私が歯医者を辞めたい理由⑦
最凶モンペの襲撃は、肉体よりも心に深い傷を残し、歯科医という仕事を再考させる契機になったのだが、それでも妻子を抱えた身としては診療所を投げだすわけにはいかない。監視カメラをはじめ様々な阻止装置を設置したものの、それでも患者を受け入れる立場上、門戸は開いておかねばならない。ありていに言えば、悪意を持った者の侵入を許すとも玄関を施錠するわけにはいかないのだ。
前回エピソードはこちらから。
数年前、地区歯科医師会から、お昼休み中に窓口現金を狙う窃盗事件が会員の診療所で頻発しているとの警告がなされた。犯行の現場は隣接区。そのアナウンスがなされた約一カ月後の昼休み、設置したばかりのカメラから不審者の到来を告げるアラームがスマホに届いた。
当診療所のスタッフは、昼休み中は自宅に帰っている。みな家庭を持つ身の上だから、3時間もの長い昼休みを無下に過ごすのはもったいからだ。つまり昼の留守居役は私ひとりということになる。私は徒歩で診療所へ通っているから、従業員駐車場はもぬけの殻。照明を落とし、玄関はカーテンを閉めてはあるものの施錠はしていない。一見すると、無人のように見えるのだ。小規模な診療所が多い当地にはありがちなことだった。歯科医師会でアナウンスされていた事案は、まさにこの空白時間を狙っての犯行だったのだ。
技工室でワックスアップしている最中だったと記憶している。胸ポケットに入れたスマホが警告を発した。画面の中では、自転車に乗った小太りの人物が、玄関前であたりをうかがっている。自転車から降りるでもなし、走り出すでもなし。監視カメラをしきりと気にしている。その様子をカーテンの隙間から撮影したのが下記の写真。
まったく見覚えの無い人物だが、患者である可能性も捨てきれない。私は明かりを落とした受付にひとり腰を据え、不審人物が玄関から入ってくる瞬間に備えた。二重鍵を設置した勝手口のロック状態を確認し(下記写真)、
待合室と診察室を隔てるドアを施錠。そして手には、特殊警棒代わりのシャッター下ろし棒(下記写真)を握りしめて。
診療所の全周を映し出すモニターを眺めていると、まるで孫悟空を弄ぶお釈迦様にでもなったような気分になる 。不審人物はカメラの死角に自転車を停めると、玄関から入ってきた。躊躇う様子はまったく見られない。つまり、昼休み中の歯医者は施錠されていないと確信しているのだ。隣接地区で発生した窓口現金を狙った窃盗は、この盲点を突いたものと考えられる。同業者は気をつけられたい。
インターホンを押すことなく、カーテンをくぐり抜け、さらにヘルメットを脱がずに三和土を踏んだ時点で、不審者であるのは確定だった。事が済めば、直ちに自転車で逃走するつもりなのだろうから。私は受付からシャッター下ろし棒を構えて立ち上がり、
「なんぞ御用ですかな?」
と気勢を制すると、不審者はかなりギョッとした様子で身体をこわばらせ、
「……あの、歯が……痛くて……」
と弱々しく答える。
「痛いのは歯じゃなくて、あんたの心ではないのですか?」
不審者は答えない。さらに私は皮肉に追い打ちをかけた。
「それとも、懐具合が痛いとか?」
すると不審者は踵を返して去っていった。
追いかけはしなかった。面倒に巻き込まれるのはもう、こりごりだった。かの人物は、隣接地区で歯科医院を荒し回っている窃盗犯であるかもしれない。警察へ連絡すれば社会正義に貢献できたのかもしれないが、そんな気概よりは心の安寧のほうが優先された。ここまで6回にわたり、最凶モンペとのエピソードをお読みいただいた方ならば、私の気持ちはご理解いただけると思う。
付け加えたいのは、追いかけないでほしいということ。
何年か前、東京駅構内のコンビニでパンを盗んだニートを追いかけた店長が犯人を取り押さえると同時に腹部を刺されて失血死している。またごく最近、高給腕時計を盗んで逃走を図った中国人に立ちふさがった宝飾店々長が、やはり腹部を刺されて命を落としている。
私も刑事に戒められたが、逃走しようとしている犯人を追いかけてはいけない。絶対に。
それでも賊に襲われたなら
