2021年 演劇感想リスト
一年が終わる。日記には「FUCK YOU」とだけ書かれたページが複数ある。研究も就活もなにも進んでいない身でこんな記事を書いているのは明らかにおかしいのだが(注:それらは本当になにも進んでいない),わたしは人生をなめているし,実際どうにかなるだろうと無根拠な確信を抱いている。
改めて羅列すると観劇数のすくなさが丸わかりだ。こんな程度でなにを語るつもりなのか? しかも書き溜めていたメモがすべて消えてしまったので,今ふりかえる限りでしか感想が書けない。感想は計画的に。
なお,以下の記述はすべてわたし自身のために書かれたものであり,あなたが読むメリットはほとんどない。
名前は演出家だったりプロジェクト名だったり,最初に浮かんだ単語を適当につけているだけなので,参考にしないでほしい。点数はもっと適当。
二兎社『ザ・空気 ver.3』☆7.5
舞台はテレビ局。コメンテーターとして訪れたクソ右翼の政治評論家・横松(佐藤B作)は,入り口の体温検査で微熱が発覚,別室にいったん「隔離」される。そこへ訪れたのは番組のチーフプロデューサー・星野(神野三鈴)だ。もともと犬猿の仲である二人,出演の可否をめぐって口論に発展。すると星野が突然,部屋の秘密を語りだす──かつての横松さんの部下・桜木が命を断ったのは,実はこの部屋なんですよ,と。つづく星野の語りを聞いて,横松に変化が訪れはじめる。右傾化する以前の自分を思い出した彼は,やがて懐から政治不正の証拠となる文書を取り出し,番組での公開をもちかける……。
序盤で繰りかえされる現政権パロディ,横松おじさんを”嗤う”展開,これらは週刊誌じみた安っぽい醜悪さに満ちている。けれども横松の語りと証拠文書のあつかいを通じて,物語の主題を徐々に政権批判からメディア批判・大衆批判へと切り替えていく手腕は見事だった。
証拠文書の情報は手違いであっさりと漏洩し,政権転覆!と浮かれたのもつかの間,種々の圧力によって結局公開はお蔵入りである。リベラルを気取っていた星野も「今日やらなくちゃいけないのかな」と言い出す始末,横松は「〔私は〕滑稽ですよねぇ,今さらなにか,取り戻したかったのかなぁ」と悲痛な叫びを残して去っていく。
革命は起こらなかった。それは彼らが愚かだからではなく,生活を抱えた人間であるという弱さと,生活を賭して報道したところで大衆は動きやしないだろうという絶望とによる。かつて横松が大衆への絶望から右傾化したのとまったく同じ道筋を,星野もたどる。舞台中央に置かれたテレビには,まだ若く希望に満ちていたころの横松の映像が流れている。映像はそのままに音声だけがじわりと途切れ,無力感だけを残して幕が降りる。
コロナしかり学術会議しかり,本作はただしく”現実”と向き合い,演劇ないし表現一般にできること/できないことを真摯に突き詰めた作品なのだと思う。皮肉なのは,本作じたいがきわめて「わかりやすい風刺」として作られている点だ。
演劇とテレビは多くの点で対照的である。リーチできる視聴者の量,内容の保存性,表現規制の厳しさ,地理的/経済的な制約の大小──あえて露悪的に言えば,テレビは大衆的で演劇はスノッブ的だ。しかし,本作は観客を大衆の座へ引きずり下ろす。無知を自覚させる。
物語冒頭,星野の左遷に対して横松が「本人は『政権にあらがって正義をつらぬいた結果だ』と思ってるんだろうけど」「偏差値70以上向けみたいな番組ばかり作って,視聴率とれないからでしょう」「偏差値50くらいの人間を楽しませないと」と語るシーンがある。これは横松の絶望と星野への批判という二重の意味で伏線となる重要な台詞だが,しかしそれ以上に,この戯曲がわたしたち観客に向けている視線を表してもいる。本作のド直球で明瞭で,まさに「偏差値50くらいの人間」でもわかるようなメディア・大衆批判は,客席の人間をもはや「偏差値70以上」の教養人とはみていない。誰も横松を嗤う資格などない! 登場人物も観客も,みな大衆の地平に落ちてくるのである。
役者の話をすると,佐藤B作の”早送り”が観られたのは収穫だった。上述の「横松の映像」は実際には佐藤が生身で演じるのだが,映像の”早送り”も同様,肉体をシャカシャカ高速で動かして表現するのだ。さすがにたまげた。
それから演出にかんする些末な話として……セットの大部分を維持したまま,ドアや照明などのごく一部だけを変更して場所の変化を表現する方法はよくもちいられる。テレビ局のような内部の作りが似通った建物が舞台ならなおさらだ。
しかし,変更するなら思い切り色を変えるなり,いっそ暗転の最中に黒子を出すなりしたほうがよいと思う。初見の観客は変化盲が起きて戸惑うので。
加藤健一事務所『ドレッサー』☆8.5
おなじみロナルド・ハーウッドの戯曲。疲弊したのであらすじを引用する。
『リア王』を演じようとする座長と付き人・ノーマンの関係は,そのままリアと道化の関係に対応している。老いた”王”の横暴さに振り回される”臣下”たち,しかし確かな敬意を抱く者もあり……等々,現代(?)版『リア王』とでも呼ぶべき構造があちこちに見受けられた。現代では『リア王』が孕む”王への敬意”という要素はもはや共感不可能になっているから,むしろ本作から始めたほうが本質がわかりやすいかもしれない。
本作も『ショーマストゴーオン』も「舞台の幕をいかにして上げるか」が題材になっているあたり,本作の筋からは外れてしまうが,感染症と演劇の問題を考えずにはいられない。17世紀初頭──『リア王』の時代──に,ペスト対策のため公衆劇場が閉鎖されたのは有名な話だ(→■,■)。無限とも言えるプロットを作ってきたシェイクスピアも,疫病による死は一度もえがいていない(ロミジュリは疫病が遠因で死ぬが)。それは舞台では表現しえない/してはならないものだったのだろうか?
