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鄭義信 『てなもんや三文オペラ』 再生産される女性性,隠蔽される天皇制

この戦争をやった者は誰であるか、東条であり軍部であるか。そうでもあるが、然し又、日本を貫く巨大な生物、歴史のぬきさしならぬ意志であったに相違ない。

坂口安吾『堕落論』


生田斗真にウエンツ瑛士,渡辺いっけい,福井晶一……数多豪華なキャストを取りそろえて幕を上げた『てなもんや三文オペラ』は,コロナや地震などのアクシデントこそあれ,演目自体は今のところ成功を収めたと言えそうだ。私が観た回はほぼ全員総立ちのスタンディングオベーションで,割れるような拍手の音が渋谷パルコの空間を埋め尽くしていた。拍手のすきまを縫うようにして,前後の席からはすすり泣きの声が漏れていた。
実際役者の演技はよかったし,「吉本新喜劇っぽい」と評される種々のコメディシーンもわりと笑えた。主題も──ある意味では──非常に明瞭で,現代日本でこれを演じる意義も理解した。そのうえで,わたしはこの公演を評価すべきではないと判断した。本作はまったくブレヒト的ではなく,そしてブレヒトの以下の発言を悪い意味で達成してしまっている。

このオペラは、観客が劇場でどういう人生を見たいと望んでいるかという問題についての一種のレポートである。

『三文オペラ』へのブレヒトの覚書

とはいえ,先に書いておかねばならない……本作は『てなもんや三文オペラ』であって,『三文オペラ』ではない。ベルトルト・ブレヒトが原作なだけで,ブレヒト演劇ではない。よって「原作に似てない!」と否定するだけでは不十分だし,そもそもわたしはブレヒトをぜんぜん知らないので,ある程度作品の意向に沿ったうえで批判を加えてみようと思う。先走って言えば,この批判は結局ブレヒトによる旧来演劇の批判に戻っていくことになる。

なお,以下の文章ではキャラクター名でなく役者名で記述することが多いが(マックでなく生田斗真など),これは原作と本作の混同を避けるためであり,他意はない。


あらすじ

『三文オペラ』は変な話である。ロンドンの悪党・メッキース(=マック・ザ・ナイフ)と乞食王ピーチャムの娘・ポリーの結婚を巡っててんやわんやし,なんやかんやでメッキースが死刑に処されて終わりそうなところ,いきなり女王陛下の恩赦によってメッキースは釈放。なぜか城やら称号やらも授けられて強引な大団円を迎える。

『てなもんや』も大筋は原作と変わらない。ロンドンは戦後大阪に,盗賊団はアパッチ族(註1)にそれぞれ置き換えられているけれども,マックとポリーが結婚→ピーチャムの大反対→娼婦ジェニーの裏切りとメッキース逮捕→あわや死刑……という流れはそのまんまである。
しかし本質的に重要な改変がいくつかあり,『てなもんや』の評価はそれら改変をどう捉えるかにかかっている。


改変された箇所

簡単に言うと,改変されたのは①ジェンダー,②結末である(註2)
以下,順にみていく。

①ジェンダー

乞食王の娘・ポリーは,『てなもんや』ではウエンツ瑛士演じる男性・ポールになっている。したがって生田斗真とウエンツ瑛士の結婚というくだりは,必然的に同性愛の問題を呼び込む。
なお生田斗真のかつての恋人・ジェニーふくむ娼婦たちも福井晶一ら男性が演じるが,これは劇中での扱いは女性,要するに女形である。ややこしい。

また,これはジェンダーとはやや外れるが,生田斗真の愛人・ルーシーは平田敦子が演じる。彼女はプラスサイズとかぽっちゃりとかふくよかとかの回りくどい表現ではなく,劇中で端的に「デブ」と呼称され,やたらパンをかじりまくる。

