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私が歯医者を辞めたい理由⑤

 命に別状がなくて何よりですよ───
 事件の翌日、悶々として過ごす私の脳裏に、刑事の言葉が幾度もリフレインする。
 犯人はおとなしく取り調べに応じているという。
 それだけに、わたしにの心身へ向けられた暴力に対する怒りは埋め火のようにくすぶり続け、時折激しく炎を上げて燃え盛る。臨時休診にして過ごす自宅での時間───療養とはほど遠い状態だった。クッションを抱きしめて、ただソファに座り、瞬きもせずに虚空を睨み続ける。何も見てはいなかった。浮かぶのは、犯人との出来事だけ。そして、まるで幻聴のように
「俺は悪くない。俺に落ち度があってたまるもんか」
 という自問自答が耳の奥にこだましていた。

 前回のエピソードは下記リンクから。   
 

予期していたこと、容認できないこと

 まんじりともせずに、という言葉がぴったりだったと思う。ただ呼吸を刻み、心臓の鼓動を感じている、そんな魂が抜けたような私を見かねた家内が、
「ドッグランに行こうよ。せっかく平日を休診にしているんだからさ、きっと貸切りだよ」
 救われた。
 実際、どんなことでも良かったんだと思う。
 歯科医としてのあり方を自問自答するのにも飽きてきたところだった。一も二もなく応じる。
 当時は二頭の保護犬を飼っていた。うち小型のほうを抱き上げるが、腕があがらない。握力も心もとなかった。犯人ともみあった時のダメージなのだろう。ステアリングを握ったのは家内だった。

 やがてドッグランへ向かうインターチェンジに差しかかる頃、私のケータイにケンシロウ刑事からの電話が入る。
《スギウラさん、お知らせしたいことがあるのですが……》
 声の調子から、良くない情報を含んでいることは察するに容易だった。
《犯人は精神科への通院歴がありまして、その……不起訴になる見込みなんです》
 驚きもしなかった。あれをマトモと言う方がどうかしている。脅迫状を投函したボストの推定や生活パターンからの推理は、初見で感じた〝ヤバさ〟を補強したにすぎないのだから。
 わたしは、声を尖らせた。
「では、あいつをとっちめるつもりなら、民事でやれってことですか?」
 やや間を置いて、
《いえいえ、そうじゃあなくて……その……犯人は措置入院ということになると思います。検察の判断になりますが》
 言葉より先に舌打ちが漏れる。
「つまり退院すれば、あいつはなんのお咎めもなく、再び野に放たれるってことですよね?」
 気まずい沈黙を経て、刑事は声を絞り出す。
《……ですがスギウラさん、彼にとって措置入院は逮捕拘留され、刑務所で過ごすより辛いものになると思うのです》
 方便にしか聞こえなかった。
「わたしはこうして負傷して臨時休診に追い込まれたのですよ?  そんな;理不尽で不公平なことって、あっていいのですか?!」
 この言葉を投げつけたあとに、何をどう告げたかは覚えていない。公権力の決定には従うしかない。ケンシロウ刑事だって、上の決定を伝言しただけ。巨大な警察組織に組み込まれた末端の歯車でしかない。わたしは、承服しかねることを承服するしかなかたのだった。
 
 刑事に食い下がったのは、処罰感情からではない。5年もの間、連綿と嫌がらせを続け、それが封じられるや、虎視眈々と復讐のチャンスをうかがっていた───そんな執念深いやつが、はたして治療なんかで更生するだろうか? 精神科病院を退院したばかりの男が、赤ん坊の脳天にサバイバルナイフを突き刺した事件が頭をよぎる。措置入院中も復讐の炎をくすぶらせて、御礼参りにやって来るのではないのか?───つまり、私や私の家族、ひいてはスタッフの安全を確実に担保してほしい。ただ、それだけだったのに。

室内ドッグランにて。今は虹の橋の向こう岸にいるこの子たちが心の支えだった

 ドッグランでの時間は、私に少しばかり考えを巡らせる余裕を与えた。往路では家内も私も無言だったが、帰路では、降り出した雨がルーフを叩く音に負けないくらいの大声が出ていたと記憶している。
 ただ、笑顔を取り戻すには程遠かった。

