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私が歯医者を辞めたい理由③

 50㎞以上も離れた町、X市から投函された2通のイヤガラセ手紙。筆跡は間違いなくあの野郎だった。5年も前から憎しみの炎を燃やしていたのか、それとも記憶がフラッシュバックして一方的な怒りに火がついたのか……
 直接クレームをつけてくるならまだ理解できる(いや、できやしないが)のだが、とにかく異常人格であることは間違いなく、それはハナから──飛び込みでやって来た時からわかっていたことだった。

 前回のエピソードは下記リンクから。

 最初から読まれる方はこちらから。

裏付け捜査で得た、どす黒い予感

 カルテに記された野郎の住所を訪ねる。遠巻きに眺めると、広い玄関先に野郎の自家用車が停まっている。次の日も、その次の日も。いつしか野郎の住まいを訪れるのが日課になっていた。
 こんな不毛なことをして何になる?───
 そう思い始めたある火曜日、早朝から野郎のクルマが消えていることに気づいた。そして翌日にはまた戻っている。私はやがて、これが毎週繰り返される行動パターンであることに気づいていく。
 つまり野郎は、イヤガラセの偽装工作をするために、わざわざX市へ出向いて投函したのではなく、X市に生活基盤の一部があるのでなかろうか?
 私は野郎の行動パターンを是が非でも知りたくなった。それはイヤガラセ被害を立証する上で、筆跡に加えて状況証拠を積み上げるためでもあったわけだ。

 野郎が投函した封書は速達ではない。速達と普通便の違いは、郵便局内に於ける処理の優先度だと耳にしたことがある。実際どうなのかはわからないが、当診療所で出したリコールハガキが、翌日には患者宅へ届くこともあるし、翌々日であることもあった。それはリコールに応じた患者から聞き取っていたから、ほぼ間違いではない。もちろん〝こんなこと〟でもなければ、しなくても済む聞き取りではあるのだが。

リコールに応じた患者ひとりひとりに配達日の聞き取りを行うことができたのも、当診療所のリコール率の高さがあってのことだった

 わかったことは、
①投函したポストによって、配達までの時間に差が生じる。
②投函する時間帯には、配達日にさして大きな違いはない。
③患者居住地の違いでは配達日にラグはない。
であった。
つまり、郵便局の窓口や、局の前にあるポストから投函した場合や、局に近いポストに投函した場合は翌日、同じ局管内でも遠隔地───簡易郵便局が集配する地域に投函すると翌日になる傾向があった。
これを踏まえて、私はX市に存在するすべての郵便ポストをリストアップ、そのポストが立地する住所を裏面に記したハガキを、それぞれ当診療所宛に投函したのだった。狙いは、
①野郎が投函した曜日を推定すること。
②ポストによって配達日に違いがあるのなら、野郎の行動範囲をあるていどは絞れること。
 であった。

 X市は広い。当然ながらX郵便局の管轄範囲も。だが、そんなことは自分の計画になんら支障にはならなかった。なにせ、やられる一方だった私が初めて挙げた反撃の狼煙なのだから。診療終了後、そそくさと夕食を平らげ、X市へとクルマを走らせる。気分はすこぶる高揚していた。
 サザンの希望の轍、TMネットワークのGet Wild、浜田省吾のJ-BOY、そしてボン・ジョヴィのLivin' On A Prayerといったアップテンポで高揚感のある曲を大声で、繰り返し繰り返しがなりたてながら。そして深夜に帰宅し、達成感に浸りながら眠りに就いたのだった。
 今にして思えば、一通目のイヤガラセ手紙が届く以前の安らかな眠りだったと思う。

