でいたぼ牡蠣養殖をしたいと云うと、「金にならへんぞ」といいつつノウハウを教えてくれた今井は、先祖代々、瀬戸内海で漁業を生業にしている腕利きの漁師だった。
「実は、今井さんとうちの祖父が懇意でして。そこから赤崎さんの話がでてきて」
 賢明に説明をしようとする声が震えていた。しきりに手のひらで耳や頬を撫で、なんとか暖をとろうとしている。
「家が近いから、そっちで話すか」
 着ていたジャンパーを渡すと、少年は最初こそ遠慮したが、おとなしく袖を通し、前をぎゅっとつかんで縮こまった。
「いつからあそこにいたんだ」
「朝の四時です。漁は早いって聞いていたので」
「養殖はそうでもない」
 幸い、家を後にしたばかりだったのでまだ居間が暖かかった。炬燵とガスストーブを入れると、少年はおずおずとストーブの前にひざをつき、つま先を手で温めはじめた。
「京都からきたってな。あっちも冷えるのか」
「そうですね。こちらの比ではないですが、雪も降りますし寒いです。帰ってきてすぐさま炬燵にあたると、霜焼けになるって祖父から何度も怒られました」
 あらかた指先が温まったのか、ジャンパーのまま炬燵に入る。熱いほうじ茶と朝の残り飯で茶漬けを作ってだしてやると、遠慮もせず、手を合わせるなり掻き込んだ。相当腹が減っていたようだ。年にしては大人びた物言いをする少年だと思ってはいたが、飯を無心に平らげる姿は年相応で、雄市は少しだけ話を聞いてやろうという気になった。
 養殖実験を始めるうえで作った名刺を少年に渡すと、きれいに茶漬けを平らげた少年は居住まいを正した。
「赤崎雄市さん、ですね。俺、あのぼくは鳶切柊二と云います」
「わざわざ言い直さなくてもいい」
 すみません、と小さな声で謝ると、柊二はそれきりうつむいて口を閉ざした。雄市も自分のほうじ茶を淹れ、向かい側に座る。云い淀んでいるというよりは、言葉を探しているようだった。
 ガスストーブの静かな振動だけがしばらく響き、ほうじ茶をふた啜りほどした時、柊二が話しだした。
「牡蠣の殻を、下さいませんか。もちろん今すぐにとは云いません。いたぼの養殖が上手くいったらでいいんです」
 いたぼ牡蠣の貝殻は、日本で一般に流通している岩牡蠣や真牡蠣と違い、平たく円形に近い。どちらかというとヨーロッパの牡蠣によく似ていた。
「それなら今井さんに頼んだ方が早いだろう。あの人の牡蠣はそろそろ流通していてもおかしくない」
 雄市の言葉を聞いて、柊二は顔を曇らせた。ほうじ茶の湯飲みで指を温めながら、小さく息をつく。
「今井さんは亡くなりました。去年のことになります」
 思いもしなかったことに、雄市はしばし言葉がでなかった。顔つきは厳しいが、牡蠣のことになると楽しそうに話す人だった。牡蠣の養殖仲間のツテで今井を紹介してもらったときも、「東北なら商売敵にはならへんから」と惜しみなくいたぼ牡蠣の知識を与えてくれた。夜に杯を酌み交わした時は、幼い頃当たり前に食べていたいたぼ牡蠣が希少種になってしまったことを嘆いていた。
「海が汚れとるせいや。ほんまは天然物がとれるように海を綺麗にするべきなんや。せやけど、俺一人の力じゃ養殖が精一杯でな。せめて日本の海からいたぼが消えへんようにしたい。北国でいたぼが生きていけるなら、それでええ」
 ただ一度会っただけだが、雄市が今いたぼ牡蠣を育てていられるのは、あの情熱と共に託された稚貝に、市場価値では計れない使命を感じたからだった。
「脳溢血でした。養殖場で倒れてそのまま。牡蠣の養殖は今井さんの次男が継いだらしいのですが、元々会社員をやっていて漁業は未経験。勿論いたぼ牡蠣を育てるノウハウはなくて、今井さん自身もそれを誰にも伝えていなかったみたいで。それで比較的育てやすい真牡蠣養殖に切り替えてしまったんです」
 自分の稚貝を兵庫に持っていってやりたかった。しかしそれも酷な気がした。もしかしたら嫌々継いだのかもしれない。内情を知らない自分がひょいと顔をだして亡き父の情熱だけ託しても重荷になるだけだ。
 それにいたぼ牡蠣はまだまだ認知度が低い。安定して収入を得るのなら、岩牡蠣や真牡蠣を育てるほうが理にかなっている。養殖が軌道にのった雄市ですら、いたぼ一本でやっているわけではない。生活の為に安定した収入が欲しい。その気持ちは痛いほどわかった。