 インターチェンジを降りる頃には、雨も小やみになっていた。行く手には、見事な虹がかかっている。まるで、傷つき疲れ果てた私を慰めるかのように。
 うるさかった雨音の背後から、カーステレオの楽曲が浮かび上がる。流れてきたのは、脊髄小脳変性症におかされた少女を描いた沢尻エリカ主演のドラマ『1リットルの涙』のエンディングテーマ、『オンリー・ヒューマン』。
 その歌詞が、胸に響いた。
 涙が込み上げてくる。

実際の写真。ドッグランからの帰路。行く手には大きな虹がかかっていた

雨雲が切れたなら
濡れた道 輝く
闇だけが教えてくれる
強い 強い 光

『1リットルの涙』EDテーマ 『オンリーヒューマン』より

 普段は気づかない幸せ。
 ひどい目に遇ってはじめて知る、平凡な毎日のありがたさ。
 行く手に輝く虹を見つめながら、私は家内に訥々と呟いた。
「この仕事はもうダメだな」

暗いロングテール

 臨時休診を1日で切り上げ、通常の診療に戻る。
 ありがたいことに、スタッフは事件のことはいっさい触れないでくれた。私を気づかってのことだろう。だが、患者は違った。診療所にパトカーが停まっている様は、多くのご近所の目に留まり、衆人環視での現場検証には、更に大勢の野次馬が群がってきた。だから患者のなかには根掘り葉掘り聞き出そうとする者もいる。
 勘弁してほしかった。
 それでもなんとか再開初日を乗り切り、カルテをチェックしていると、玄関前に大型のセダンが停まるのが見えた。降りてきたのは小柄な老夫婦。
 本日の治療は終了しました。急患でしたら……と告げるまなく、老いた夫婦は小さな身体を折り畳むように、深々とこうべを垂れる。何者なのかはもう、分かりきったことだった。
「このたびはウチの息子が……」
 聞きたくなかった。わたしは、父親の謝罪を遮って言った。
「あなた方にどんなに謝られても、こっちとしては……」
 よく覚えていない。しかし、何度も何度も平身低頭する姿を見るのが辛くなって───いや、事件のことを忘れたかったのに、何を今さら! との怒りが支配していたわたしは、けんもほろろに追い返してしまったわけだが、そんな自分の小ささ、人としての罪悪感に、しばらくのあいだ苛まれ続けることになる。

 ひと月ほど経たある日、経理の先生が診療所を訪れ、
「あれから、どうなりました?」
 と恐る恐る尋ねてくる。不起訴処分になったことは、犯人の父親から聞いているに違いない。
「どうにも、なにも……。ただ忘れたいだけですよ」
 そう言いながら大きなため息を吹き上げた。
 警察からの報告はない。
 私の事件は別件。本命の事件解決の突破口。
 ならば〝本件〟の脅迫罪で立件されてはいないだろうか───そんな思いに突き動かされて、地方紙の記事を隅から隅までチェックする日々が数カ月続いた。しかし……
 結局、あいつは如何なる罪でも裁かれなかった。

 必ず御礼参りにやって来るに違いない。
 そればかりが頭にあった私は、考えうる阻止装置を構築していく。診療所だけでなく自宅にも。物音に怯え、飛び込みのセールスマンが来ようものなら怒声を浴びせて追い返す。そんな日々が続いた。自分でもどうかしていたと思う。
 そんな悶々とした時間を過ごしていたある日、ラジオから信じられないニュースが流れてきた。
《〇〇市〇〇区の歯科医師、Y田K佑さんが昨日の未明、元患者の男に自宅で襲われ、腹部を刃物で刺される事件が発生しました……》
 Y先生は同級生だった。
 幸い命に別状はなかったようだが、もう居ても立ってもいられなくなった。震える指で、出身大学の電話番号をスマホに呼び出す。同期のまとめ役、N准教授に代表で問い合わせてもらうためだった。
《おう、久しぶり。今日はなんだ? バイトの斡旋ならちと勘弁……》
 呑気な様子のN准教授を遮って、
「Y君のこと知ってる?」
 といきなり本題から切り出した。
 私が聴いた凶報は速報だったらしく、准教授はさも驚いた様子で、Y先生の様子を確認することを快く約束してくれた。

