ペンネーム:774
その人は、人里離れた森の奥に住む、年老いた人形師でした。彼は来る日も来る日も窓の傍の古ぼけたウィンザーチェアに座り、木を削り、磨き、もう60年も人形を作っていました。手元のランプだけが煌々と光る彼の部屋には、端麗な少女の人形がいくつも並べられ、透き通った硝子の瞳が夜を映しています。同じ形の人形を、同じように作る。それが彼の仕事でした。彼ができあがったものに関心を向けることは殆どありませんでしたが、時折商人らしい若い男が訪ねてきては、その内のいくつかを引き取っていきました。血が通っているのではないかと錯覚するほどの精巧な少女の人形は、街で売ると高い値が付くのだそうです。もっとも、真四角なこの小さな世界しか知らないわたしにとっては些末な話に過ぎませんでしたが。
彼は仕事の傍らで私を作りました。少しずつ少しずつ、長い時間をかけてわたしという人形を作りました。どの人形よりも丁重に、美しく作られていくわたしを、彼は時折、伏せ目がちに眺めました。そうしてわたしを作り終えた時、彼はわたしの左の頬を撫で、掠れたテノールを唇に乗せました。
「お前を私の最後の作品にしよう」
頬と翡翠の瞳を覆う温かな指が離れ、わたしの顔に再び光が差します。彼の足下には、いくつもの“わたし”になれなかった未完成の人形たちがありました。彼がわたしを作るまでに、一体どれほどの人形を作ってきたのか。ほんの一部だというその人形たちが物語っていました。
彼は人形を作ることを辞めました。“わたし”を作ることだけでなく、人形師を名乗ることももう二度とありませんでした。まるで“わたし”を作るためだけに、人形師をしていたかのようでした。実際、わたしは少女たちと同じようでいて、何一つ同じではなかったのです。彼はわたしを決して少女たちと同じ棚に並べませんでした。商人の手にも触れさせず、ただわたしを手元に置き続けました。悠久のように思える時の中で、“わたし”だけが彼の瞳に映っていたのです。
彼はわたしに言葉を教えました。おはよう。いい天気ですね。いただきます。ごちそうさまでした。さようなら。おやすみなさい。まるで幼子に話しかけるように、折に触れて、いくつもの言葉をわたしに与えました。しかしわたしは声を持ちません。彼の言葉はいつも、部屋に響くだけでした。
次に彼は感情を教えました。喜び。悲しみ。感動。孤独。幸福。恐れ。敬愛。慰み。愛しさ。彼は様々な感情をわたしに見せました。しかしわたしは人形でした。言葉も、感情も、人間だからこそ知ることができるのです。それでも彼は何かに縋るように、わたしに言葉や感情を教え続けました。わたしがそれらを理解することはなく、
春夏秋冬
春夏秋冬
ただ、季節だけがわたしと彼の間を通り過ぎていきました。
「もう辞めたらどうですか」
商人の男がぽつりと呟いたのは、彼がノミを握らなくなって3年が経った頃でした。部屋に取り残された最後の人形を引き取りにきた男は、何もなくなってしまった無機質な部屋を見渡します。それからわたしと彼に目を遣り、微かに眉を下げました。
「貴方が話しているのは人形ですよ。貴方が何をどれだけ教えても、人間になんてなれない」
彼は何も答えませんでした。男に背を向け、わたしの髪を梳きました。大きな影がわたしに落ち、わたしの周りにだけ夜が訪れたようでした。男はそんな彼に歩み寄り、なおも続けます。
「街の人間が貴方のことをどう呼んでいるか、知らないのですか。……頭のおかしな老人だ、気味の悪い奇人だ、そんなところです。この先ずっと──死ぬまでずっとその人形に幻覚を見るおつもりですか」
男は眉根を寄せ、目を瞑り、こくりと喉を鳴らしました。そして次に男が口を開いた時、彼は初めて表情を変えました。
「その人形が娘さんの代わりになると、本当に思ってるんですか」
わたしは彼の娘でした。誰よりも彼の娘に似た人形でした。彼は亡くした娘の代わりに“わたし”を作り、人形師を辞め、言葉と感情を教えたのです。彼はわたしに、ずっと娘の姿を重ねていました。その瞳に、娘の姿を映していました。
彼は目を見開き、わたしの髪を梳く手を止めました。そしてその手を下げ、ゆっくりと頭を垂れました。
どれほど時間が経ったでしょうか。彼は低い声を絞り出しました。
「分かってる……分かっているんだ本当は……」
小さな小さな声でした。彼の体は震えていました。彼の瞳からは雨がしきりに降り、わたしの足を濡らしました。しかし彼は傘をさしませんでした。
男が彼の肩に手を置くと、彼はその場に崩れ落ちました。男はその体を抱えます。彼は言葉にならない声を漏らし、床にうずくまりました。それからしばらく、男も彼も、この小さな部屋に雨を降らせ続けました。それが、わたしが見た彼の最後の姿です。
彼と少女の人形たちが部屋から消え、またいくつかの季節が巡った頃、わたしはまだ彼の部屋に佇んでしました。右の腕は、あるときプツンと音がして千切れてしまいましたが、そのほかは全て、彼がわたしを作った時と同じようにありました。
彼も商人の男も、もうここには来ませんでした。深夜時折、懐中電灯を持った数人の男女がやってくるだけです。彼らは部屋に足を踏み入れたかと思えば、叫び声を上げて我先にと出て行きました。誰もわたしに語りかける人はいませんでした。
ある日、わたしは彼らの話を耳にしました。彼らは今まで訪れた男女と違って、叫び声を上げませんでした。薄暗い家をいくつも回っているうちに慣れてしまったと彼らは笑い、取り留めのない話をしました。その中で、わたしは彼が随分前に死んだことを知ったのです。
刹那、わたしは体が燃えるように熱くなるのを感じました。体が動くことはないのに、今すぐこの部屋から走り出したくなりました。言葉を吐き出せないことが苦しく、彼の姿が頭から離れませんでした。そして気が付いたのです。これが感情である、と。
どうしてこんなにも体の奥が熱いのか、消えてしまいたいほどに胸が痛むのか、その時初めて私は知りました。この痛みが感情であること、それを彼が教えてくれたこと、彼はもう二度と目を開けないこと、人には終わりがあること、あの時彼は泣いていたのだということ。
わたしは彼が全てでした。この部屋がわたしの世界の全てでした。街の人間が彼をなんと蔑もうと、彼はわたしにとっての心でした。
冷たい風が、わたしの髪を攫います。次の季節が、もうやってこようとしていました。わたしはその風の中で、そっと胸の痛みを抱きしめます。悠久の時が手の内にあったとしても、この悲しみはきっと癒えないのだろうと。