長野まゆみ「45°」書評(評者:中島虎太郎・藤原明日加・小森翔太)
先週の3回生ゼミでは長野まゆみのミステリアスな短篇「45°」を読みました。そもそもこれはどういう話なのか?をめぐって興味深い議論が展開し、驚愕の解釈も生まれたのですが…ここに紹介できないのが残念です。
長野まゆみ「45°」(『群像短篇名作選 2000〜2014』収録)
評者:中島虎太郎
私たち人間は様々な言動や物事などに対して自分なりの考えや、解釈を持ったりする生き物である。そのため簡単に自分の考えがまとまり解釈できればスッキリするが、逆に上手くつじつまが合わずに考えがまとまらないときや、話の中で妙な違和感を感じるとモヤモヤした気持ちになるだろう。この作品は読者にそのような違和感による解釈のずれなどが多く生まれ、モヤモヤを残すようなミステリアスな作品になっている。
主人公である雨宮はチェーン店の窓際の席に座り遅い朝食をとっていた。彼は窓からステンカラーの白っぽいレインコートを着た人物に目が留まった。雨宮は物珍しいその人物に親近感がわき、ステンカラー人と名付けた。ステンカラー人はチェーン店に入店し、雨宮の後ろの席に着く。ステンカラー人は待ち合わせをしていたみたいで、先に席にいた人に遅れを詫びている。少しするとステンカラー人は浜田、先に席にいた人物はカタロギと名乗りだし、カタロギが浜田に事情聴取のようなことをし始める。その話を雨宮が盗み聞きする状況から物語は始まっていく。物語は転々とカタロギと浜田が会話していく様子が描かれる。しかし話の途中でカタロギがビルの3階から落ちて記憶をなくしたことを浜田に伝える。そのままビルから落ちた時の話が進んでいくと話の終盤に浜田の方から私はビルの3階から飛び降りた人の巻き添えに遭い命を絶ったというような告白があった。浜田のこの話を境に浜田とカタロギの話が終わる気がし、雨宮は後ろの席を振り返ったがそこにはドリンクのカップが一つ残されているだけであった。
まず物語の中の話の中で読者によって解釈に違いが生まれるのはカタロギがビルの3階から転落したという場面だ。読者の多くはまずこの場面で疑問を感じたのではないかだろうか。ビルの3階から自殺目的で飛び降りたのか、それとも何者かによって落とされたのか。私は後者の考えが真っ先に浮かんだ。読んでいく中でおそらくカタロギは何者かに落とされ、その人物に関する情報を浜田から得ようとしているという解釈が一般的であろう。また浜田がビルの3階から落ちてきた人の巻き添えになり命を絶ったという場面でも読者によって解釈に違いが生まれたのではないだろうか。浜田は落ちてきたカタロギの巻き添えに遭い命を絶ったのなら、なぜ今話をしているのか。それとも浜田自身の話ではなく、浜田の知り合いが巻き添えに遭い妬みの意を込めてまるで自分が巻き添えに遭ったかのように話しているのか。ほかにも解釈の仕方はあるのかもしれないが、物語の話のつじつまが合わない分読者に考えさせるような展開の仕方になっているのではないかと私は感じた。
次にこの物語を読んでいく中で違和感を感じるのは浜田やカタロギの人物像を想像させるような描写がなく、あいまいなまま物語が進んでいく点だ。男性なのか女性なのか、また年齢はいくつぐらいなのか。物語の中で雨宮が浜田やカタロギがどのような人物なのか知るために飲み物を注文し席へ帰ってくるときに、後ろの席を見てみたがその時はステンカラー人一人しかいなかったとある。雨宮の解釈としては、カタロギの方はトイレに行っているのだろうというものだった。しかし読者の多くはこの場面でもしかしたら今までの話はステンカラー人と名付けた浜田のひとり芝居で、実際にカタロギという名の人物は存在しないのではないかと考えることができるだろう。またp281の18行目からp282の9行目に書かれている「気弱なのは性分ではなく~耳元へ群がってくる。」の部分で雨宮の耳が普通の人とは少し違うということが読み取れる。よってもう一つの考え方として浜田とカタロギが話しているわけでも、浜田がひとり芝居しているわけでもなく、雨宮自身が幻聴として聞き取っているという風に考えることができる。