同期の口腔外科の准教授が、
「俺、患者に襲われたときに備えて少林寺拳法をやっているんだ」
と打ち明けたことがある。頭頸部腫瘍のオペで拡大切除されたことに不満をいだいた患者に言いがかりをつけられたことが切っ掛けかけだったようだ。その患者は〝その筋〟の人だったらしく、手下を引き連れて病院へ恫喝に来たとのこと。
たしかに鍛えた肉体に武道を身につけるのは、賊への対処には最も有効だろうが、『ザ・ファブル』の主人公・佐藤アキラや、寺沢武一さん描くところの海賊コブラのような強靱で天才的な身体能力の持ち主でなければ万全とは言えない。古い話だが、日本プロレス界の始祖・力道山がチンピラの凶刃に倒れた時には、無敵を誇ったプロレスラーの肉体も刃物には敵わなかったことに全国から驚きの声があがったと聞く。
しかし、前述のように監視カメラを厭わずに侵入して来られたら、やはりいざという場合の備えは必要だ。
大阪・池田小に於ける児童無差別殺傷事件を契機に、殆どの小学校は刺股を備えているはずである。誰でもいいから殺したかった、と通り魔の多くは口にするが、誰でもいいは詭弁だ。傷つける対象が小学校の児童だったり、やまゆり園事件のように、抵抗できない弱者ばかりが狙われる。医療機関、とりわけ小規模な歯科医院では、先生をのぞけば相手は女性スタッフばかりと想定されるるから狼藉が発生しやすいのではなかろうか。
刺股は阻止装置としては単純であるが、安価で有効なアイテムだと思うので是非とも備えていただきたい。できれば院長を犯人役にして訓練してみるといい。非力な女性スタッフでも犯人の制圧には絶大な威力を発揮することがおわかりいただけると思う。
上図は当診療所の受付に常備されているカプサイシンスプレーだが、こんなものはコケ脅しだ。事が起こってからしか機能しない。防刃ジャケット、防刃手袋、スタンガンも同様だ。これらアイテムを咄嗟に構え、身につけることが可能なのか考えてみてほしい。
私はこれまでにネットや業界誌、会報などで何度かモンスターペイシェントへの備えを述べてきたが、その冒頭でまず語るのが、モンスターペイシェントは『医療者が決して反撃してこないとタカをくくっている』ということだ。よって、やったらやられると覚悟させること、狼藉はすべて実名入りで世間に晒されると思わせることが肝要だと思う。
匿名SNSで言葉による暴力が絶えないのと同じだ。スマイリー菊地さんへの誹謗中傷が実名で行われたのなら、あれほどの炎上はなかったし逮捕者も出なかったはずだ。木村花さんだって自らをあやめることもなかっただろう。もっとも最近のX社はイーロン・マスク氏の意向もあり、些細なことでもアカウントの開示には易々と応じるようではあるから、他者への誹謗中傷で憂さ晴らしをしている方はご留意されたい。
やったらやられると思わせる───だから私は、尖端がカギ状の折れ曲がったシャター下ろし棒の方が、特殊警棒より威嚇においては効果的だと思っている。そう、武力は威嚇において最も威力を発揮するのだ。だからロシアも、西側諸国の支援を想定していなかったからこそウクライナへ攻め込んだのであり、互いに核を持ち合う米中が直接砲火を交えることもしばらくはないだろうから。
最も大切な防犯対策は情報共有である
前述(第4回)のとおり、私は最凶モンペに襲われた直後にSNSで地域の同業に警告を発している。歯科医師会の組織率が低迷の一途をたどっている昨今に於いては難しいかもしれないが、是非とも近隣の歯科医院、できれば医科開業医・病院との情報共有はお勧めする。
可能ならばメーリングリストではなく、速報性が期待できるグループLINEやMessenger が望ましい。
最凶モンペ襲撃の時には、犯人の風体を知らせることで警戒の一助になったし、今回の窃盗犯では、同じ人物が複数の診療所を物色したことが報告されている。
私がモンペに襲われる以前から、問題のある患者───例えば、治療に難癖をつけて自費の料金を踏み倒したり、痛みがあると訴えて強訴ったりする者、意味不明の要求をする者などは事前に把握できるようになっていた。