「本当は今井さんから貝殻を譲って頂く予定でした。でもそういうことがあって途方に暮れていたところ、祖父が今井さんとの会話を思いだしたんです。前に東北でいたぼ牡蠣の養殖をやりたいと尋ねてきた人がいた、と。今井さんの奥さんに頼み込んで情報がないか探してもらったら、この名刺と全く同じものが残っていました。それで俺は祖父の代わりにここへ来たんです」
 柊二は胸ポケットから携帯を取り出すと、その画面を雄市に向けた。
「ごめんなさい。パンフレットは民宿に置いてきてしまって」
 そこには京都鳶屋、というサイトが映っていた。着物を着た厳格そうな老人が八代目として紹介されている。呉服屋のサイトかと、スクロールされる画面を目で追ってゆくと、どうやらそうではないらしい。
「それが祖父です。うちは代々、岩絵具や胡粉(ごふん)を作ってきました。主に日本画や人形、能面の彩色や下地にも使われる絵具です」
 話の途中、急に画面が切り替わった。電話番号と「母」という文字が表示されている。しかし、柊二は急いでその画面を消すと、何事もなかったかのようにまた説明を始めた。
「でたほうがいい」
「いいんです。また後でかけ直しますから」
 様々な絵具の紹介が並ぶなか、柊二は胡粉のページを開く。貝殻を砕いてできた白い粉。やっと雄市にも柊二の話の意図が汲み取れた。
「ここに書いてある通り、上質の胡粉は乾燥させたいたぼ牡蠣の貝殻から精製されます。ただ近年はいたぼ牡蠣がとれないため、真牡蠣や帆立、蛤などを原材料に使用しています。でもやはり違うんです。俺たちの白は、いたぼじゃないとだせない」
 携帯をしまうと、柊二は深々と頭を下げた。
「いたぼ牡蠣の胡粉を蘇らせることは祖父の悲願です。俺も、小さい頃から祖父の仕事をみてきました。美しい白はいたぼの白だと肌で感じてきました。突拍子もないお願いだということは重々承知の上です。でももう、赤崎さんしかいないんです」
「わかった。わかったから」
 学生に頭をさげられるのはあまりいい気分じゃない。雄市は柊二を諭しつつ、ぬるくなったほうじ茶をあおった。
「柊二くんだっけ。いまなんぼ?」
「十五です」
予想はしていたが、余りに若い。しかし、その意志の強さはあの今井の情熱にさえ劣らないものがある。
「あ、えっと」
 雄市の言葉になぜか戸惑ったようなそぶりをみせた柊二は、すぐに面白いですね、と呟いた。
「そのなんぼって、東北の方言ですか」
 今まで気を遣って標準語を選んでいたつもりだったが、やはりお里が知れてしまったと、雄市は頭を掻いた。当事者が標準語だと思っている言葉も実は方言だった、というのは多々あることだ。
「すまん、でないようにしていたんだが」
「いえ、全く。それに、その方言は京都にもあるんです。しかも同じ使い方で。不思議だけど、面白いですね。いたぼ牡蠣もそんなふうに、日本中に広がってゆくんでしょうね」
 不覚にも、雄市はその言葉に感じ入ってしまった。柊二のいたぼ牡蠣に対する情熱は本物だと、確信できた。単身、来たことのない場所まではるばるやってきたことだってそうだ。まだ日も昇らない漁港で、会えるかもわからない自分を待っていたことも。その青さとひたむきさがどことなく危うくもあったが、雄市の腹はもう決まっていた。
「いたぼ牡蠣の養殖はまだまだ発展途上だ。安定した品質のものを作って、それが流通するまで時間がかかる。それに牡蠣は殻付きで出荷するものも多い。君が見込んでいる数を調達できない可能性もある」
「わかっています」
「おそらく早くて三年。努力はするが、もっと時間がかかるかもしれない。それに牡蠣の殻は乾燥させなくちゃいけないんだろう。おそらく柊二くんが胡粉を作れるようになるのは、どう見込んでも俺ぐらいの年になる」
「待てます」
 即答だった。それならもう云うことはない。
 まっすぐにこちらを見据える目に満足し、雄市はよし、と声をかけ立ちあがった。
「じゃあ行くか」
 柊二は突然の声がけに弾かれるように立ちあがると、慌てて残っていた湯飲みの茶を飲み干した。雄市が貸したジャンパーを脱ごうとしたので、そのまま着ておくように伝える。
「俺は別のがあるから」
「でも」
「船のうえはもっと寒い。みたいだろ、いたぼ牡蠣」
 その瞬間、柊二は初めて顔を輝かせ、笑った。その屈託のない笑顔に、雄市はなんとなくほっとしたのだ。