この小説はやはり物語の状況や話の中でも曖昧な点を残しつつ終えることから、読者それぞれにその人なりの解釈で読んでいってほしいという思いがあるのではないだろうか。私は物語の最後の行に「雨がふりだした。~鳥が群がってくる。」という一文を入れていることから、物語の中の話は主人公である雨宮による一人芝居だったのではないかと解釈してみた。
評者:藤原明日加
この物語を読み、率直に感じたのは「奇妙さ」や「違和感」である。主人公である雨宮はチェーン店の窓際で食事をしていた。彼は窓越しにある人物を見つける。今では物珍しくなったステンカラーの白っぽいレインコートを着た男だ。今時そんなものを着ている彼に対し雨宮は親近感を覚え、気に入り、ステンカラー人と名付けた。ステンカラー人は同じ店に入店し注文をした後、雨宮の脇を通ってすぐ後ろの席についた。待ち合わせをしていたらしく、そのテーブルには既に先客がいたようだが雨宮は席の都合上、先客の姿を確認することは出来なかった。ステンカラー人はその人物に呼び出されたようで、フィクションのようなとある事件について事情聴取を受ける。雨宮はその話を盗み聞きしているという立場である。
ステンカラー人は自らのことを浜田、先客はカタロギと名乗った。三十年前の夏、カタロギはビルの三階から飛び降りる。その影響で記憶障害を起こしてしまい、事件より過去の記憶が無い。カタロギはその日、向かいにあったビルの屋上でバイトをしていた浜田に真実を知るため、連絡をしたのだという。
まず、序盤の物語では完全に浜田とカタロギが二人で会話しているかのように進む。しかし、カタロギの姿が頑なに出てこない点や浜田が転落事故に巻き込まれ、命を絶つはめになったとまるで自身に起こった出来事のように語った点等から違和感を覚える。これはステンカラー人の「一人芝居」である可能性が非常に高い。そもそも、テーブルには一人しかいなかったのだ。これはP289でステンカラー人が立ち去った後雨宮がテーブルを確認した際、他に人はおらずドリンクも一つしか残されていなかった描写が裏付けになる。
ここで彼が二重人格である説も浮上してくると考えられる。ステンカラー人は、もしかすると浜田ではなく、カタロギの方で本当に転落事故を起こしてしまったのかもしれない。その際に浜田という人間と接触し殺めてしまったのだ。ステンカラー人は自分だけ生き残ってしまったという罪悪感から己の中に浜田という別人格を作り上げてしまったのかもしれない。
また、そもそも彼の独り言はもはやフィクションである可能性すら考えられるのではないだろうか。浜田という人物もカタロギという人物も全てが嘘なのかもしれない。ステンカラー人は本当の名前を持っており、浜田やカタロギという名前はストーリー上のただの登場人物に過ぎない可能性だってある。つまり頭の中で思い描いたストーリーを一人二役演じていたのだ。しかし、これらはただの想像に過ぎない。ステンカラー人について分かることといえば、医療センターに通っているということくらいだ。理由は明確ではないが恐らく記憶障害あるいは精神病であろう。
冒頭で雨宮がステンカラー人に対し親近感を覚えている描写があった。雨宮が医療センターに通っているかどうかは判断できないものの、ステンカラー人と彼も似たような状態にあるのだろう。雨宮は耳の不調を抱えていた。P282「雨音なのだと、ちゃんと認識できれば眠れるだろう。雨宮も理屈はわかっている。だが、まぶたを閉じれば鳥たちが耳もとへ群がってくる」樋を流れる雨音が鳥のさえずりに聞こえていることから、彼は幻聴の類に悩まされていることが分かる。医療センター行きのバスに並んでいるステンカラー人を見た後のP290「雨がふりだした。ささやくような雨音が聞こえる。しだいに雨宮の耳もとに鳥が群がってくる」という描写からも医療センターに通っている可能性がある。また、この一節から一連のステンカラー人の会話が雨宮の幻聴ないし思い込みによるものなのではないか、という解釈が生まれ、個人的には最も腑に落ちた。
雨宮は本来聞こえたものを改変してしまう部分がある。それは雨音が小鳥のさえずりに聞こえてしまうという描写から読み取ることが可能である。そうなると雨宮はそもそもステンカラー人の話を言葉通り正確に聞くことが出来ていたのか。そもそもステンカラー人は本当にフィクションのような独り言を言っていたのかという疑問に至る。実ははなから、全て雨宮の絵空事だったのではないだろうか。ステンカラー人は席につくなり何か独り言を言い始めた。彼に親近感を覚え、注目していた雨宮は彼の独り言を改変して、自分にとってとても面白い話だと感じていたのかもしれない。
