シオドア・スタージョン「死ね、名演奏家、死ね」書評(評者:北川結衣・吉岡渚)
先週の4回生ゼミではシオドア・スタージョンの異色ミステリ「死ね、名演奏家、死ね」を読みました。音楽について、嫉妬について、など、様々な観点から議論がかわされました。
シオドア・スタージョン「死ね、名演奏家、死ね」(『一角獣・多角獣』収録)
評者:北川結衣
誰しも一度は他人の才能に羨ましさを感じたことがあるのではないだろうか。その「羨ましい」という感情は、強くなればなるほど「妬ましい」という感情に変化する。そして人間の「妬ましい」という感情は、強まるほどおぞましい「憎しみ」に変化する。
この物語は、タイトルからも感じられるおぞましい憎しみによって殺人を犯した男の話である。
主人公のフルークはゴン・ギースと呼ばれるジャズバンドに所属していた。彼は世間には見せられないほど顔が醜いと言われ、バンドの中ではいつも暗い所にいた。そんな彼は、才能を持ち、誰からも愛されるゴン・ギースの代表とも言えるラッチ・クロフォードにとても嫉妬していた。彼は嫉妬からラッチの殺害をも思案していたなかで、新しくバンドに加入してきたフォーンという女とラッチが結婚するかもしれないと聞いた時、これ以上ラッチに幸運が来てたまるかと殺害を決意する。1度目は失敗に終わったものの、2度目で遂にラッチを殺害、海に沈めることに成功するのだった。
しかし、バンドに残り続けるラッチの面影によってまだ完全に彼を殺せていないことに気づく。なんとかバンドから彼を消そうと試みていく中で、メンバーに企みが露呈してしまう。メンバーたちから大量の罵詈雑言を浴びせられ、憎しみからの行動の報復を受けるのだった。
人は忘れられてから本当の死を迎えるとよく言われる。フルークはまさに、自分の中からラッチを忘れ消し去りたいと言う強い思いから、肉体を殺してもなお自分の周囲に残り続けるラッチの面影を殺し続けた。しかし、そこまでラッチの死への執着心を生み出してしまったわけはなんだろうか。
自分自身を醜く思うが故に、全てにおいて何不自由なく生きるラッチに嫉妬してしまっていたフルークだが、本心はそんな自分を誰かに認めてもらいたかったのではないだろうか。彼は終始、ラッチの才能に蝕まれていたとも言える。彼は音楽においても、恋愛においても、ラッチに奪われてしまっていた。最終的にラッチのかつての要望によって整形手術を受けさせられ、彼は肉体さえも「ラッチの求めるフルーク」へとなり果ててしまったのだ。フルークは自身を認めるために、自身を蝕むラッチを忘れ消し去りたかったのである。フルークという人間そのものに全員が真摯に向き合えていたら、未来は変わっていたのかもしれないなんとも悲しい物語である。
評者:吉岡渚
人は忘れられた時に死ぬ、アイドルとは偶像、など、読了と同時にそのような言葉が頭に浮かんだ。
シオドア・スタージョン著、小笠原豊樹訳の「死ね、名演奏家、死ね」は醜男が妄執に苛まれる話である。醜男であるフルークは、完璧超人であるラッチを3度殺した。理由はいくつもあったが、バンドメンバーの紅一点であるフォーンがラッチに好意を寄せていることがトリガーとなった。1度目は、銃殺を試みたが失敗し、2度目は、成功した。そして3度目も、成功した。2度目はラッチの生命としての命を、3度目は音楽の中で生きるラッチを殺したのだ。それでも1度目の失敗からか、音楽の名で生き続けたせいか、死んでいると確信を持てないフルークは、それ故に犯行を自ら証明する事となった。<ラッチならどうするか>を信条とするバンドメンバーは、ラッチが生前二の足を踏んでいたフルークへの整形と以降の接触禁止を条件にフルークを不問とした。整形後、ラッチによって施されたことに憤りを感じたフルークは自ら身を投げることで、全てを思うがままにしたであろうラッチを出し抜こうとし物語は幕を閉じる。
さて、ここで冒頭の言葉からこの作品を見る。人は忘れられた時に死ぬ、これはフルークにとってはいい言葉ではなかっただろう。音楽の中ですらラッチを感じ取るフルークにとって、整形のきっかけがラッチであればふとした瞬間にラッチという概念に息吹が吹き込まれるだろう。最後の投身自殺はラッチにとらわれることなく、やっと思い通りにならずに済む道だったのだ。しかしなぜ、フルークという人物はなぜここまで至ったのだろうか。フルークは恵まれて見えるラッチが羨ましく、自分に職を恵んでくれるラッチにプライドを傷つけられ、妬ましかった。ラジオパーソナリティをスカウトされるほどの知識とトーク能力や新人の才能の目利きといい才能はあったのだ。でなければ、脱退を止めないラッチが殺害未遂を不問にしても引き止められなかっただろう。それでも、顔のコンプレックスによる自己肯定感の低さやそれに起因する卑屈さが上回ったのだろうか。だとしても、殺害後にもかかわらず、ラッチの妄執に取り憑かれる様は異常に見えた。
上記を踏まえて、アイドルとは偶像である、まさにラッチとはフルークが思うような完璧超人であったかを考える。作中、度々、フルークの知らないラッチの一面が描かれる。フォーンとの関係に揺さぶられる姿やフルークへ整形の打診に悩む姿である。さも、自分の思う通りに全てを手にできる男らしくない、人間味溢れる姿であった。対して、フルークの脱退の際に見せた姿や、意味ありげな部隊という命名とそれに準じた行動、死後もラッチという人格を部隊が作り上げ、基準となるほどの影響力、まるで神のように指標となったラッチはそれを意図したのか、それがこの作品の面白さであり、不気味さなのだろう。ありきたりであれば、全てはフルーク視点による妄執やバンドメンバーらの強い感情により偶像を作り上げられたと考えられる。ラッチは底抜けのお人好しで、バンド環境をより良い状態に保ちたかった人間かもしれない。しかし、確実にラッチは部隊のあり方とメンバーもしくは役割を重視していた。殺害未遂を不問にするほどである。この異常さから意図的であるという考えを捨てきれない。そもそも、メンバーが偶像を作り出すのも意図的であったのかと、ラッチを捉えようとする私もその思考の度にラッチという偶像を作り出しているのではないだろうか。
初めにこの作品を醜男が妄執に苛まれる話と記述したが、その妄執に私も取り憑かれたのではないかと錯覚するものであった。けれどもそれにより、ラッチの思想によって物語が一味変わるのはなんとも面白いものだと思った。