演劇と金の問題も深刻だ。聞けば加藤健一事務所も相当資金繰りに苦労しているし,そういえばこういう悲惨きわまりない報告もあった(→■)。わたしにできるのは芝居を観にいくことと,パンフレットを買うことくらいしかないのだが……。
なお,高い点数をつけたわりに内容が薄っぺらいのは,単に書くべきことを忘れてしまったからだ。本作はせっかく観劇当時のメモが残っているのに,見返しても自分がなにを言いたかったのかさっぱりわからなかった。もう少し読み手に配慮してほしい。
赤堀雅秋『白昼夢』☆8
47歳にして引きこもりの中年男性・高橋薫(荒川良々)は,父の清(風間杜夫)と二人暮らし。薫の兄である治(三宅弘城)はなんとか薫を社会復帰させるべく,支援団体「ひだまりの会」の手を借りる。
しかし治は治でどうしようもない人間だし,「ひだまりの会」の別府(赤堀雅秋)は石井美咲(吉岡里帆)に手を出そうとするし……。
本作は登場人物たちのコミュニケーションが基本的に終わっており,上辺をなぞるばかりの無意味なやりとりか,距離感をすっ飛ばしたハラスメントかの二通りになる。現実もそう? そうかもしれない。お望みなら,それをリアルと呼んでも構わない。
薫が引きこもったきっかけは明かされず,ただ「12年前になにかがあった」ことが察せられるのみだ。治は世間体を気にしているだけで薫に関心などないから,家に来ても多くは腰を降ろさず,棒立ちのままクリシェじみた雑談のネタを吐きつづける。今日も暑いだとか,どこそこの店が潰れてショックだとか,最近は猫の動画ばかり見ているだとか……当然,薫の誕生日も年齢も,かつての夢も,なにもわかっちゃいない。おまけに家庭を放置して石井と浮気している。凡庸なろくでなしだ。
第一幕〈夏〉から第三幕〈冬〉まではなんら事態が好転していないのに,最後の第四幕〈春〉はいきなり薫の引越し準備からはじまる。どうも隣町で一人暮らしをしつつ社会復帰するらしい。しかし具体的になにがあって,どんな職につくのか,なにも語られない。石井は治と別れて別のダメおやじと付き合っている。清は窓際の椅子で始終眠っている。
今にして思えば,本作の題が『白昼夢』であること,とつぜん劇中劇で『夏の夜の夢』が演じられることから,第四幕はみな窓際で眠る清の夢にすぎなかったという気もする。であれば本作は悲劇なのか? 現実には〈春〉など訪れず,すべてが〈冬〉の世界に閉じ込められたままの悲劇なのだろうか。
たぶんそうではない。「それでも生きて行く。喜劇。」というメッセージ(画像右端)は,おそらく文字どおり読まれるべきだ。〈冬〉に治が薫の首を絞めたとき,清は治を引きはがすと,「生きていたっていいじゃないか! 生きていたっていいじゃないか! このままでいい,なにも変わらなくていい」と叫んだ。したがって本作は〈春〉の訪れを説く物語ではなく,といって〈冬〉に呪われた悲劇でもない,たとえ世界が永劫に〈冬〉であっても「それでも生きて行く」喜劇なのだ……こう読んだほうが座りがいい。
ところで本作では,どう人物を組み合わせてもつねに攻撃/搾取されるのは若い女,石井である。薫は暴力的だし,別府と治は手を出すし,清はいきなり「おっぱい見せてくれないか」などと言い出す。
追い詰められた男がいきなり女性のおっぱいをほしがるこの展開,起源はどこにあるのだろう? ちょうど松尾スズキ・山本直樹の短編マンガ『破戒』でも同じ展開を見た。意を決した出立の直前,主人公はなぜか母親の胸をさわるのだ。それはもはや性的な興奮とは関係がない。生と死,そして胸という母性の象徴──ここには何か深い意味があるような気がするし,まったくないような気もする。
鮭スペアレ『リチャード三世』☆7
オールフィメール,訳は坪内逍遥,場所は能楽堂……というクセの強さに惹かれて観劇。ベースはもちろんシェイクスピアだが台詞は大幅にカットされ,舞台転換はすべて「◯◯の場」と読み上げられるかたちで行われる。
「肉体を持たないリチャードがリチャードであり続けるための『儀式』の形を借りた演劇」がテーマらしく,一人の台詞を複数人で分割して読み上げる手法を取る。それ自体はさして珍しくもないが(本記事でも『外の道』『叔母との旅』で繰り返しもちいられる),分割が進みすぎた結果,もはやまとまりを持った一人の人物としては存在していなかったのが面白い。「役者すべてをコロスとし」た演出,と述べた人がいた(→■)が,言い得て妙だと思う。
けれども正直に言えば,わたしはもっとストレートな演出のシェイクスピアを求めている。多様な翻案を許容するのが古典の良さではあるが,北村紗衣がさらっと指摘するとおり(→■),「その演出をシェイクスピアでやってそんなに面白いだろうか?」と素朴に思ってしまった。もっとも,これは今年ほとんど「普通の」シェイクスピアが観られなかったことによる反動的感情にすぎないかもしれないが。
彩の国シェイクスピアシリーズ
『終わりよければすべてよし』☆7
「23年の時を駆け抜け,走破する瞬間をお見逃しなく!!」とあるとおり,これでシェイクスピア全作品上演シリーズがめでたく完結……と思いきや,実際はコロナで『ジョン王』が流れてしまったため,”走破”はされていない。どんまい,小栗旬。