この作品は予想外の展開が多く、初心者でも楽しむことができると感じた。冒頭を読んでいる際、私は雨宮と同じくカタロギと浜田の会話に釘付けになっていた。事件性のある物語と伏線に注目し、息を呑んで読み進めていたが、そもそもテーブルにはステンカラー人一人しかいなかったという展開は素直に驚いた。同じような反応した読者は少なくないはずだ。この小説は物語を通して「絵空事」を体現しているように感じた。また、解釈の余地が多くあり、読者によってもかなり意見が変わるのではないだろうか。
評者:小森翔太
三十年前、アドバルーンの浮揚員だった男と向かいのビルから転落し、記憶を失ったカタロギという人物の会話を主人公である雨宮が背中越しに聞き始めたことから物語は始まる。
カタロギと名乗る人物は転落事故の真実を知るために男(浜田)を呼び出していた。二人の会話は男が浮揚員だった時の詳しい話から事故が起こった時の状況へと展開される。二人の会話が続くこのシーンはミステリー小説のように膨大な情報が読者に与えられたと感じた。雨宮も聴衆がいることを前提としたパフォーマンスのようだと感想を漏らしているが、私も頭の中で整理しきれないほどの情報量だと感じた。本のタイトルである「45°」という角度もここで説明されている。バルーンが45°傾いたら危険なので下ろすという浮揚員のきまりだったようだ。
そして物語は思わぬ結末を迎える。なんと男はカタロギの飛び降りの巻き添えになった被害者だった。さらに男は「何が起こったかを知ることもなく不本意にも旅立つこととなりました」【289ページ9行目】と語った。男は既にこの世には存在しない人物ということになる。しかしながら、雨宮は男(ステンカラー人と呼んでいる)を目視している。さらに後ろを振り返った時にはカタロギの姿はなかったのだ。
私はこの物語を読んで全体的にぼんやりとした印象を受けた。どこまでが現実でどこまでが幻想なのか区別がつかない。「カタロギ」は恐らくは男だと思うがはっきりとした性別の明記はない。あえて片仮名で表記する点にも作者の意図を感じた。冒頭部分でも「フヨウイン」と男の口から説明があるまで片仮名で表記している。不確定な人物や言葉は片仮名で表記しているのではないか。表題である45°という角度もなんだか曖昧で不気味に思えてきてしまった。また、「曇りがちの空」【270ページ6行目】の天候もあって読んでいてどんよりとした重苦しい気分になった。結末にも後味が悪く、モヤモヤとした感覚が残った。さすがに違うと思うが、この一連の出来事全てが雨宮の夢(幻想)ではないと辻褄があわないと感じた。
正直、私は作者が伝えたいことがあまり分からなかった。ただ、知らないほうがよい事実もあるということを伝えたいのではないだろうか。カタロギは明らかに自分に都合のいい解釈をしている。自分を被害者だと思い込んでおり加害者だとは微塵も思っていない。あたかも上手いこと言っているかのような例え話を連発するこの人物の口ぶりには私も雨宮や浜田と同じく違和感を抱いた。カタロギは真実を知らなければ、残りの人生も記憶を失った以後のように平穏に暮らしていけただろう。ただ、真実を知りたいという気持ちは共感できる。自分のことなら尚更だ。日常生活で誰もが知らなくてよいことを知ってしまって後悔した経験があるだろう。私も必要以上に物事を深掘りしてしまって後悔した経験がある。人間の本能的な部分の難しいところを絶妙に突いていると感じた。
この物語は読み手によって好き嫌いが分かれる作品ではないか。私はこのような結末がぼんやりしている作品を初めて読んだ。何度も前の文章、ページを見返して読んだ。文章は読みやすいと感じたが、やはり結末に納得がいかなかった。45°という角度は結局、なんだったのか。良く言えば不思議な余韻が残ったが、悪く言えば置いてきぼりにされたような感じがしてしまった。
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