鄭義信チョンウィシンと生田斗真のインタビューによれば,これらは生田斗真が性別を超越した「人たらし」であることを演出しつつ,同時にピーチャム夫妻がポールとマックの結婚に猛反対する理由づけとしても機能している。実際劇中歌では「許されぬ恋」という言葉が出てくるし,原作では虚偽妊娠にすぎなかったルーシーは,『てなもんや』では子供を産める女 vs 産めない男という対立──すなわち生物学的本質主義による同性愛差別──を強調するべく,本当に妊娠したことになっている。

②結末

ピーチャムはあの手この手でメッキースを追い詰め,死刑寸前まで追いやる。いよいよ執行という段,メッキースが演説をかまして観客の同情を誘ったあたりで,原作ではピーチャムがいきなり「せめてオペラの中ぐらいは正義より恩情が通じるところを見ていただきたい」とか言い出す。
すると女王陛下の使者が馬に乗って(!)登場し,メッキースは死刑どころか貴族に昇格,お城と年金一万ポンドをゲットする。ピーチャム夫人は「これで一切ハッピーエンド。人生はこんなに簡単。王様が救いの手をのべりゃ」と騒ぎ,ピーチャムは「本当の世界では,救いの神は来ない」「踏みつけ合うのがオチさ。だからあまり不正を追求するな」と述べる。

このように原作は異常なオチで終わるが(註3),『てなもんや』で恩赦は与えられない。ウエンツ瑛士の「恩赦はないの」という嘆きは無視され,絞首台に上がった生田斗真はそのまま処刑される。処刑の直前,彼は原作にない長い長いモノローグ(註4)を述べる──生きたい,俺の犯罪と戦争といったいどっちが悪いんだ,誰がこの戦争をやったんだ,云々。

そもそも原作のメッキースが普通にカスなのに対し,生田斗真は「虫も殺せない」男である。戦争中に親友を守るため敵兵士を殺してしまった彼は,俺が殺さなかったらあの兵士も家族に ”ただいま” を言っていたんじゃないか,俺があの兵士から ”ただいま” を奪ったんだ……と後悔をつづけている。しかも生田斗真を死刑に追いやる数々の罪状は「濡れ衣」と明言され,しかし彼は「あのたった一回の殺人のために」死刑になることを選ぶ。こうして観客は心置きなく生田斗真に感情移入することができる。

以下ではこれら改変がどのような効果をもっていたか,あるいはもってしまったかを検討する。

なお念のため付記しておくと,鄭義信は紫綬褒章も受賞したベテランの演出家であり,誇張でなくブレヒトについてわたしの一万倍くらい詳しいはずである。実際『てなもんや』には原作オタクへの目配せっぽい箇所(註5)もあり,例えば生田斗真が釣りをしているシーンがそれである。原作自体に釣りの描写はないため鄭義信のオリジナル演出なのだが,代わりにブレヒトは覚書でこんなことを書いている。

彼〔メッキース〕はその末路を絞首台などとは思わず,自分の領地の川で魚釣りをして悠々自適の生活を送ることを考えている。

『三文オペラ』へのブレヒトの覚書

そして生田斗真の「慰霊」が行われるのもやはりこの川であるから,川をキーワードとして『てなもんや』を解釈するのはたぶん可能だろう。ただしこの記事ではこれ以上深堀りしない。


ジェンダー - 再生産される女性性

ポリーを男性に置き換えることで,なにが起きたのだろうか? 確かにピーチャムが結婚に猛反対する理由はわかりやすくなった。真実の愛は生物学的本質主義を乗り越える……という非常に現代的な主張も自然に組み込まれた。それは大多数の観客にとって口当たりのよい主張だった。

一般にこうしたフェミニズム的な観点は,抑圧的な規範やステレオタイプを破壊することにひとつの主眼があると言ってよい。それ自体はブレヒトの言う異化──慣れ親しんだ事物を非日常的なしかたで提示すること──と親和的だろう(註6)。しかし肝心のポールの描き方は,果たしてその目的に適っていたか。