初日の幕開けが蜷川幸雄の命日なところからも察せられるが,本公演は明らかに追悼公演としての色が濃い。舞台一面に咲き乱れる赤い花は彼岸花を思わせるし,衣装の基調をなす黒と紫はまるで喪服のそれだ。
こうして芝居が終わったからは,王も物乞いに成り果てます。それで終わりはすべてよし──吉田鋼太郎の締めの口上は,複数の意味で完結を告げるものだった。この芝居の,彩の国シェイクスピアシリーズの,そして蜷川幸雄の。
わたしは正直,吉田鋼太郎の演出に手放しでは賛同できない。『ヘンリー五世』でアジンコートの演説をすっ飛ばすのはさすがにおかしい。『ヘンリー八世』でキャサリンとグリフィスの掛け合いをカットするのは副題の”All is True"を大事にしていない証拠だ。ギャグも悲劇も喜劇もすべてこなし,一言発するだけで舞台の雰囲気を塗り替えてしまう存在感は本当に比類なきものだと思うし,演出も部分的には好きなのだが。
なにより本公演のカーテンコールで,蜷川の巨大な遺影が上からヌルリと降りてくるのには少し困った。花は彼岸花として,服は喪服として,舞台は追悼の場として,一斉に確かな意味を持ちはじめる。すべての表象がひとつの解釈を担わされる。観客は立ち上がって盛大な拍手を与え,誰もがタイトルを噛みしめる──終わりよければすべてよし。しかしその題とは裏腹に,作中で王が吐く台詞は”All yet seems well”,「終わりがこうもよければどうもよしらしい」なのだ。
吉田鋼太郎はパンフレットで「〔本作は〕絶対的なハッピーエンド」と述べた。それは戯曲の可能な一解釈だが,しかしそれ以上に,事実上の追悼公演という形式に要請されたものでもあったろう。23年の歴史に爽やかな幕を下ろすには,本作はハッピーエンドでなければならなかった。しかしどうだろう? 吉田の意図はどうあれ,原作の”問題劇”ぶりは拭い去れなかったのではないか。わたしにとってバートラム(藤原竜也)はやっぱりヤバい男だったし,彼とヘレナ(石原さとみ)のあいだに幸せな結婚生活が待ち受けているなんて到底思えなかった。
ハッピーエンドとして造りたい演出と,それを許さないテクスト。この衝突を解消しないままカーテンコールで強烈な”演出”をしたために,劇の全体がちぐはぐになってしまったように思う。故人への敬意と哀悼は作品に内在的に忍ばせるもので,遺影をぶら下げてねじ伏せるのは違うだろう。
たかだか数年しか観劇経験のない小僧が偉そうに,お前のために作った演目ではない……そう思われるかもしれない(し,実際それは妥当だろう)が,一般に言って内輪ノリは想像以上に新規参入者を疎外するのだ。これは自戒でもある。
こまつ座『父と暮せば』☆7
昭和23年,広島。美津江は父・竹造とふたりぐらし。彼女は勤め先の図書館にしばしば訪れる青年・木下に好意を寄せられているが,「うちはしあわせになってはいけんのじゃ」と,自ら恋路を拒絶する。それは自分だけが原爆を生き残ってしまった負い目からきている──そう,父・竹造は原爆の直撃を受けて死んでおり,美津江の前に現れるのは幻にすぎないのだ。
わたしは役者の山崎一と伊勢佳世がどちらも好きだ。とくに山崎は蜷川版『リア王』の,伊勢はイキウメ『太陽』のイメージが強い(伊勢は2016年にイキウメを退団した)。二人ともとても上手いと思うし,実際本公演はきれいにまとまっていた。わたしが観た回は山崎が勢いあまって机を舞台外へふっ飛ばすハプニングがあったが,伊勢がアドリブでうまく笑いに変えており,これもよかった。
しかしはっきり言えば,わたしはこの手の物語を好まない。井上ひさしは美しすぎる。
戦争があった。多くの命が失われた。自分だけ生き残ってしまった。それでも生きていかねばならない,前を向かねばならない,どんなに苦しくとも──そのメッセージに嘘があるとは言わない。ある種の人々にとって,これがぜひとも必要な寄り添いであることは承知している。もちろん戦争を肯定する気など微塵もない。
けれどもそれは人間の生の一側面であって,全体ではない。ただ恐れ,悲しみ,故人をしのぶばかりが人間ではない。人はまったく無意味に死に,しかし物語は彼らの死を過剰に意味づけ,方向づける。それがプロパガンダでなくてなんだろう? わたしはなにも,道徳的言説を再確認するため劇場へ足を運んでいるわけではないのだ。
イキウメ『外の道』☆9.5
女が「無」とだけ書かれた宅配物を受けとると,寝室の隅に闇が広がりだす。男が出席したパーティで突然死した政治家は,外傷もないのに脳味噌にビール瓶の破片が埋まっている。
女は闇の中で見知らぬ少年と出会う。彼は自分が女の息子だと言い張る。女は何ひとつ覚えがないが,少年の抱えるダンボールからは,二人が親子であることを証明する書類がいくらも出てくる。男は弟と喫茶店に行く。そこのマスターは優れた手品師で,コインをビール瓶に,千円札を卵に,するりと入れてしまう。男は彼に手品のタネを教えるよう迫るが,タネなどない,ただこの世の仕組みがあるだけだ,とマスターは言う。
これらの怪異には理屈がない。しかし,理屈とはいったいなんだろうか?
