「打たれ弱さは見せないほうがいい」と、打たれ弱い私は思った【説教編】
失敗すると悲しい。人に迷惑をかけてしまうと悲しい。
自分のふがいなさをまざまざと感じ、落ち込んでしまう。
特に、同じ失敗をして怒られたときなど「情けない」という感情で心が埋め尽くされる。ただでさえ強い自己嫌悪がさらに増大する。
かつて私は、本当に打たれ弱い人間だった。残念ながら今でも打たれ強い方だとは言えない。
でも一つだけ大きく変わったのは、その弱さを他人に見せなくなったことだ。そしてこのように変わったことは、きっと間違っていないどころか、大きく成長できたとさえ思っている。
打たれ弱さは、特に「説教好き」に見せてはいけない
説教がやたら長い人、あなたの周りにいるだろうか。
打たれ弱さを見せない方がいい場面はいろいろ思い浮かぶのだが、中でも「説教好きな人」に対してそれを見せるのは禁物だと私は考えている。
あらかじめ言っておくが、この記事ではところどころで説教に対しマイナスイメージのような内容が出てくる。
しかしこの記事は「説教を拒絶しろ」という話ではなく
「説教を聞いて悲しまないように!」という応援の記事になっているということを念のためお伝えしたい。
全ての説教を拒否できる強さがあるなら、それもよいだろう。
しかし、「なかなかそれができない」という人だってたくさんいるはずだ。その中でも「どうも打たれ弱くて……」と困っている人は、きっと少なくないだろうと私は思う。
この記事はそんなあなたに向けての記事である。
「心が痛めがちな説教と、せめてこんな形で付き合っていければ」という提案をしていきたい。
説教大好き元上司の話
私が新卒で入った会社で、新入社員時代の教育係をしてくれた上司が、絵に描いたような説教好きだった。この上司からは毎日のように説教されたものだ。
彼は、一度説教を始めると止まらなくなっていくタイプだった。話の途中途中で脱線をしては、説教から解放されるまでに一時間ほどかかったこともある。
当時、私はお世辞にも仕事ができる人間ではなく、とにかく必死で喰らいついていこうと、彼の言葉を全身で受け止めていた。そうやって傷ついては落ち込んでいた。
しかし、後々仕事を覚えていって当時を振り返った際に「あのときの失敗って、あんなに大袈裟に言われる必要なかったじゃん!」と思うことが多々あった。もちろん、私が新人だからミスしないように釘を刺しておこうと善意で言ってくれていたのもあるのだろうが、それにしても大袈裟だろうと思い、徐々に不信感を抱くようになった。
少し脱線するが、この上司はそれから数年後の飲み会で以下のように豪語していた。
「俺は人を怒るときは、できるだけ全員がいる前で、フロア全体に聞こえるように怒るんだ。『コイツ仕事できないぞ。迷惑なヤツだぞ』ってちゃんと注意喚起しなきゃならないからな」
これまで自分を世話してくれた上司のことを悪く思ってはダメだ、と常々自分自身に言い聞かせてきた私が「あぁ、ホントにブラックな上司だったんだ……」と確信したのはそのときだった。
そして、彼の説教を聞く当時の私の姿勢にも問題があったのかな、と今振り返る。
私の思う「説教好きな人の共通点」
以上はあくまで、私の昔の上司の話である。
そして以下もあくまで私の仮説なのだが、この仮説が記事全体のポイントになっていく。
私は、説教が好きな人たちには共通点があると感じており、それは彼ら彼女らが「加虐欲がそこそこ強い人たち」なのではないかということだ。言い換えると、サディスティックな傾向が強い人たちだということだ。
もちろん全員ではない。例外だってたくさんいるだろう。純粋に「これは本当にマズいぞ」と注意を促してくれる人だってたくさんいるというのは承知の上だ。
しかし、誰かを説教しているうちに「自分自身が気持ちよくなっている」という一面を持つ人が多いように思えて仕方ないのだ。
「こんなこと言いたくないんだけど……」
「これ言っちゃっていいのかな……」
と言いながら、彼らが心の中でどう思っているのかはわからない。
「ガラス」になってはいけない!
