唐に渡れなかった遣唐使
過去生リーディングを受けてみたお話の続き其の弍です。
三人目は日本人です。
青く染めた絹地の水干(すいかん)姿の貴族の男性だそうで、名は田沼。水干というのは、比較的庶民よりの装束なので下級貴族かな。
遣唐使で唐に派遣されるため、航海の無事を祈って水辺から沖の島にある神社へ船で捧げものをしに行った姿が視えたそうです。供物はアワビだったそうです。結構ディティールが細かい!
名の田沼は調べても江戸時代の宰相の名前しか出てきませんでした。遣唐使は名前が記録されているので田沼さんと言う名の方はおらず、出家して名前を変えていたのかもしれませんが、真相は分かりません。
それから、この遣唐使が航海の無事を祈って参った場所というのを調べてみました(深掘り大好き)。その場所とは住吉大社。平安時代までは今の大阪湾の奥深くまで浅瀬だったのを思い出したので、調べてみたら大阪城のある台地の南の端でした。それなら供物を沖の島へ持っていったという記述と矛盾しませんね。
当時の住吉大社は江ノ島や竹生島の様に飛び地だったのかもしれません。
遣唐使は、最初が舒明2年(630年)から菅原道真の建議により廃止される寛平6年(894年)まで264年間に渡って実施されました。その何処かで使節団に加わったのでしょう。衣装から察するに、だいぶ後半の方だと思います。
さて、遣唐使で有名な人といえば、何といっても空海さん最澄さんのお二人です。彼らも大変な苦労をして唐に渡りましたが、特に空海さんは天才ぶりを発揮して2年でさっさと帰国😅実に型破りな方です。その後は言うまでもなくそれぞれ高野山、比叡山と言う霊場を作り上げた偉人ですね。2017年に、自分の意思とは関係なく高野山へ行くことになったこともあり、空海さんには勝手にご縁を感じているのですが、何となく記録されていないメンバーとして使節団に混じって近くにいたのかもしれません。この辺りは勝手な妄想ですが。
結果として、この遣唐使に参加した田沼さんは航海中に嵐に遭い、唐には辿り着けず命からがら京に戻ってきたそうです。念願の唐留学は叶わず、無念の思いを抱いたままだった様です。
田沼さんからのメッセージは
自分の意志だけでは、どうにもならないことがある。
私はそれで、失意のうちに人生を終えてしまった。
臨機応変に生きろ。
これ、と思い込んで突っ走って、失敗したら違う道があることに気づけ。
道は一つではないのだ。
と言うものです。
自分の中には、道に忠実にまっすぐ強情に進み続ける悪い癖があります。
つまり臨機応変にできない不器用なところがあると言うこと。まさにこのメッセージの指すところです。これも容赦無く自分に刺さってきました😅
もうちょっと違う道があることに気づけるよう柔軟性を保つ努力をしたいと思いました。