今年観た演劇でいちばん良かった。というか,人生でもっとも良かった。水の底のような照明の美しさは相変わらずだが,なによりあの暗闇の場が突きつけてきた,劇場という空間の──すぐとなりに誰かがいるという事実の──もつ効果には衝撃を受けた。
本作は「怖い」という感想が散見された。確かに主人公の寺泊(安井順平)はだんだん陰謀論者みたいになっていくし,山鳥(池谷のぶえ)のまわりでは一般常識が崩壊していく。けれどもわたしからすれば,これほど希望に満ちた作品はない。そもそも常識の崩壊は喜ぶものであって,恐れるものではないだろう,情熱の薔薇を聴いたことがないのだろうか?
前川知大の作品は全体的にちょっと青臭いところがあり,本作も寺泊が誤配誤配さわぐせいで東浩紀の顔が浮かんでしまうという欠点(?)がある。けれども『太陽』しかり本作しかり,イキウメの生み出した名作はどれもその青臭さこそが,”大人”は問うのをやめてしまうような問題へのしつこい執着こそが,作品の魅力と直結している。
今後も変わらず自己について,存在について,考え続けてほしいものだ。
奥秀太郎『VR能 攻殻機動隊』☆7
「VRを使って能の手法で攻殻機動隊を演じる」というマジで意味不明なコンセプトに惹かれた。恥ずかしながらわたしは能を知らないので,能の観点からなにかを語ることはできないし,そもそも台詞の多くは聞き取ることができなかった。能・狂言・歌舞伎は来年の目標としておく(注:こいつは昨年も同じことを言っていた)。
ところで技術の発展はめざましく,わたしは実在の人間と映像とがまったく区別できなかった。舞台の中央奥という限られた空間しか使っていないとはいえ,メガネもゴーグルもなしにあのリアリティを担保できるとは驚きだ。わたしは早々に現実/映像区別ゲームを諦め,赤と青のセロハンをはっつけた3Dメガネでポケモンを浮かび上がらせては喜んでいた十数年前の記憶を呼び起こしていた。わたしもとうに若者ではなくなった。
なお,VRを謳ってはいるものの,実際には「立体映像」と呼ぶほうが一般的な印象にかなうかと思われる(もちろん両者は背反ではないが)。
どの座席からでも安定して立体視ができる以上,3DSや立体映画のような──実は立体映画館はソ連に実在し,万博でも上映された(→■)──両眼に違う視覚刺激をわたすタイプのシンプルな機構ではもはやなさそうだ。
「VRに比べて立体映像は流行らなかった」という言説を耳にしたことがあるが,果たして。
野田地図『フェイクスピア』☆7.5
強烈な作品だった。まとめ記事でチョロリと語れるような演劇ではないので,感想はひとつだけ。
コンテクストを剥奪された言葉がもつ痛ましさはよくわかる。くだんの事故を扱ったことにも文句はない。しかしだからこそ,舞台の結末で「頭あげろ」を鼓舞の言葉としてもちいるやり方は,わたしは全く納得がいかない。
Kawai Project『ウィルを待ちながら』☆7.5
Kawai Projectは,日本シェイクスピア協会元会長・河合祥一郎が新訳と演出を担当して公演をおこなう一連のプロジェクト。本作はベケット『ゴドーを待ちながら』をベースに,シェイクスピア全40戯曲の台詞をすべて詰め込んだもの。
河合祥一郎は『ゴドー』を翻訳したベケット研究者・高橋康也の娘婿であり,主演ふたりのうち田代隆秀はシェイクスピア・シアターの創設メンバー,高山春夫も蜷川シェイクスピアシリーズに幾度も出演……と,メタ情報が飽和している。わたしでも楽しめるくらいだから,往年の日本シェイクスピアファンにはたまらないだろう。
『ゴドー』はなにがなんだかさっぱりわからない不条理劇だが,本作は「老い」というかなり明示的なテーマが与えられていた。それは役者二人の会話に直接現れるほか,展開の大部分が『リア王』の引用に依っている点からも察せられる。『リア王』はまさに老いの物語であり,シェイクスピアにとって老いは常に敵であった。道化表象の礎を築き上げたエラスムスが『痴愚神礼讃』で老いを礼賛したのとは対極である。
演出もよい。一面に貼られたシェイクスピア演劇のチラシ,あちこちに積まれた戯曲,小劇場全体をゆるがす風の音……作品冒頭,しゃれこうべが暗転ののちに役者の頭へと入れ替わるのも面白い(画像)。あわれ,ヨリック!
