シャーリイ・ジャクスン「くじ」書評(評者:リュウ・ジュンケイ、高瀬晴基)
シャーリイ・ジャクスン「くじ」(『くじ』収録)
評者:リュウ・ジュンケイ
皆さんが知っている「くじ」はおそらく年末ジャンボ宝くじのような、当たった人が賞金やプレゼントを貰ったり、幸せを感じるものだと思う。しかし、当たったらひどい目に遭うくじというものを聞いたことがあるだろうか。
この物語ではとある村で行われている行事で300人の村民がくじを引き、当たった人を集団で殺すという悲惨な話である。非常にシンプルな話だが、最後まで読まないと意味が全く分からなかった。細かいところに情報が溢れている。物語の結末を知った上で、この作品の恐ろしいところを見てみよう。
この小説では主人公がいなく、登場する村民全員が主人公ともいえる。最初は非常にきれいな言葉で「六月二十七日の朝はからりと晴れて、真夏のさわやかな日差しと温かさに満ちていた」と村の中で起きたいい話についての物語なのではないかと錯覚を起こした。しかし、読み続けるとある文に疑惑を感じた。「ボビー・マーティンはもうポケットを小石で膨らませていた。」なぜ石をポケットにいっぱいまで入れるのか。ほかの少年も同じようにポケットに石がいっぱい入っていた。抽選用の箱は先祖から引き継いだものであり、作中の人物である「ワーナー」は「七十七回目じゃよ」と言っていた。この300人の集会がもう少なくとも77年も続いたとわかる。最も驚いたのは人々の名前で、全て欧米人の名前であることと最初にくじを引く人の名前が「アダムズ」であることである。アダムズは聖書にある「アダム」に名前が似ている。もしかしたらこの集会は宗教的なことではないか思っていた。ここまで読むと、何か変な雰囲気が漂っていることがわかった。そして、「ハッチンスン夫」がこの集会に遅れて来て、「今日が何の日だかってことを、あたしゃすっかり忘れちまったよ」と言った。ここから見るとハッチンスン夫人は他の人にように早々に集まるではなく、この集会をあまり重視していなかったのではないか。このくじのルールでは一人を一族の代表とし、くじを引く。当たったら族内でまた二回目の抽選で一人の選ぶ仕組みである。結局、ハッチンスン家にくじが当たった。ハッチンスン夫人はずっと「あんなの公平じゃない」と叫ぶ。家族内の抽選ではハッチンスン夫人が当たった。最後、ハッチンスン夫人は広場中央に立ち、石の洗礼を受ける。なんとも荒唐無稽な物語である。
二回目を読むときに275ページに「今では人口が300を超し、しかも年々増加する傾向にある」と書かれていた。なぜ毎年人を殺すのに増加するのかと考えていた。くじの仕組みから考えると、一族の人数が多ければ多いほど自分の生還率が高まるので、それで人口が増えるのではないかと考えた。村民たちがこの人殺しに慣れているということが如何に恐ろしいことかと思った。しかも、毎回殺されたのはハッチンスン夫人のような村の秩序を無視する人なのかもしれないという疑問も感じた。もしかしたら、くじには「闇」があるのか。主催者が嫌いな人を村から「駆除」させるのか(教会が悪霊を祓うように)。村の神聖さを保つためなのか。と多くの疑問が残っている。
(日本語協力:菅原祥)
評者:高瀬晴基
伝統とは社会の中で歴史的に形成、蓄積され、世代を超えて受け継がれてきたものであるから、それが良きにつけ悪しきにつけ、一度定着した伝統の前において我々は非常に無力な存在と化す。行いの本来の意味をも忘れて、何のための行いかすらわからず伝統というだけで従う事さえも間々あることだ。そのような理性を離れ、伝統に支配されるということの賤しさ、恐ろしさが、シャーリイ・ジャクスン『くじ』では描かれている。
6月27日、毎年開かれる伝統行事「くじ引き」の為に、人口300人程度の村の殆ど全住民が広場に集まっていた。くじ引きの手順として、まず一族の長がくじを引き、次に当たりを引いた一族の世帯ごとの代表がまたくじを引く。そして最後に当たりを引いた世帯の全構成員がくじを引き、村全体の中の一人を選出するという手段が用いられた。抽選の結果、当選者はビル・ハッチンスンの妻であるテシー・ハッチンスンに決まり、町民は皆広場に用意されてあった石を彼女に投げ、殺害したのだった。
この作品は中盤までと終盤で180度作品の見え方が変わってくる作品であるだろう。中盤まで読者には、くじの意味は明かされず、行事の間、子どもたちははしゃぎ、大人たちも世間話や噂話をするなど、彼らの姿は当日の暖かな気候のように実に暢気なものであった。しかし、終盤に入り、当たりを引くことが不吉なものであると明かされると、一転物語全体の調子がガラッと変貌する。人を殺す、また自分がその対象になるかもしれないという状況でも暢気にお喋りを続けていた彼らは正に気を違えていて、悪しき伝統に支配された愚かな存在であるように思わせた。
悪しき伝統に支配された典型的な存在として、ワーナーという老人がいる。彼は「くじ引き」に通算77度参加している人間であり、これまで77人を殺してきた。彼にとっては「くじ引き」はいつだって当たり前に存在してきたものであり、その行為の意義を信じて疑うことはない。だから他所の村で「くじ引き」の意義が疑われ、行事自体がなくなっていくという流れを理解できず、生理的嫌悪感を覚えた。ワーナーは正に老害そのものとして描かれており、これまでの伝統を崩さまいと保守的な姿勢を貫いている。最も厄介なのが、彼がくじ引きの作用を過大に評価し意固地になっていて議論の余地すらないという所であり、このような人間はもうどうにもならない。しかし、この物語に救いがあるとすれば、「くじ引き」を廃止した村があるという事実、そしてそのことを羨む村民が存在しているということであり、ワーナーのような老害世代が死んだ後には変革の未来が訪れる余地を残しているということがいえる。
ある伝統が社会全体にとって有益に働くかどうかを判断することは難しい。個人にとって単純に不便なことであっても、広く見れば社会の益、自分の益につながることもある。だから取っ払うにしても慎重になるべき問題ではある、しかし本作のような、伝統が作られた理由も説明できず、毎年恒例だから、というような軽い調子で人の生死を扱うような伝統、ましてくじ引きで犠牲を無作為抽出するなどという愚行は即刻廃れるべき悪しき伝統であると言わざるを得ない。我々は伝統や慣習に従う前にまず、なぜそれをしなければならないのか、という問題への意識をもって日ごろから行動しなければならないだろう。そしてそれこそが、この作品を通じて作者が我々に伝えたかったことの一つだったのではないだろうか。