結論から言えば,ポールは規範を解体するどころかむしろ再生産している。
光文社版『三文オペラ』の谷川道子による訳者解説を見てみよう。谷川は『三文オペラ』が「実は女たちの芝居ではないだろうか」と述べ,その女性描写がいかに生き生きとしているかを語る。
原作のポリーは最初「ワルに惚れちゃうタイプのバカ女」みたいな描写で始まるが,次第にメッキースの財産をかなり正確に把握している抜け目なさを見せたり,メッキースの逃亡中には盗賊団をきちっと統率する才覚を見せたり,単純に恋に恋する女では終わらない自立した女性であることが示される。結婚式の翌日に夫が去っていくというのに「〔あの人は〕きっともう帰ってこないわ」と独り言ち,そのまま盗賊団の女親分として指揮をとる……なんて,相当に意志の強い人である。しかも彼女はメッキースの処刑騒動に際して「なんとかするわ」と言いながら,結局なにもしない。

ウエンツ瑛士演じるポールはどうか。ポールからは成熟が剥奪されている。メッキースが「〔君と〕したくなったよ」と言ってポリーに誘いをかけるシーンは削除され,代わって描かれるのは生田斗真にキスをせがむもあしらわれてしまう乙女の姿である。

ポールからは主体性が剥奪されている。盗賊団をきりもりする原作と違い,『てなもんや』のポールは明らかに部下にナメられており,活躍するシーンも特にない。「きっと帰ってこないわ」と別れを覚悟する原作の強さは失われ,代わってポールは膝を落として両手を合わせ,ただ体をふるわせて祈るばかりだ。原作が自立した女性を描いたのとはまったく逆に,本作のポール描写は使い古された弱い女性像を反復再生産することで成立している。

あえて好意的に解釈するなら,ポールが ”女性的” なのは,他ならぬ彼女自身がそうありたいと望んでいるからだ……と読むこともできる。彼女が生田斗真に「妻」「奥さん」と呼ばれて否定しないのはその証左だろう,と。あるいは彼女の描写はむしろ弱さの肯定,悪しきマチズモからの脱却であって,女性による ”男性的” な資質の獲得を称揚することこそむしろ差別だ,という主張もありうる。しかしこれで本作を擁護するのはかなり苦しいと思う。

というのも,『てなもんや』が漂わせる喜劇のフォーマットが,それが生み出す笑いが,そもそも保守的なあり方をしているからだ。
たとえば福井晶一は女形として娼婦・ジェニーを演じているが,実際は明らかに ”オカマ” の仕草を笑うくだりがある。たおやかな身振りをしていたかと思えば,とつぜん野太い声でガニ股になって相手を威嚇する……といった具合に(もはや懐かしい!)。平田敦子の ”デブ” ネタも同様,これら笑いはある身体的な規範の存在を前提としたうえで,その規範から逸脱したものに対する懲罰として生じている。

そしてこうした懲罰的笑いは,劇場という空間と明らかに相性がいい。劇場では他の観客がどこで笑い,どこで泣き,どこで拍手をしているか,すべてが空気を通じて伝わってくる。とくに笑い声はよく響くから,自分の笑いどころが ”正しい” のか否か,常にフィードバックが返ってくるわけだ。想像のつかない人は,なぜバラエティ番組が批判を浴びながらも頑なに「録音笑い」を使いつづけるのか考えてみるとよい。多少の違和感は劇場という全体主義的な装置によって簡単に矯正される。一人スタオベすれば続々とスタオベする。観客は舞台だけでなく他の観客も観ているのである。

わたしは ”デブ” ネタで笑うなとは言っていない。”オカマ” ネタで笑うなという話も──まあ笑わないほうがいいと思うが──していない。演出の意図(と思しきもの)と,それが実際に語っている内容との齟齬を批判しているだけだ。


結末 - 誰がこの戦争を始めた

俺の犯罪と戦争とどっちが悪いんだよ,誰がこの戦争をやったんだよ……生田斗真もまた戦争被害者の一人であり,その独白は国の戦争責任に言及するに至る。しかし彼は結局「あのたった一回の殺人のために」死刑にされ,彼の数々の行動はすべて,いわばPTSD兵士の自罰的な営みとして──非常に食べやすく──理解される。時は移って一年後,ウエンツ瑛士と平田敦子は乳母車を川沿いに停め,慰霊のための灯籠をそっと川へ流す。