 やがてX市局の消印を押されたハガキが届き始める。
 翌日には当然のように届くはずもない。だから翌々日、さらにその翌日、つまりと木曜と金曜の二日にわたってハガキが届いた。予想した通り、配達日の違いは投函したポストの設置場所。
 X市は大まかに、駅の東側、そして西側の地域、そして、そのさらに西側の大河で隔てられた山手の三つの地域に分けられる。最初に届いたグループは駅の西側───古くからの中心街と、駅東側の新興地域のポストから、その翌日からは、もっとも西側の丘陵地帯からだった。
 この結果を踏まえて、私は野郎の行動パターンを推理してみた。
 イヤガラセの手紙が届いたのは金曜。そして野郎のクルマが消えていたのは火曜。とすれば、野郎が毎週のように通っているのは、X市の丘陵地帯ではなかろうか───
 ハガキを投函した夜のことを思い出してみる。
 丘陵地帯には新興住宅地があるものの、野郎が毎週のように通っている場所とは思えない。とすれば会社だろうか?
 その思いつきに激しく首を振る。
 ありえない。野郎が着てきたのは、いつも上下ともジャージ姿。中年男にして普段着がこれなら、マトモな仕事に就いているはずはない。
だとすれば───
 さらに深く記憶を辿る。
 新興住宅地の他にあったのは、博物館や美術館、公園、大学、病院、そして───
 背筋に冷たい汗が吹き出してくる。私は記憶に刻んだばかりの映像から、ひとつのポストの姿が浮かび上がってきた。
 病院と療養施設、それも心身を病んだ者を収容する巨大な建物の前に、ポストが佇んでいた。夜中だったから、もちろん人影はない。私は、この付近に土地勘があった。かつて障害者治療センターのメンバーに名を連ねていた頃、この付近に研修で何度か訪れていたのだ。
 精神科を基軸とした療養施設、授産所、養護学校……今度はかぶりを振って嫌な予感をふり払うことができなった。眼下に横たわる市街地の明かりを浴びて建つ青白い巨大なコンクリートの塊と、その玄関先で投函口を晒しているポスト。そこに、あの野郎が私への憎しみを込めた封筒を投函している姿が幻となって再生されるのだった。

補強された予感、そして警告

 状況証拠を突きつけられた私は、日を追うごとに口数が少なくなっていった。当然ながら───そんなつもりはなかったが───次第に頭の中にあの野郎とのシーンが細切れに、ゲリラ的にフラッシュバックするようになると売り上げも低迷していった。脳裏に浮かぶのは映像ばかりではない。
 無敵の人
この四文字がコンピュートサインのようにスクロールしては消えていった。売り上げの落ち込みはやがて、担当の経理事務所の目にも留まるようになる。ある日、経理の先生に呼び出された家内は、これまでの経緯と私の現状を吐露したのだった。すると、経理士の口から予想だにしない事実が告げられた。
 偶然だが彼は、あの野郎の父親が営む事業も担当していたのだった。そして、あの野郎が人格に異常をきたしていることも承知していた。やがておもむろに、
「気をつけてください。あの人は気が変になっていますが、頭はキレると思っていい。病んでいるのは情緒だけなんです。障害者手帳や障害者年金だって自分で申請したくらいですから」
 と家内に告げた。
 そして、経理士の言葉を伝言された私は思わず呟いたのだった。
「気をつけろって言われても、どうやって気をつければいいんだ?」

経理士の警告は短いが、無敵の人の厄介さを端的に言い表していた

 障害者手帳を持っている者が、不相応な高級車やスポーツカーを所有している様子をしばしばみかけることがある。病気を理由に、自由気ままに放牧され、なおかつ国の制度によって手厚く守られている。野郎はまさに、この制度の恩恵に浴する無敵の人にほかならなかった。
 前にも書いたが、私はレイシスト(差別主義者)ではなかった。そして今も、地区にある三つの障害者施設の担当医でもある。だが、この時ばかりは、精神を病んだ者への恐れと嫌悪が、私が医療人として蓄えてきた弱者への寛容さを残らず追い出してしまっていた。
 ちょうどその頃、精神科を退院して間もない男が引き起こした、ふたつの凶悪事件が記憶に刻まれていた。
 たまたま立ち寄った商業施設で、赤ん坊の脳天にサバイバルナイフを突きたてた事件。その切っ先は下顎にまで達するほどであったと聞く。
 もう一件は、やはりたまたま歩道橋の上に居合わせた幼子を、交通量の激しい往来へと投げ落とした事件。
 いずれも責任能力が問われた。
 後者は、精神鑑定の末に、罪を減じられたか、不起訴になったと記憶している。前者は───
 頭頂部から下顎にまで達したナイフ、その凶行を側で目撃せざるをえなかった母親のことを思うと、目と耳、そして心を塞いでしまったのだった。

 そして、その時はまもなく訪れた。

対決

 私は木曜を休診日に定め、患者を診ない替りに技工に取り組んでいることがある。その日も、総義歯の排列をしている時のことだった。
 突然、エントランスに設置された呼び鈴が連打された。
 激しく、短い間隔で、執拗に。
 運転免許を持っている人ならおわかりになるだろうが、同じクラクションでも、ちょいとごめんなさいよ的な鳴らし方と、悪意や憎しみを込めた鳴らし方がある。この時わたしの耳と精神に届いた呼び鈴の音は、明らかに後者の意を含んでいた。

