「大好きだけど苦手なこと」を諦めた瞬間に視界が開けた
わたしは、生粋の「苦手克服マン」だった。
とにかく大小さまざまな苦手を克服しながら生きてきたように思う。
何故こうなったのかというと、単純にわたしが「苦手なことがあまりにも多すぎる人間だから」だ。
何をするにも非常に不器用でなかなかうまくできず、きっとこれは生まれつきだろう。
そんな「苦手克服マン」のわたしが、どう立ち向かっても克服できなかった苦手があった。
それが
⚫︎新卒で入った会社の仕事
⚫︎人生で一番熱中した趣味
だった。
ここの話を始めると自分語りが止まらなくなるので、この記事では割愛するが
まさに、人生の中心に据えたいと思い、尽力したものだ。
数多の苦手を克服し、粘り強さには自信があったはずの私だが、この二つには根を上げた。
諦めるまでに前者は7年、後者は15年かかった。
諦めた瞬間、フッと身体が軽くなった気がした。
苦手克服マンの生い立ち
わたしは何も取り柄がない少年だった。
たとえるなら
「あやとりと射撃が苦手なのび太くん」といったところか。
通っていた公立小学校で、成績はクラス内で下から2番目。
当然のごとくスポーツもダメ。
幼稚園のかけっこのときから、いつもみんなの背中を見て走っていた。
運動会や体育は地獄の時間だった。
幸いなことに、仲良しのやんちゃ坊主に守ってもらって小学校生活を過ごしてきた私だったが
「さすがにこのままじゃマズい」と思い
中学校に上がる頃、塾に通い始め、中学校で陸上部に入部した。
それから3年、中学校を卒業する頃には、成績はクラスで5~6番目くらい。走るのは真ん中くらいになっていた。
それほど大したことではないが、勉強の方は特に手ごたえを感じた。
そして、これが人生で初めての「苦手克服」という経験だった。
恥ずかしながら、こんなあまりにも些細な少年時代の体験を今でも鮮明に記憶している。負け続けていた人生の中で、衝撃的な経験だった。
その後、入った「ソコソコ賢いはずの高校」を辞めることになったが、それはまた別のお話。
人生の序盤で、このような経験をしたわたしはどういう人間になったのか。
そう、圧倒的な「苦手克服マン」になった。
幼少の頃から
「自分に得意なことなんて存在しない」
と、自然に植え付けられていた。
卑下でもなんでもなく、それが当たり前のことだった。
実際、自分の目に映るものに得意なものなど存在しなかったのだから。
だからこそ、私は若いうちから
「自分はこの世のありとあらゆる苦手を克服して生きていくしかないのだ」
と考えていた。
そして
「苦手でも大抵のことは克服できる」と思い込んでいた。
「好きだけど苦手」ってシンプルにめちゃくちゃつらい
これは肌で体感したことがある人にしか伝わらない感覚かもしれない。
「大好きなのにできるようにならない」
経験がある人にはわかるだろうが、なかなかにつらい。
もしそれが「嫌いだし苦手なこと」だったのなら
「ま、最低限やれればいいか」と割り切れるだろう。
自分に合わないなと感じたなら、さっと離れるもよい。
しかし、好きなことや憧れていることならば、そうもいかない。
なまじ好きであるために、執着してしまう。
もっとうまくやれるようになりたいと願ってしまう。
諦めたくないのだ。なぜなら好きだから。
あまりにも単純で、原始的な理由。
もし、その「苦手なこと」を困難の末に克服できたのであれば、とてもよい思い出になるかもしれない。
また、始めてから1年や2年そこらのことならば「もう少し頑張ろう」とまだまだ粘り強く努力できるだろう。
しかしこの「できない期間」は、長引けば長引くほど苦痛は大きくなっていく。
しかも時間と比例して徐々に大きくなっていくわけではなく、あるときを境に急激に増大する。その「あるとき」とは、具体的にいつ頃とは言えない。各々がそれに直面したときに、はじめて知覚する。
だからこそ「ちょっとこの期間が長引いているな」と自覚し始めた場合は注意してほしい。
「好き」という感情は間違いなくプラスで語られるが、ときに難儀なものだと思う。
意外と、仕事にも「才能」って必要?