突然ですがここでクイズ。戦争責任,死刑,慰霊。これら単語から連想されるものはなんでしょう。もちろん答えは天皇である。しかし『てなもんや』には天皇のテの字も出てこない。

実際に昭和天皇に戦争責任があったのかどうか,そもそもそれを決める審級がどこにあるのか,わたしは知らない。GHQが日本を統治するためにあえて残したのが天皇制だ,という説の真偽も知らない。ともかく天皇は裁かれなかった。そして明仁天皇は──それが「象徴としての行為」の範疇なのかわたしは知らないが──慰霊として各地を回った。皇族たちの旅=行幸啓は,もう人間になってしまった彼らのそれは,おそらくは皇室の超越性を回復/維持させる機能も果たしたろう。たとえば茂木健之介は『SNS天皇論』の中で行幸啓とスピリチュアリティの関係を簡潔にまとめている。

本作には天皇のテの字も出てこない。しかし設定上はおそらく ”正当防衛” であった一介の兵士が,己の罪を清算すべく死を選ぶ過程で国の戦争責任を問う……というこの構図は,必然的に天皇の存在を浮かび上がらせる。なにより原作は英国女王陛下の戴冠式と並行して進んでいるのだから,『てなもんや』で彼女に対置されるのは間違いなく天皇であるはずだ。実際ピーチャムがブラウン警視総監を脅すときも「皇居」というフレーズが繰り返し登場するし,脅し文句に使われるのは(わたしの記憶が正しければ)二重橋事件──天皇が一般人に向けて「おことば」を述べる祝賀の場に際し,将棋倒しが起きて十六人が死亡し九人の関係者が処分された大規模群衆事故──である。本作の天皇は,果たしてどこへ行ってしまったのか?

多分にマルクス主義の影響があるとされる原作では,弱者ないし底辺であるメッキースら登場人物たちこそ,むしろ市民ブルジョア的な思想のもとに行動している。実際,ブレヒトは覚書において「『三文オペラ』は内容として市民ブルジョア的発想を扱っている」「俳優は盗賊メッキースを,市民ブルジョア的性格を持つ人物として表現しなければならない」などと書いている。
競争に敗れた底辺たちはしかし競争原理から脱することなく,自らを貶めた勝者至上主義をむしろ内面化して,今度は底辺の中でマウントを取り合う。そして既得権益の象徴こと女王陛下は,マウント合戦にすら敗れた底辺オブ底辺に救済を施すことで,社会の構造を破壊されぬよう守るのである。弱者と強者は対立せず,共犯関係を結んでいる──これが『三文オペラ』の主張の一つであった(註7)

『てなもんや』ではウエンツ瑛士が「恩赦はないの」と涙ぐんで尋ねる。今まさに戦争の責任を問うている日本という国の,その象徴として存在する──しかし完全に透明化されている──天皇に対して。これはもはや共犯関係と呼んでいいのかすらわからないほど奇妙な話である。「お前のせいなんだからせめて恩赦出して助けろよ」という糾弾ならともかく,ポールは明らかに法をもくつがえす救済の拠りどころとして,すなわち超越的な力の行使者として天皇を求めているのだから。それは今まさに生田斗真が非難しているところの,国民を戦争に駆り立てる主体の,暴力的な権能と表裏一体であるはずだ。
そして恐ろしいことに,観客は誰もこの奇妙さに気づかない。「#てなもんや三文オペラ 天皇」などとTwitterで検索をかけてみるとよい,ほとんど誰も言及していないのがわかるだろう。本作は天皇のような面倒な問題をすべて隠蔽することで成立しており,その隠蔽は同化=犠牲者たる生田斗真への感情移入によって達成される。恩赦の不在という悲劇的な改変は国の戦争責任を問うようでいて,その実天皇制の否認からくる消極的な──あるいは商業的な──演出に過ぎない。