あの日を最後に、このインターホンがベルを鳴らすことはない。電源を落としたままになっている

 ただならぬ予感に、わたしは勝手口からエントランスを覗き込んだ。
するとジャージ姿の男が、まだ呼び鈴を連打している。そして私に気づいた男は、最初に
「オイ!」
と言った。他人に対する時の第一声が「オイ」ではマトモな神経の持ち主であるはずがない。そして三白眼。ハゲ散らかした髪。すぐにわかった。
 あいつだ!───
 あの野郎は、怒気を含んだ声を投げつける。
「オイ、ここの歯医者はどうしていつも休みなんだ!?」
いつも休み……このひとことで理解した。
 無言電話の犯人はコイツだったのだ、と。野郎からの電話は無条件でファックス回線へ転送される設定にしていたから、電話がつながらない理由を、いつも休みだからだと思ったのだろう。無言の圧力をかけたくてもその機会を奪われている。野郎にしてみればフラストレーションが溜まったに違いない。
 私に恐怖心はなかった。
 むしろ怒りが全身を突き動かしていた。
 割り込み同然の飛び込み初診、治療へのいわれなきクレーム、無言電話、嫌がらせの手紙、恐らく草花の被害もコイツの仕業。そんな思いが自制心を取り払っていた。
 私は大股で野郎に近づいていった。
「お前は誰だ? 」
 わかっていた。それでも敢えて尋ねた。
 すると野郎は、
「誰だっていいだろう。お前には関係ないことだ」
 野郎は薄ら笑いを浮かべていた。
 そのゆがんだ口元が、どうだ俺が誰かわからないだろう?、と言っているようだった。
 いや、わかっている。お前の名は〇〇〇〇、住所は〇〇〇〇〇〇だ─── と告げたかったが、わたしは敢えて
「お前は誰かと訊いている」
と詰問を重ねた。
 もちろんマトモな返答は期待していない。もしも偽名を名乗ろうものなら、正しく名を告げてやるつもりでもいた。
 なのに野郎は、わたしの期待に反して、誰だっていいだろう、を繰り返す。顔と顔が触れんばかりの間近でにらみ合いながら こんな押し問答が数分続いただろうか、そのうちにわたしの内面で、ある疑問への解答が用意されつつあった。
 嫌がらせの手紙───いや、脅迫状と言っておこう。どうして5年も経ってから投函されたのか。そして今、野郎は目の前にいる。どうしてこのタイミングなのだ?
 あれから5年……5年───そうか、だから5年なんだ!
 耳の奥に経理士の警告がよみがえる。
 〝気が変になっていますが、頭はキレると思っていい〟
 
この頃、たびたびニュースで取り上げられていたウイルス性肝炎訴訟。被害者はカルテの有無で救済されたり、されなかったり。医療機関に於けるカルテの保存義務は5年であることが救済への障害になっていた。野郎は、このことを知っていたのではなかろうか?
そして木曜。休診日のこの日、診療所にはわたしひとりしかいないことを承知でやって来たのではないのか?
 そう思うと、ますます憎しみと怒りが湧いてくる。わたしは一歩も退かぬどころか、まるでメジャーリーグの監督が審判に詰め寄るときの如く、ガンつけながら身体全体で野郎に迫っていった。
 野郎の三白眼が泳ぐ。ガンの飛ばしあいでわたしは勝利したのだった。そして私の肩や腕をつかみながらも、ゆっくりと後退していった。そしてしまいには、乗ってきたクルマに押し込めるのに成功した。
 医療機関で悶着を起こすモンスターペイシェントに共通するマインドが、医療関係者は決して反撃してこないと思い込んでいること。だからこそ暴言や不当要求を吐けるのだが、わたしはその常識を、いや、常軌を逸する行動に出た。それが野郎を退散させるのに一役買ったのだろう。
 おかしなことに、ちゃんとシートベルトをして、左右を確認して静かに発進、去っていく野郎の後ろ姿を睨めつけながら、即座に110番をダイヤルした。
「不審者に襲われました───。これまでにもしつこい脅迫も受けています。ええ、そうです───犯人の名前と住所は───」 
 一言一句、鮮明に覚えている。
 警察のオペレーターは緊急配備を敷くとともに、現場(診療所)でパトカーが到着するのを待つよう告げた。
 5分、10分……パトカーはやってこない。最寄りの交番からなら数分、本署からでも5分強で到着できるはず───いや、実際はもっと短かったかもしれない。それだけ私の精神は追い詰められていた。
 今か今かと、県道を行き来する車列を目で追う。
 すると、背後からクルマのドアを閉める音が聞こえた。
 振り返る。
 そこには野郎が、あの三白眼をたぎらせて私を睨んでいた。

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