ところで劇中では道化の歌が幾度も歌われるのだが,アフタートークを聞いた方によれば,これは実際に当時の楽譜が残っているとのこと(→■)。
シェイクスピア全戯曲を引用しながらスノッブ趣味にとどまらない作品を作れる人物は,おそらく現代では河合祥一郎しかいないだろう(現代で,を外すと井上ひさしが入ってくるが)。テーマに忠実,かつ小劇場という空間を巧みに活かした,完成度の高い作品だと思う。
けれども偉そうなことを言えば,本作は綺麗にまとまりすぎた。わたしはもっと粗暴で青臭くて薄汚れた作品が好きだ。どこかに掴みどころのなさを,あるいは観客を喰らい尽くすような暴力の影を,潜ませていてほしかった。これは本記事だと『検察側の証人』や『パ・ラパパンパン』にも感じることだ。
わたしは大暮維人の線ではなく,諸星大二郎の線で描いてほしいのである。
小川絵梨子『検察側の証人』☆7
アガサ・クリスティの戯曲を小川絵梨子が新翻訳。ミステリにとんと関心がなかったので,初めてきちんと接したのが本作となる。
そろそろあらすじを自分で書く気力が切れた。横着して引用する。
本作は正直あまり書くことがない。アガサ・クリスティだけあってストーリーは面白く,成河や瀬奈じゅんをはじめとする役者陣はみな抜群にうまいのだが(わたしは成河のファンだ),逆にいうとそれだけである。非常にすぐれた秀作でこそあれ,決して傑作ではない。脳が破壊される瞬間がない……もっとも,これはもっぱらわたしの無知さによる過小評価だろう。
おそらく本作は,インタビューで成河が語るとおり(→■),日本/西洋のリアリズムの違いであるとか,翻訳の方法論であるとか,それらに着目するとより面白く観られたのだと思う。なにかの面白さを理解する……一般にそれは容易い作業ではないと,頭ではわかっているのだが。
フロリアン・ゼレール 『Le Fils』☆9
『Le Père 父』『La Mère 母』につづく,三部作の最終作。個々の話に連関はないため単独で鑑賞できる。『父』は橋爪功主演の日本公演が存在し,映画版(→■)も公開されたが,なぜか『母』は日本で未だ取り扱われていない。
わたしは本作がかなり好きで,先日同人誌に寄稿した文章でも重く扱った(→■)。上のあらすじはその文章からのセルフ引用である。
二回も書くのはめんどうなので,ここでは仔細にふれない。ヒュー・ジャックマン主演で映画化するそうだから,気になる人はそちらを。
なお,本作は照明の使い方がとても美しい。わかりやすいブログがあるので載せておきます(→■)。
加藤健一事務所『ショーマストゴーオン』☆8
ドタバタコメディ。演劇プロデューサーのミラー(加藤健一)は,とあるブロードウェイのホテルに居座っている。それも22人もの劇団員をこっそり住まわせ,支払うあてもないのに全員分の飲み食いをツケている始末。とにかく次の公演さえ打てれば……しかし,とにかく金がない! いっそトンズラしようとした矢先,上京したての新人作家がホテルに転がり込んでくる……。
相変わらずコメディの完成度が高い。わたしは最初から最後までずっと笑いっぱなしだったし,後ろに座っていた小学生もケラケラ笑っていた。笑わせるのは泣かせるよりずっと難しい。
ミラーたちは公演にこぎつけるべく種々の工作をこらすが,そのやり口はどれも犯罪スレスレだ。新人作家のタイプライターは勝手に質へ入れるし,不渡りの小切手で支配人を騙すし,死人が出たフリまでして無理やり時間を稼ぐし……もはや取り返しがつかないところまで来た矢先,金も権力も持ち合わせた上院議員がとつぜん登場,すべてを丸く収めて大団円となる。あらゆる非礼は許され,悪者は誰一人いなくなる。
このデウスエクスマキナ的な解決方法をみると,一般にドタバタコメディはまったく無秩序であるように見えて,実は強烈に秩序を要求する形態なのでは? と思わされる。保守的であると言ってもよい。『お気に召すまま』の結末が「結婚」というノモスの制度であったように,カーニヴァル的な乱痴気騒ぎは結局のところ既存の秩序体系に回収されるほかないのだろうか?
おそらくそうではない。喜劇の射程がそんなに狭いわけないだろうから。といって今は具体的な回答が用意できないので,来年はもっと喜劇にふれたほうがよさそうだ。
藤本有紀・松尾スズキ『パ・ラパパンパン』☆8
誤配最高だよ,俺は誤配専門の配達屋になるよ……『外の道』にはそんな台詞があった(東浩紀ではない)。確かに誤配はおもしろい。自分の言葉が意図せぬだれかに伝わってしまう,見るはずのなかったものを見てしまう──誤配はイノベーションとクリエーションの源である(これは東浩紀)。
中学生の来栖てまりはクリスマスのプレゼント交換会に出席した。誤配が自己目的化したイベントだ。音楽が止まる。箱を少し振る。妙に軽い。隣の女子にはネックレスが当たっている。ちゃちな銀メッキ。包みを剥がす。蓋を開けて底に手を伸ばす。ノートの切れ端がある。それには「お前は地獄に落ちる」と書いてある。汚い字で。隣の女子にはネックレスが当たっている。これは誤配だろうか?