戦争,責任,死刑,皇居,恩赦……これら要素が繰り返し登場するにも関わらず,本作は天皇の話を一切扱わない。それは単に流行りではないからか,ジャニーズを起用して渋谷のど真ん中で13000円もらって見せる演目としては扱いが面倒くさすぎたからか,わたしはよくわからないが,いずれにせよ天皇制が空気と化した現代という時代を色濃く反映している,反映してしまっている。なんの機能もなく,姿も見せず,口に出すのは憚られ,しかし超越性の残り香だけはかすかに保持されている──そういう現代の天皇制(註8)
ここにはブレヒトが企んだような,舞台上の出来事から距離をとって考えさせるという異化のはたらき,浸って泣いてないでもっと考えろよという要素は全くない。時代に即して味付けされた慰霊と鎮魂という口当たりのよい料理が提供され,わたしたちはただ口を開けて待っているだけである。

原作では恩赦による秩序回復がグロテスクなものとして提示されるが,天皇が隠蔽された『てなもんや』で秩序回復の役割を担うのは恩赦ではなく,ウエンツ瑛士と平田敦子によるまったく個人的な慰霊である。
二人は灯籠をそっと川に流し,なんかエモい会話をして,あまつさえ二人の間に新しい関係が芽生えそうな雰囲気すら醸し出して(註9),平和だねぇとつぶやきあう……すると突然,舞台が左右真っ二つに割れる! 劇場には爆撃音が鳴り響き,舞台装置の下から現れた亡者たちが一斉にうめき声をあげる。ここで生田斗真が上手からおもむろに登場する。彼はゆるりと舞台中央へ歩み寄ると,流し灯籠をゆっくりとその胸に抱きかかえ,大きな声で「ただいまー!!」と叫ぶ。舞台奥では無数の灯籠が浮かび上がる! 感動のエンディングである。

慰霊によって死者の魂を鎮める──それはまさに明仁天皇の仕事であった。生前退位の「おことば」における「日本の各地,とりわけ遠隔の地や島々への旅」とは慰霊訪問にほかならない。
『てなもんや』では死者=生田斗真本人に「ただいま」と叫ばせることによって,また彼の声に応えるかのように無数の灯籠を浮かび上がらせることによって,鎮魂の正当性が担保されている。昭和天皇による恩赦を得られなかったポールは,代わって明仁天皇の役割を担うことでマックの魂を鎮める。そしてそれは見事に達成される。死者の声を代弁することによって……これを天皇制の追認であると主張するのはさすがにアクロバティックすぎるが,隠蔽したはずの天皇制に結局は絡め取られていることは指摘していいだろう。

天皇制を本作でどう扱えばよかったのか,わたしはよくわからない。相当面倒くさい問題だと思うし,そもそも原作を知らない人に天皇制の話を展開したら「思想強すぎてウケた」とTweetされて終わるような気もする。
けれどもともかく,問題の隠蔽技法として同化をもちいるのは明らかにズルである。それは笑いの話と同じく,劇場の全体主義的な性格を悪用していることになるから。

「大劇場でジャニーズだから天皇制はキツい」ではなく,「大劇場でジャニーズだからこそ天皇制を扱う」くらいの気概を見せてもらいたかったが,それは無理なお願いなのだろうか。もし無理であるなら,すなわち劇作品が劇場に支配されるなら,もはや大劇場に通う理由はどこにもない。


おわりに

大学構内を歩いていると,フェミニズム関連の看板やポスターをしばしば見かける。そこには様々な闘争がある。一方で,「天皇制反対!」のようなビラを見たことは一度もない。わたしは政治と歴史をまったく知らないが(註10),たぶん今では天皇制ネタは流行っておらず,ジェンダー問題のほうが流行っているのだろう。
『てなもんや』は図らずもその傍証となった。天皇制は時代背景を無視してまで不在化され,一方でジェンダー問題は半ば強引に現前化された。そしてもはや日常と化してしまった戦争へのアンチテーゼとして──それは明仁天皇の「象徴としての行為」と並行してしまっているのだが──鎮魂の儀式が描かれた。しかし ”オカマ” を笑う視線に顕著なように,いわば反差別・反偏見を謳って行われる活動がその実差別と偏見に満ちているといった,ある意味現代あるある的な内容に終わっている。