一般的にガラスというものは、バットで殴ると音を立てて割れる。
そして、私のイメージなのだが、打たれ弱い人というのは説教をされることで、ガラスのように音を立てて割れてしまっているように思える。
あなたは説教をされた際に、どのような態度で相手の言葉を聞いていたか、一度振り返ってみてほしい。
「ガックリとうなだれて」とか「肩を落として」といったように、悲壮感を滲ませた聞き方をしてはいないだろうか。
結論、これが最もNGな説教の聞き方だと私は考える。「悲しみを滲ませる」というのが、私の中でまさに「ガラスが割れる」イメージに合致するからだ。
昔の私自身も、まさにこのような聞き方をしてしまっていたということは、言うまでもない。
ではこの「ガラスであること」は、いったい何が問題なのか、というと
その「ガラスが割れる感触」こそ、加虐欲のある人々をさらに気持ちよくさせてしまう恐れがあるということだ。言い換えると、彼らに本能的な爽快感を与え、刺激してしまうということだ。
自分の言葉で相手が傷つく。落ち込む。悲しむ。
いわゆる「イジメ」のメカニズムと類似しているが、加虐欲の強い人々は、これらの反応を「気持ちいい」と感じてしまうというのが私の推測だ。
たとえ話だが、昔からある「ブロック崩し」のようなゲームを思い浮かべてほしい。たいていの場合、何かしらの効果音とともに消えていくだろう。やりこんでいけば、多くのブロックがボコボコボコボコッと次々に壊れていくような演出にも出会えるはずだ。
ここでひとつ想像してみてほしい。もしブロック崩しで、ブロックが音もなく煙のようにスッと消えるようなものだったら、それは果たして人気になっていたのだろうか?
きっとならないだろう。なぜなら、爽快感がないからだ。
ブロック崩しに限らず他のゲームを見渡しても、何かを派手に爆破したり破壊したりという演出のある作品は少なくない。
このことから、人間には少なからず「なにかが派手に壊れること」を「気持ちいい」と感じる本能が備わっていると考えるのが自然だろう。
だからこそ、打たれ弱いということ、すなわちガラスのように壊れるという状態は危険だと思うのだ。そのことが相手の加虐欲を満たしてしまっている可能性が高く、説教を止められない理由の一つになっているというのが私の持論だ。
「打たれ弱さを見せることで、相手が手を緩めてくれるのではないか?」と思う人もいるかもしれないが、私個人的にそれはむしろ逆効果な場合が多いように思える。
実際、もしも私が叱る側で、ミスした人を叱っている最中に、相手がガックリとうなだれてしまったら、きっと叱るのを中断してフォローを始めるだろう。
しかし、世の中にはそうでない人が多いということは、忘れないでほしい。ガックリしたら追い打ちをかけてくるような人は少なくない。
「ガラスになるな」という私の主張は、こういった理由によるものだ。
説教を聞くときに、私がやっていること
繰り返しになるが、説教を聞くとき、悲壮感を滲ませてしまうのはNGだと私は思っている。もし仮に、相手の言葉によって傷ついてしまったとしても、「傷ついた」という姿を見せてはいけない。
私は「悲しみ」の感情を表出させることこそが、最も「ガラスが割れた」状態に近いように思えるからだ。
では、どうすればよいのか?
具体的に筆者の私が説教を受けた場合、どのように聞いているかを紹介していきたい。
・「悲しい顔」ではなく「悔しい顔」で話を聞く
・相槌を多めに打つ(+相手の言葉をメモする)
・悲しむのではなく、反省する。再発防止策を練る
ということだ。
下記にて詳しく説明していくが
どれもコアにあるのは「相手の話を聞いて悲しまない」工夫だ。
悲しまなければ、別にこの三つをやらなくたってよい!
こちらも繰り返しになるが、これは「説教を聞いて悲しまないように!」ということを目的とした記事である。
念のためことわっておくが、ここに挙げたものはどんな人にとっても万能な薬というわけではない。
どうしても個人差というやつが存在する。説教する側も違う人間だし、これを読んでいるあなたも違う人間だ。
これらはあくまで、私個人が実際にやってみて有効だったやり方の紹介なので、そこだけご了承いただければ幸いである。
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