 ネットに入った牡蠣は丸々と大きい。この時期とれる真牡蠣とは正反対の円形。ころころとした貝をあければ、大きな貝柱を持った中身が姿をあらわすことだろう。いたぼ牡蠣はよく渋みが強いと云われるが、雄市が作るいたぼ牡蠣はわりあいあっさりとしていて、牡蠣初心者にも食べやすいと評判だ。海底からネットを引き揚げながら、柊二にまだ試作段階の牡蠣を食べさせたことを思いだした。
そんなに身が太っていない小ぶりのいたぼ牡蠣だったが、柊二はネットを引き揚げるなり「この形です」と目を輝かせた。なにより大切なのは貝殻、ということはわかっていたが、職業柄、やはり中身にも興味をもってもらいたい。そこで雄市はとれたての牡蠣を開き、レモンを搾って振る舞うことにした。
「いいんですか」
「将来の上客だからな。特別だ」
 おそるおそるといった体で、殻つき牡蠣を受け取った柊二をみて、雄市はまず自分が食べてみせた。貝殻からつるんと身を滑らせ、丸ごと口に入れてからゆっくり咀嚼する。やはりまだ牡蠣の身は小さく、味もしっかりはしていないが、新鮮さがそれをカバーしていた。海水の塩辛さとレモンの酸味もちょうどいい。それをみて、柊二も牡蠣の貝殻に口をつけた。身をあおり、それからゆっくりと味わう。
「実は、あんまり生牡蠣って食べたことがなくて。母が小さい頃あたった経験があるから、食卓に牡蠣はでないんです」
 よくある話だ。牡蠣は一時間で二〇リットルもの海水を取り入れるという。海の掃除屋であるが故に、有害物質を取り込みやすい。そういった有害物質を完全に除去して生育し、「あたらない牡蠣」を目指して牡蠣養殖をしている業者もあるほどだ。
「生なのに、ぜんぜん臭くないんですね」
「とれたてを食べたからな」
「なんだかすごく、深みのある味ですね」
 おいしい、と口にしないことが気がかりだったが、初心者に生牡蠣を与えたのだから当然だと思い直した。加熱用の牡蠣は食べれても生牡蠣は苦手だという人も多い。
「牡蠣は一度貼りつくと動かないから、ほかの貝類と違って筋肉がつきにくい。だからこりこりした触感は薄いが、代わりにクリーミーになる。身のほとんどが内臓だから、その味がでるんだ」
 内臓、という言葉に柊二は少し顔を強ばらせた。だがすぐに表情をゆるませ、両手で残った二枚の殻をそっと握りしめた。
「祖父が、同じようなことを云っていました。貝はその身が全て内臓だ。人に食べられてなくなってしまう。だから殻は骨。我々は貝の弔いもしているのだと」
 柊二の手の中の貝殻は、まだ色も黒く、内側は玉虫色に光り、およそ骨と想像はしがたい。ただ、これを日に晒し風化させることにより、雲母のように白くもろく変容することを、もう知っていた。その時間は、およそ十年。
 鼻を啜る音がする。雄市が船の運転席からティッシュをとってくると、柊二は貝殻を握りしめたまま静かに泣いていた。
「祖父も、亡くなったんです。本当は、一緒に赤崎さんを訪ねるつもりだったんです。葬儀が終わって、火葬が始まる前に、いてもたってもいられなくなってここへ来ました」
 不自然な学生服の理由に、雄市はやっと気づいた。ティッシュで鼻をかみながら、柊二は途切れ途切れに話す。
「祖父の骨を、みたくなかった。父も母も、絵具に興味がないんです。芸術より遺産のことばかり、親族と話し合ってる。胡粉だって、それが牡蠣からできようが蛤からできようが、どうだっていいんだ」
 今井や雄市とは違う、だが同じくらいひたむきな牡蠣への情熱を、柊二は宿している。消えそうな伝統の火をどうにかして繋ごうと必死なのだ。雄市はここまでひとりできた柊二の心情を思うといたたまれず、ただ黙ってむせびに耳を傾けた。時折、海風にかき消されそうになる祖父との思い出を、ただ聞き続けた。
 雄市は柊二が落ち着いたところで船を戻し、民宿を引き払わせた。幸い、雄市もなじみのある宿だったので、事情を話すと「寝床を用意しただけだから」と支払いも負けてくれた。
 両親に連絡を入れることを条件に、雄市は家に柊二を招いた。滞在は三日四日ほどだったろうか。ずっと牡蠣の話をした。絵具のこと、祖父や家のこと、未来のこと、それらは全て牡蠣に通ずる話だった。
「俺が必ず店を守ります。祖父の目指した胡粉を作ります。その頃にはきっと赤崎さんのいたぼ牡蠣も育っているはずです。そうしたら、絶対に殻を送って下さいね」