「才能」というほどのものが必要かと言われれば疑問が残るが、いわゆる「適性」というものは必要だと考えている。
「物事には向き不向きがある」ということ自体は私も子供のころから分かっていた。
でもそれは、例えば「100mを10秒で走る」とか「大ヒット曲を作る」とか、ひとことで言えば才能だ。
私は「一般的なサラリーマンに才能も何もない」と思っていた。
正直に申し上げると、仕事というものを少々ナメていたのかもしれない。
世の中の多くの仕事に、そんなのは関係ないだろうとタカをくくっていた。
実際に、類まれなる才能まで必要ないというのは正しいのだろうが
私の場合は、よりによって全く適性のない仕事を選んでしまったのかもしれない。
「いい大学に入れた人」の落とし穴。凡人の目線
私とは無縁の世界だが、一般的に、「高学歴の、頭のいい人」が就く仕事といえば
弁護士、医師、国会議員、研究者、ITエンジニア、商社、金融、マスコミ……などなど他にもたくさん思い浮かぶだろう。
よくよく考えてみると、どれもこれも、働き方も業界の空気感も全然違うように思えるのだ。
大げさに例えて言うなら、同じ「陸上競技」という括りの中での
「ハンマー投げ」と「フルマラソン」くらい違うのではないだろうか。
だから、「いい大学に入れた」からといって
上で挙げた仕事が、すべての人に向いているというわけではない。そう思うのだ。
もちろん、やりたいことや自分の夢を叶えるため、高収入のために、憧れの仕事を目指すのはとっても素晴らしいことだが
今一度、「自分に何ができるか?」を見つめ直すことも、とても大切だと私は思う。
特定の誰かについての話をするわけでは全くないが
「輝かしい経歴をもった政治家」を数人、思い浮かべてほしい。
その中には、残念ながらあまり国民に支持されなかったような人がいるだろう。
見当違いの政策を打ち出したり、不祥事を起こしてしまったり……
ニュースを観るたび、「優秀な人のハズなのに、なんで?」と疑問に感じるはずだ。
それはきっと、彼らが「政治家という仕事と相性が悪かったから」なのではないだろうか?と私は考えるようになった。
学業やそれまでの仕事で優秀な成果を出してきたということは、きっと間違いないのだ。その能力の高さは本物なのだろう。でも政治家という仕事はそうではなかった。ということだ。
もっと細かく言うと、政治家の仕事の中でも「○○省の長官」というポストは性に合っており極めて優秀な結果を残したが、「総理大臣」は合わなかった、などのケースもあるのかもしれない。
「好きだけど苦手」なことをやる上で大切だと思うこと
先述の通り、苦手なことをやるというのはしんどく
さらに、「それが好き」となれば尚つらいことだろう。
それでも、かつての私のように諦めきれないという人に向けて
少しでもその心が軽くなるように、また逃げ場になるような案を提示してみたい。
「克服可能な苦手か?」それとも「克服困難な苦手か?」を考えてみる
もしも、いま挑戦しているものが「克服可能な苦手」であったのなら、あなたの「つらい経験」はサクセスストーリーとして語れるだろう。
でも、残念ながらそうでない場合もあるということは、経験者として頭に入れておいてほしい。
(私の経験に基づく)克服が困難な苦手の特徴
1.同じミスを繰り返す
2.いつも雲を掴んでいるような感覚
3.期限を決める
4.色々なことを並行してやってみる
1.同じミスを繰り返す
「ミスをしたくてする人」など、おそらくいない。
同じミスともなれば、余計にそうだろう。
ゴリゴリに自己肯定感も削れていってしまう。
ただ、これについてはおそらくあなただけが悪いというよりも
「単に相性が悪い」という可能性が高いように思える。
私は昔から気が散ってしまうタイプだ。
例え話としてザックリ単純に言うと、緻密な作業とは相性が良くない。
そして、この「気が散ってしまうタイプ」というのは
きっと矯正することは、ものすごく困難なのだ。
物心ついてからずっと付き合い続けている、ある種の個性・特性だ。
間違った方向に行くと、この「個性・特性」を変えようとして、さらに自己肯定感を下げてしまうような負のスパイラルに入りかねない。
2.いつも雲を掴んでいるような感覚