 後日談がある。
 それから半年後、とある会合の懇親会で、私とY先生はたまたま隣り合った席に着いた。互いに降りかかった奇禍については承知していたから、その話になるのはごく自然な流れだった。
 Y先生を襲った犯人は元患者だが、治療上のトラブルはなく、彼は、
「どうして襲われたのか、いまだにわからんのだよ」
 と繰り返した。
 しかも治療終了から3年を経てのこと。何かを感じた私は、
「精神科に通っていたとか?」
 Y先生は首を横に振った。
「警察は強盗致傷で起訴したから、そうなのかな」
 だった。
 しかし、刃物を用意しての侵入は、私の心胆を寒からしめるのに充分だった。もしも、あの野郎が凶器を持っていたなら……刑事の言葉が耳によみがえる。
 立ち向かってはいけない。スギウラさんは幸運だったのだ───と。

一年後

 御礼参りに怯える日々は続いていた。
 間もなく事件から一年。
 忘れた日は一日たりともない。
 Y先生の事件は刑事的には決着している。
 なのに自分はどうだ?
 無敵の人はやがて、野に放たれる。あれだけ狡猾なやつだ。退院するためには症状を偽ることも可能だろう。やられっぱなしで泣き寝入り、これからずっと御礼参りに怯える日々に耐えろというのか?
 カレンダーを見るたびに、そんな責め苦のような思いが去来する。心にけじめをつける必要があった。

 

弁護士事務所の扉を叩くまでに1年を要した

  思えば、脅迫状が届いて最初に相談した弁護士の選択を誤った。 歯科医に得意、不得意分野があるように、弁護士にもそれはある。マツジュン、香川照行が演じたドラマ『99.9-刑事専門弁護士-』の如く、刑事事件を扱うよりは、より金になる───下衆に言うならば、多くをむしり採れる、ふっかけられる民事を得意とする弁護士の方が遥かに多いのではなかろうか。弁護士会のホームページを眺めていると、相続問題や金銭トラブルを得意、専門とする先生ばかりのような気がしてならない。
  どの事務所へ相談すればよいのか。
  迷った挙げ句に、私は弁護士会が運営する無料相談所へ駆け込むことにした。刑事で不起訴ならば、せめて民事で罪を問いたい。損保に勤める知り合いの話では、パンチ一発が賠償額10万円に相当するという。だから要求するのは、それなりの額だ。なにせ私が食らったのは北斗百裂拳なのだから。

面談

  弁護士会の相談室で紹介されたのは、私とほぼ同輩の弁護士。丸顔で人の良さそうな顔をしているが、小振りな唇から放たれる言葉は、その一言一句が舌鋒鋭いものだった。
  事件の経緯を説明する。
  案件は刑事であることを告げると、弁護士の眉根にしわが寄った。
  この先生も、刑事事件は守備範囲外なのか?───
 同じ轍を踏んでしまったかもしれない不安を隠しながら、事件の経緯を説明していく。やがて、
「それでスギウラさん、あなたはどれくらいの賠償額をお考えなのですか?」
  まるでエヴァンゲリオンの碇ゲンドウ司令のような姿勢で、弁護士は眼鏡レンズの底から私を鋭く見据えた。
  私が北斗百烈拳に相当する額を告げると、弁護士の表情がさらに曇った。
「それくらいの額は、傷害事件の賠償額としてありえなくはないのですが、はたして相手側は支払いに応じますでしょうかね」
  私は胸を反らせ、事も無げに
「払うんじゃないですか。父親は資産家らしいですよ」 
 そう告げると弁護士は、
「本日は無料相談です。正式には私の事務所までお越しください。そこであらためてお話ししましょう」
   名詞を差し出しながら、ようやく険しい表情をほころばせた。

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