珍しいことに松尾スズキは演出のみ担当し,脚本は『カムカムエヴリバディ』の藤本有紀が作成。異様に豪華な役者陣,お手本のような伏線回収,ともかくきれいなメタフィクション・エンタメだった。
時間がないので2点だけ。まず本作はディケンズ『クリスマス・キャロル』を下敷きにしている。わたしは『クリスマス・キャロル』が嫌いだ! 善なる嘘はやめろ! 以上。
2点目はいたって真面目だ。本作はたしかに良質のエンタメなのだが,主題は明らかに「ネックレスの呪い」──つまり偶然性の,誤配のもつ負の側面だ。誰も言及していないのはどういうわけだろう。
本作は喜劇であるから,あらゆる伏線は回収されるし,悪意にみちた犯人は存在しないし,誰一人死ぬこともなく物語は大団円を迎える。事件はみんな運命のいたずらでした,だれも悪くありませんでした……それは作中でも指摘されるとおり「ヌルすぎる」結末なのだが,本作が強調したいのはむしろそこ,偶然性がもたらす呪いである。
上述のとおり,主人公のてまり(松たか子)はプレゼント交換会で「地獄のメッセージ」を受け取ってしまう。それはアホ男子のしょうもないいたずらにすぎないし,当然プレゼントの行く先はまったくの偶然だから,てまり本人に悪意が向けられたわけではない。しかしだからこそ彼女は苦しむ──どうして私は隣に座っていなかったんだろう。どうして私はネックレスを受け取れなかったんだろう。誤配とは偶然で,偶然とは運命だ。「犯人がいなくても,人は地獄のメッセージを受け取ることがある」というてまりの台詞は,偶然という運命に対する嘆きとして聞かれねばならない。
わたしは本作があまり好きではない。美しくまとまりすぎているからだ。けれども偶然性を安易に肯定せず,ある種の呪いとして喜劇の中に提示した本作は相当にすぐれているし,評価されるべきだと思う。「わかりやすいだけのエンタメ」と評している人は一度冷静になったほうがよろしい。
岩松了『いのち知らず』☆9
親友のロク(勝地涼)とシド(仲野太賀)は,とある人里離れた施設で門番として働きはじめた。ある日突然,職場の先輩・モオリ(光石研)が「この施設では死人をよみがえらせる実験をしているんだ」と言いだす。さらに施設で消えた双子の兄を探すため,トンビと呼ばれる男(新名基浩)が宿舎に居候をはじめる……。
初めての岩松了作品。面白すぎて翌日も急遽当日券をとった。いわゆる不条理劇の系譜に入るのだろうか,話の筋を追うのはそれなりに難しかった。結局施設の正体はなんだったのか,芝居の冒頭で予言的に演じられた内容と実際の結末とに食い違いがあるのはなぜなのか,シドがモオリに見せていた本はなんだったのか,なにより登場人物たちはみな生きているのか,死んでいるのか……それらが明示的に語られることはなく,彼らのちぐはぐな会話から察するほかない。
岩松は言葉のズレを相当に重視しているようだ。発話の内容は行きつ戻りつし,しかも各々が勝手に思い立ったことをしゃべりだすものだから,部外者たる観客はすっかり置いていかれる。設定も場面も会話の内容も反リアリズム的なのに,会話の形式だけがきわめてリアリズムに則っているのだ。そういえばサンドイッチやお茶などの小道具も本物を使っていた。生前の蜷川幸雄は「たとえば舞台に本物のサンマを置いても小さすぎて見えない,デカい偽物のサンマを置いたほうがむしろ本物らしくなる」と述べていたが,岩松はそうした本物がもつ逆説的な虚構性をうまく使っているようだ。
照明の使い分け等からおおむね解釈を固めることはできたけれど,ここで解釈ゲームの詳細を述べるのはやめておく。単に疲れたからだ。内容の詳細は他の誰かに任せる。
パンフレットにこんな話がある。
これは非常によいことを言っている。逆説的だが,コロナでもポスト・トゥルースでもなんでも,現代的なテーマを扱ううちは絶対にえがけない現在があるのだ。
確かに岩松の舞台はよくわからない。会話はしっちゃかめっちゃかで,ほしい情報は提示されない。観客にできるのはただ受け入れることだけ──この現前性,柄谷ふうにいえば「距離」を奪い取られた感覚が,岩松の作品に転倒したリアリズムを与えているといえる。
なお,岩松じしんが「現在」の捉え方について語る箇所もあるが,ここでは引用しないでおく。単に疲れたからだ。
加藤健一事務所『叔母との旅』☆6-8
ヘンリーは53歳,銀行を早期退職したばかり。まじめにていねいに暮らしてきたヘンリーだが,母の葬式でオーガスタ叔母さんと数十年ぶりに再開して以来,人生が一変する。強引でやりたい放題な叔母にあちこち引き回されたあげく,ホテルに警察が来るわ,スーツケースに金塊が入っているわ,叔母の尋ね人・ビスコンティは指名手配犯だわ……。
グレアム・グリーンの原作にジャイルズ・ハヴァガルが脚色を行った結果,計24人の登場人物をわずか4人で演じる(!)ことになった,というぶっ飛んだ戯曲。ひとりで複数人を演じるのはもちろん,主人公のヘンリーだけは4人全員で演じる奇妙な作りだ。