これは一般論とかではなく、私の個人的な経験によるものだ。
上司の話、仕事の全体像、今自分がやるべきこと
なんだか全体がボヤけてはいないだろうか。
合わない眼鏡をかけて、柔らかいクッションを叩いているかのような
雲を掴むように仕事をしていないはだろうか。
自分の力量に対して、やることがキャパオーバーであった場合もあることだろうが、これが続くなら要注意だと私は思う。
これを挙げた理由は、私が「向いていない」と思ったことをやるとき、だいたいこの状況に陥るからだ。
実際、私のような人間でも向いていた物事では、初心者の頃からこんなことは全く起こらなかった。
3.期限を決める
こういう話をすると、必ず
「あきらめず、長く続けた人が成功する」というご意見をいただく。
まったくもってその通りだ。
そのご意見は100パーセント正しいと、私も思う。
しかし、時間は有限なものだ。
何より、心のHPだって有限なのだ。
だからこそ、ときには「損切り」をすることだって立派な手段の一つだと私は思う。
それを諦め、空いた時間でほかのことにチャレンジする。
これが間違っているなどとは、私は到底思えないのだ。
だからこそ、アバウトにでも期限を決めておくとよいのではないだろうか。
「とりあえず半年やってみる」とか「あと二年やってダメだったら離れる」とか……別に、そのとき諦められなかったら期限を延ばしたってよいだろう。
あなたの心と人生の残り時間などと相談して決めればよいと思う。
4.色々なことを並行してやってみる
別にこれは、まったく違うことをしようと言っているのではない。
例えば、ヒップホップのダンスをやっているのであれば、ジャズダンスをやってみる。日本舞踊をやってみる。社交ダンスをやってみる。
ギターを弾いているのであれば、ベースに挑戦してみる。マンドリンもアリかもしれない。
私は、小説を書こうと思ってnoteを始めたが、結局エッセイや日記のようなものも書いている。
「いやいや、全部おなじじゃん」と思われるかもしれない。
でも、やってみると結構ちがう。
わたし個人の感想だが、どれも違う難しさがあって
そしてどれも違う楽しさがある。
ものにもよるだろうが、安心してもよいと思っている。
もちろん、茶道とクラブDJのように、全く違うことをやるのもよいだろう。むしろ刺激的かもしれない。
さいごに
「好きこそものの上手なれ」
「継続は力なり」
こうした言葉は、昔から長きにわたって多くの人を勇気づけている。
それが好きで頑張って続けていれば、いつかできるようになっている、と。
実際、この言葉に励まされて大成した人も少なくないはずだ。
私もかつてはこれらの言葉を信じ、また自分自身の能力を信じて生きてきた。
でも7年続けた仕事は、最後まで同じミスを繰り返した。
15年続けた趣味に至っては、始めて2年目の人に簡単に抜かされていった。
この間、とにかく自分を責めて責めて責め続けた。
不甲斐なさで地に落ちた自己肯定感。
正直にいうと障害も疑ったほどだ。
だからこそ、私はあえて言ってみる。
「諦めるのだって、決して間違っていない」と。
繰り返すが、人生は有限だ。「心のHP」も有限だ。
あの漫画の名台詞のように、もしも人生が5回くらいあったなら
そのうち1回はそこに集中するのもいいのかもしれない。
でも、おそらく人生は1回なのだろう。
だからこそ時間を区切って、ある程度そのラインを超えたら損切りする。
私には、それが健全なように思えるのだ。
こんなことを長々と語る私を
「夢のないダサいオッサンだな」と罵ってくれてもいい。
ただ、できれば、心の中だけにしてほしい。なぜって、傷つくから。
いや、むしろ「こんな夢のないオッサンになりたくない!」と
私を反面教師に、好きなことに熱中し、どんどん理想を叶えていってほしいくらいだ。
だけど「そろそろ疲れたよ……」という人だって、きっといるはずだ。
「あきらめなさい」とは言わない。言えるはずがない。
でも、好きだからこそ、一度距離を取ってみるのも悪くないと私は思っている。
「好き」や「憧れ」という感情も、稀に難儀な姿を見せるのかもしれない。
駄文の書き殴りになってしまった。
どうかお目汚しを許してほしい。