わたしは別にブレヒトの信奉者ではないから,観客を泣かせる舞台を作るのが別に悪いこととは思わない。同化なくして異化はないはずだから。翻案が原作の意図をなぞらねばならないわけでもない。しかし『てなもんや』が原作と真逆に突っ走った結果生まれたものは,まさにブレヒトが批判した要素そのものだったのではないか……と思わずにいられない。

最後に改めてブレヒトの覚書を引用しよう。

一切を一つの理念に組み込んでしまうこのやり口,観客を単線的なダイナミックな思考方向に駆り立ててしまい,右も左も上も下も見えなくしてしまうこの傾向は,新しい劇作の立場から言えば拒否されなければならない。

『三文オペラ』へのブレヒトの覚書

『てなもんや三文オペラ』がこの批判をかわせるとは,とても思えない。



註釈

1 アパッチ族

パンフレット記載の吉永美和子『アパッチたちが生きた路地』によれば,アパッチ族とは戦後大阪に実在した盗掘集団らしい。主として在日コリアンから成る彼らは,終戦前日の集中爆撃によって焼き尽くされた大阪砲兵工廠跡地を中心に,スクラップ金属を拾い集めた。自ら「在日2.5世」と語る演出家・鄭義信チョンウィシンにとってこの翻案は特殊な意味を持ったはずだが,わたしは無知なのでこれ以上ふれない。

2 改変された箇所

実際には音楽の違いも大きいと思われる。ブレヒト劇における劇中歌はミュージカル的な「感情が高まった結果,もはや言葉ではなくなって歌が現れ」たものとはまったく異なり,むしろ物語の本筋から微妙に外れた歌である。会話と歌は「常に切り離されていなければなら」ず,いつの間にか歌い出しているなんて演出は「嫌らしいもの」だ,とブレヒトは覚書で述べている。
一方本作では,生田斗真がインタビューで「僕らも台詞だけでは表現できない感情や思いを,音楽に乗せて演じる楽しさがあります」と答えていることから,ミュージカル的な演出指導が行われていたといえる。
しかしわたしは音楽がまったくわからないので,どうもそうらしい,ということしか言えない。

3 異常なオチ

非常に唐突かつ荒唐無稽なこの結末は,実際は喜劇の一つのフォーマットに即している。
たとえば『お気に召すまま』では道化のタッチストーンがノモス自然フィシスを撹乱する役割を担っているが,最後に彼は「結婚」というノモスのルールに吸収され,すべてがノモスのもとで秩序付けられて幕が降りる。あるいはジョン・マーレイらの喜劇『Room Service』では,主人公たちによる詐欺騒動はもはや取り返しがつかないレベルに達するものの,最後には半分モブの上院議員がデウスエクスマキナ的に登場することでなにもかも解決する。
このように「最後は丸く収まる」のが喜劇の一つのフォーマットであり,そのグロテスクさを前景化させた作品が『三文オペラ』だと言える。

4 原作のモノローグ

原作のモノローグでは「銀行強盗など,銀行設立に比べれば子供騙しの仕事に過ぎません。男一匹殺すのと,男一匹飼い殺しにするのと,どちらが質が悪いでしょう」という有名なセリフがある。ブレヒトの資本主義批判が色濃く出た箇所である。

5 原作オタクへの目配せ

おそらく実際はアパッチ族の活動と川が切り離せなかったから演出に加えただけで(盗掘から逃げ帰る過程で溺死する者がいた),これをオタクへの目配せとか解釈したり川がキーワードとか言ったりするのはパラノイアだけである。
ともあれ,「鄭義信はブレヒトにまつわる諸々を全部わかったうえであの演出をしている」という推論は(常識で考えて)当たっていると思われる。