けれども上の『リチャード三世』とは反対に,ヘンリーというキャラクターは拡散するどころか一個の人格を保っているようだ……とりわけ主演の加藤健一を中心に。したがって見やすい点として,オーガスタ叔母さんとヘンリーの双方を同一の役者が演じる意義のひとつが浮かび上がる。まったく対極に思われる二人の気質が,ひとつの肉体へ統一的に閉じ込められていくわけだ。分裂した自我,あるいは壮大な腹話術の物語──これはちょっと安易すぎる解釈だが,30点くらいはもらえるだろう。
このように肉体の共有ないし複数化ばかりが前景化してしまう本作だが,むしろ反対に肉体が消失する人物がいる。黒人の青年にして叔母の恋人・ワーズワース(清水明彦)だ。
彼の描かれ方/演じられ方は非常にあやうい。下品で無教養な口ぶり,戯画的に誇張された所作,いわゆるカタコト芸人的な発声と,駆逐された”黒人”表象の再誕だ。物語の終盤,叔母から見捨てられたワーズワースは,突然死体で発見される。このとき舞台にあるのは彼の帽子とペンナイフのみで,その肉体も,流れ出たはずの血も,一切が形を剥奪される。死へのドラマはヘンリーの語りに簒奪され,肉体は失せて帽子とナイフという記号のみが残り,叔母は彼の死よりビスコンティとの踊りを優先する。黒人青年ワーズワスの死は,まったく文字どおりの意味で透明化される。
徹底したワーズワースの周縁化ぶりに,わたしはかえって演出の意図を読みときたくなった。けれどもパンフレットでは誰も黒人表象についてふれておらず,座談会「規範と自由の境界線とは?」ではポリコレ的”規範”の息苦しさばかりが語られている。演出家・鵜山仁の「少なくとも舞台の上で起こっていることだから,表現は日常の規範から外れて良い」という発言には同意するけれども,これではそもそも規範の認識すらできていないのではないか。だいたい「死体がえがかれない」なんて,ポリコレどうこうを抜きにしても演出の上で相当大きな意味を持ちそうなものだが。
解釈は読み手が与えるもので,作り手の意図などどうでもいい,そう主張することは容易い。しかしわたしにはどうしても本作のワーズワース表象を肯定的に評価する理路が見いだせなくなってしまった。点数が揺らいでいるのはそうした事情による。
山本浩貴『うららかとルポルタージュ』☆?
さっぱりわからなかった。あらすじを書くことすらできないので,公式サイトから引用する。
けれども,山本浩貴じしんが「もともと詩の延長線上で構築したテクスト」と語っているとおり(→■),ストーリーを追うような演劇ではない。台詞は断片的かつナンセンスで,そもそもすべて聞き取れるようには作られていない。時折会話や意味が成立したように思えても,数瞬後にはまた意味の通らない発話へと変わってしまう。
わたしは本作の良さが全くわからなかった。端的に言って意味不明だった。色々とTwitterで感想を漁ってみた──それらは概ね肯定的だ──が,全部どうとでも言えることをそれらしく言っているようにしか見えない。けれども,書いた人も評価した人もみな大物のようだから,なにかわたしの知りえない良さがあったのだろう(わたしは権威主義者だ)。戯曲・上演映像・演出ノートetcが入ったゴツい記念冊子を予約購入したので,届き次第また見返そうと思う。
今できる限りで自分なりの解釈を与えるとすれば,「これは物語の形式をあえて剥奪した舞台だ」といったところか。あらすじがある,思想的背景とおぼしき文脈がある,なにより舞台と音楽と役者の肉体がある……しかし物語の形式だけがない。であれば,詩も音楽も身体表現もわからないわたしに面白さが理解できないのは当たり前だ。
わたしははじめ佐々木マキのマンガを連想したが,これは不当だった。村上春樹の評を借りるなら,佐々木マキは「表現すべきことがない時,人は何を表現すべきか」を問うているからだ。一方で『うらルポ』は明らかに,なにかを表現しようとしている。その意図が察せられるのみで,実態の把握は叶わなかったが。『ゴドー』を歴史上はじめて観た客もこんな気持ちだったのだろうか?
ところで,不満のひとつに「言葉をきちんと客席に届けてほしい」というものがあったが,これは演出家も悩んでいたらしい(→■)。
イッセー尾形『妄ソー劇場すぺしゃる vol.3』☆7
イッセー尾形の一人芝居。10分前後の小芝居が計7本演じられた。ひとつ芝居を終えるたび,イッセーは舞台下手の更衣室的な空間へ移動する。急ぐふうでもなく次の衣装へ着替え,ひとくち水を飲んで,それから次の芝居へうつる。
芝居の内容は完全にバラバラだ。母親を待つゴスロリの若い女性,社長とひと悶着ある事務のお局,古ぼけた中華食堂の女将。問答がめちゃくちゃな政治家,還暦を過ぎたホステス,プロットのイカれた立体紙芝居屋,ハマグリを運ぶため自転車で高速道路に侵入する親父(こいつが一番好きだ)。
どれも面白いのだが,ゲラゲラ大笑いするようなつくりではない。物販の内容や「リピーター限定割引」の存在をみるに,基本的にイッセー尾形ファンのために演じられているようだ。ほのぼのした空間だった。
政治風刺にしろマイノリティ表象にしろそれなりに”攻めた”演目ではあるものの,わたしは他の妄ソー劇場を知らないので,あれこれ語るのは避けておく。するとほとんど書くことがない。「イッセー尾形の演技の幅広さがすごい!」なんて,今さら言うまでもないことだ。
二兎社『鷗外の怪談』☆8.5
とりあえずあらすじを公式から引用する。
本作は抜群に面白かった。しかし……書くことがない!