ここで注意してほしいのが、実名・実住所による個人情報を共有するのは個人情報保護法に抵触するということ。しかし以前、都内の飲食店で問題になった予約すっぽかし電話番号の情報共有のように、イニシャルや風体、個人名とヒモ付けない電話番号、保険証の種別による情報共有は許されることは、東京都歯科医師会の顧問弁護士によって確認されているので、是非とも活用していただきたい。もっとも、グループLINEやフェイスブックMessengerへの参集の方がより困難であろうが。
問題患者は地域でも問題視されている
前述のとおり、当診療所の経理を担当している事務所は、私を襲った犯人の父親の事業も担当していた。だから事件が起こる前に、経理の先生から断片的ではあったが情報はもたらされていた。事後にわかったことだが、経理の先生の他からも、いろいろと暗いエピソードが狭い地域で共有されていたようである。
特に、不特定多数を受け入れざるを医療機関に於いては、問題のある人物の情報は蓄積されている場合が多いであろう。
現に、負傷した旨の診断書を作製してくれた整形外科医院においては、犯人は、時間外に救急車で乗り付けて診察を要求し、断られた挙げ句に、市中心部の救急指定病院へ救急車を走らせている。「痛い」と言われれば救急隊も応じざるを得ないのだろうが、迷惑を被った病院の診断は痛風だったとのこと。
少数ながら、こういった社会に負担をかける迷惑な人物は必ず存在する。日頃からのコミュニケーションが大切なのは今さら言うまでもない。
最強の城壁はご近所なのかもしれない
丑三つ時に不審な人物が診療所の周囲をうろついている、という情報はご近所からもたらされた。「痛い」、「高い」といった、ややもするとネガなイメージがつきまといがちな歯科ではあるが、日頃から近隣の住民とのコミュニケーションは密にしておいて損はない。正直、公園の草刈りや祭礼行事など面倒は面倒なのだが、それを補って余りあるものがあるというのが私の実感だ。
開業して間もない頃、近くの高校に通う女子生徒を狙った下半身露出狂が出没したことがある。何人か女子生徒が逃げ込んできたが、地域コミュニティで事前に〝駆け込み寺〟として当診療所を登録しておいたからでもある。その後も露出狂は何度か出没したが、地域ぐるみで警戒していたおかげで、現行犯逮捕に至っている。
防犯は地域ぐるみで、というスローガンは伊達じゃないのだ。
最後に付け加えたいのが、個人情報の発信はほどほどに、ということ。
中核病院の医師たちの間では、居住地を患者に知られることは御法度になっているようだ。患者と私的に接触しては診療行為に支障を来すばかりではなく、場合によっては医師自身、ひいては家族にまで悪影響が及ぶことを懸念しての事である。だから極端な例では、自分の住所がネットなどに露出した場合に、直ちに引っ越しを検討する医師もいる。まったく嫌な世の中になったものだ。
よって、診療所のホームページにスタッフの実名、プロフィールを載せることは推奨できない。集合写真ですら危ない。検索ツールで個人を特定することは比較的た易い作業だ。セクシー女優の深田えいみさんが、出勤前の何気ないワンショットをSNSに載せただけで、居住地を特定され引っ越しを余儀なくされている。ネームプレートもしかり。これはもう多くを語る必要などないだろう。
以上で、私が歯医者を辞めたい理由のひとつを締めくくるとする。
この一連の文章は、モンペに心を悩ませる、とある同業のために書き始めたのだが、結果的に心の奥底に封印してきたトラウマを掘り起こすことになってしまった。
それは、わかっていたことだが、やはり疲れた。
しかし、これまでに書いたブログ、コラムのうちで最も反響あったのも事実で、多くの業界人の心により強く響いたのだろう。それを糧にしばらく心を休めたいと思う。歯医者を辞めたい理由は他にもあるが、続きは、しばらく時間を頂戴したい。
ここまでお読みくださった方々には心より謝意を表します。
それではまた。
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