 柊二はそう言って、自分が平らげた二枚の貝殻だけをもって京都に帰っていった。
 月日が経ち、雄市は三度柊二に連絡をした。一度目はいたぼ牡蠣を市場にだす時、二度目は商いが軌道にのりはじめた時、そして三度目は、溜めている牡蠣の貝殻が庭を圧迫しつつあり、そろそろ貝殻を引き取ってくれないかと交渉した時。
 二度は連絡が返ってきた。しかし、三度目は音沙汰がなかった。電話は通じず、メールも宛先不明。もらったパンフレットに書いてある住所に手紙を送ったが、それも返ってきてしまった。
 インターネットで調べても鳶屋という絵具屋の情報はみつからず、サイトもなくなっている。インターネットの地図で調べてもみたが、鳶屋の住所には別の会社の建物が建っていた。
 それでも、雄市は貝を捨てられなかった。家の裏に放置されていた空き地を安く買い、そこにいたぼ牡蠣の殻を晒しておいた。同業者には奇異の目でみられたり酔狂だと笑われたりしたが、気にしなかった。いつか必ず柊二が訪ねてくると、雄市は信じていた。
 だが、その空き地も手狭になってくると、どうしようもなかった。雄市は牡蠣の殻を捨てるようになり、空き地にも出向かなくなった。少しずつ、貝殻が風化してゆくのと同じように、柊二のことも記憶からこぼれてゆくに任せていた。
 船から下りた後、久しぶりに空き地へ足を向けた。学校の体育館ほどもあるがらんとした空き地には、使わなくなった船の道具や養殖用の道具と一緒に、雪山のような白い塊が鎮座している。それが牡蠣の貝殻だった。すっかり風化した貝殻は曇り空の下、ぼうと淡く光ってみえる。
「うちの地域では、故人の三十三回忌に、骨壺に入れておいた骨を砕いて散骨する風習があるんです。祖父は冗談混じりで、それなら最初から粉骨にして胡粉に混ぜてくれ、と笑っていました」
 柊二がそんなことを云っていたのを思いだした。確かに、白く風化した貝殻はさながら骨だ。これだけの、いやこれ以上の貝に生かされてこの十年間ほどを生きてきたのだと思うと、生きてゆくという業に身震いさえする。
 流石に廃棄するのも忍びない。かといって柊二が逮捕されたニュースをみたあとでは、これほどの貝殻をとっておく意味もない。大きく息をついたあと、雄市は深く深呼吸をした。どことなく磯くさい空き地の冷たい空気が、脳を刺激する。
「よし」
 牡蠣の殻を活用できそうな業者を当たってみようと、雄市は決心した。それこそ老舗の絵具屋でもいいし、農家用の肥料として売り込んでもいい。テレビで、貝殻を食べている鶏をみたこともある。まずは運搬の容易な県内にツテをあたり、だめなら外にでるまでだ。
 やってみてそれが金になるようなら、今まで通り牡蠣の殻を溜めて置いてもいい。胡粉という上品な代物にならなくても、今まで自分を養ってくれた牡蠣たちの、十分な供養と弔いになるだろう。そう言い聞かせ、雄市は空き地を後にした。朝よりも心は穏やかだった。翌日、京都から届いた小包みを開けるまでは。

 仕事から戻り、雄市がポストを確認すると、不在票が入っていた。直近に荷物を頼んだ覚えがなく、郵便局に電話で問い合わせてみたが、宛先も住所も雄市のところで間違いないということだった。
 荷物が運ばれ、差出人の名前をみて、真はさらに首をかしげた。
 常盤武山(ときわぶざん)。
 読み方すらわからない名前だ。詐欺かと思い携帯で調べてみると、有数の京人形師だという。京都、という地名にひっかかりながら包みを開くと、桐箱の中から白い羽衣をまとった女性の人形が現れた。
 西日の下で、その小さなかんばせは燐光を放っている。ただただ美しいそのきめ細やかな肌に、雄市はしばし魅入ってしまった。たおやかなほほえみ、人形とは思えない表情や、肩から指先まで流れる曲線の動き。髪の毛一本とっても精巧な作りだ。胸に抱いた牡蠣と、その中で輝く宝玉も、小さいのにまるで本物のようだった。この手の工芸品に疎い雄市にも、一級品だとわかる佇まいだ。
 そうなると尚のこと、なぜこの人形が送られてきたのか気になった。繋がることを祈りながら、差出人の番号に電話をかけてみる。

ここから先は

2,675字
この記事のみ ¥ 200
期間限定!PayPayで支払うと抽選でお得

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?