メモを見返しても「二幕は犬が鳴かない」としか書いていなかった。なにが言いたいんだ。
もはや年越しまで時間がないので一点だけ。わたしは第五幕の展開をどう受けとめるべきか,未だによくわからない。鷗外(松尾貴史)は確かに苦悩したけれど,結局幸徳秋水やドクトル大石らはしっかり処刑されてしまった。しかし五幕にペーソスの要素はなく,妻・しげ(瀬戸さおり)と母・峰(木野花)の仲は快復し,処刑された社会主義者たちは手紙の中で鷗外に感謝の意を述べ,ドクトル大石を心底敬愛していた女中・スエ(木下愛華)も,師の非業の死からなんだかんだ立ち直っている。どうにも丸く収まった。
この秩序を素直に享受してよいものだろうか。たしかに,本作の締めである鷗外の「やっぱり,こういう結末になったよ。おかしいだろ,エリス……」という台詞はまさに,この奇妙なかたちで訪れた秩序に対する困惑を表してはいる。しかし鷗外の困惑を考慮してもなお,秩序に対する不安と不信感が足りないような気がしてならない。その意味で,わたしは第五幕の受け取り方が未だにわからないのだ。
そういえば,なにが「怪談」だったのだろう?
野田地図『THE BEE』☆9
傑作。舞台に敷かれた巨大な一枚の紙を広げ,折り曲げ,破り,ちぎり……そこからあらゆる展開を生み出していく演出には本当に驚くほかない。
時間がない! 要点をふたつだけ。ひとつに,演出は圧倒的に素晴らしいが,大筋のストーリーは相当シンプルである。自動化した報復の連鎖を止める手段はない……それはアーレントやらを引き合いに出すまでもなく,うずまきナルトでも知っていることだ。わかるってばよ。
したがって本作は,これは当たり前だけれども,ハチが担う意義を考えねば読みといたことにならない。しかし時間がない!
もうひとつに,本作は”声”の扱いに着目すべきだろう。殺人犯・小古呂はどもりだ。警察官・百々山の電話越しの声はボリュームのノブひとつで簡単に消されてしまう。井戸による指の切断がルーティーンと化したとき,声を発するのはもはや井戸だけ,小古呂妻と息子の発話は完全に消滅。井戸と小古呂のやりとりは気づけば語りを失い,指の切れ端を無言で送りつけあうのみとなる。
声は他者の音,他者の象徴である。自分の語りしか聞こえなくなった井戸の耳に他者の音が蘇るのは,物語の最後の最後,自分自身の指を切断するときだ──脳をゆさぶるようなハチの羽音が舞台を覆い尽くす。そう,ここでふたつの論点が接続する……しかし時間がない!
小川絵梨子『ダウト〜疑いについての寓話』☆8
若い神父だ。名をフリンという。髪はワックスでセットされている。爪は妙に長く伸びている。彼は説教を始める。疑いについての寓話だ。たとえばあなたが海で遭難する。あなたは星を見て方角を知る。家の方角を確かめた直後,あなたは疲労で眠りに落ちる。目が覚める。星は雲に覆われている。あなたはもう方角を確認する手段がない。あなたは眠る前に見た方角を信じ,船を進める。陸は一向に姿を見せない。何日漕いでも陸は見えない。星は雲に覆われている。あなたは信じ抜くことができるだろうか?
フリン神父(亀田佳明)は男子生徒ドナルド・ミラーに手を出したかもしれない。若く純真なシスター・ジェイシス(伊勢佳世)はそんな恐ろしいことなど考えたくもないと逃げ出したがるが,校長のシスター・アロイシス(那須佐代子)は神父の悪行に確信を抱く。神父を追放するべく奔走するアロイシスに対し,生徒の母親(津田真澄)は問題を大きくしないよう懇願する。だってうちの子は唯一の黒人生徒で,前の学校で殺されそうになった子で,でもここを卒業できればいい学校に行けるかもしれないんです。それにうちの子には,そういうところがあるかもしれないんです……。
本公演は照明が美しかった。ほとんど完全な暗闇の中から人物だけがぼうと浮かびあがるたび,どう光を当てればこんな芸当ができるのかと驚いた。
まずい,時間がない! 簡単に一点だけ。フリン神父が手を出したのか否かは誰もわからないし,わかる必要もない……これは正しいだろう。アロイシスにはアロイシスの,神父には神父の事情がある。これも正しい。しかし,権力構造について言及する感想が少ないのはなぜだろう? アロイシスが孤軍奮闘せねばならない理由も,ドナルド・ミラーが特別の存在である理由も,すべては性別や人種がもつ権力機構によるもので,それなくしてそもそも本作の「疑い」の場は成立しない。
なにより,問題の”当事者”であるドナルドは劇中に一切登場しない。本来もっとも顧慮されるべき人物が不在なのだ。それはアロイシスが言うとおり神父をかばって終わるからかもしれないし,母親が言うとおりドナルドの心に傷がつくからかもしれない。しかし理由はどうあれ,事の中心人物がそもそも舞台に姿を見せることすらなく,周囲の語りの中に存在がすべて回収されていく──これは,作中で提示される権力構造のうちもっとも苛烈なものだ。冒頭の孤独なたとえ話とは裏腹に,本作が示す「疑い」の場はつねに人間関係の,階級闘争の場のなかでしか意味をもたない。
ところで,わたしは「爪が長いのに清潔」と聞くと「性犯罪の常習犯なら短く切り揃えるだろうな」と思ってしまうが……。