6 ブレヒトの異化

「なじみのものを奇異なかたちで示して驚きや好奇心を惹起すること」が異化効果の説明としてよく使われるが,これは実際にはシクロフスキーの「異化」であってブレヒトのそれではない,という主張もある。
例えば岡田恒夫は『観客を挑発する異化効果』の中で,「「異化」を社会的なものとしてとらえ、いわば「演劇を通して社会を変える」という視点が、ブレヒトの「異化」の特色である」と述べている。が,わたしは演劇も政治もまったく知らないので,紹介するにとどめる。

7 天皇制と共犯関係

天皇においては ”天皇に服従することで他者を支配する” という奇妙な構造が成立していた,というのが坂口安吾の洞察である。『堕落論』には次のようにある──「日本の政治家達は……自己の永遠の隆盛を約束する手段として……絶対君主の必要を嗅ぎつけていた」「天皇を拝むことが,自分自身の威厳を示し,又,自ら威厳を感じる手段でもあったのである」,と。これは『三文オペラ』のそれとは別のかたちの共犯関係であるような気がする。

8 現代の天皇制

偉そうなことを言っているが,わたしは天皇制についてぜんぜん知らない。超越性がどうとか機能がどうとかは最近読んだ『SNS天皇論』や『むずかしい天皇制』を参考にしている。

9 戦争と家族主義

ルーシー=平田敦子は明らかにポール=ウエンツ瑛士になびいており,ポール側はおそらく恋愛感情こそないものの,”疑似家族” はやぶさかでない……といった結末である(もちろんこれと違う解釈をする人もいるだろうが)。
敗戦によって愛国心=大きな愛が失効したとき,代わって命を差し出す価値のある対象として持ち出されるのが小さな愛,家族や恋人への個人的な感情である。もちろん今や家族主義の安易な称揚はナイーブすぎるとして嫌われるし(なんたって ”毒親” ブームの時代だから),配偶者による救済はロマンティックラブイデオロギーの忌み子みたいなもので(理解ある彼くん),解体しきった結果どこに救済が残っているのかわからないのが現代だ。しかし ”ただいま” しかり疑似家族しかり,戦争のようにわかりやすくかつ強大な敵を相手にするときは今でも家族主義が駆り出されてくるらしい。それがウエンツ瑛士&平田敦子の一見ヘテロセクシャル的な──つまり「許される」──関係に収束していくのはもはや心地よい。秩序の勝利,保守の勝利!

10 天皇制とジェンダー(追記 7/6)

実際無知は事実なのだが(最後に日本史を体系的に学んだのは中学の社会科だ),無知を理由に雑な主張を押し通すようでは批判対象と同じ穴の狢,とまっとうな指摘を受けたので追記しておく。うざったい予防線を手癖で書くべきではなかった。無知は免罪符ではなく,ただの弱点である。
天皇制とジェンダーの "流行り" について一つ補足すると,たとえば大澤真幸はよく「昔は天皇制反対がいっぱいいたが,今では日常になった(大意)」と話している。実際,近年では世論調査で「皇室に反感を持っている」と答える人がついに0%となった。まあ元々数%しかいないのだが……。
そして,これはおそらく ”弱者” としての天皇像の発見と並行している。皇族が不幸な運命を背負った弱者として認識されることで,むしろ左翼的な支持を(天皇が!)集めるようになった……というやつである。要するに,天皇は ”かわいそうな人” になった。
しかし不思議なことに「じゃあ天皇制を廃止しよう」と立ち上がる人は無視できるほどわずかだ。これをフェミニズムと比べてみるとよい。フェミニズムの隆盛はすさまじく,ミスコンには必ず批判の声が上がる。広告も創作もみなフェミニズム的な観点を持ち,内面化し,またそれに怯えてもいる。これはわざわざわたしが証拠をあげるまでもないように思う。
”弱者” をめぐる同じ問題でありながら,一方は廃れ,一方は隆盛する。”流行り” とはこの事態を指している。なぜそんなことが起こるのか? これはたぶん左翼の運動史的にすごく重要なのだろうが,とりあえず本記事では問題提起にとどめる。



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