マトリックス:レザレクションズ 感想文 【観た人向け】
0:ふたりの人間が愛し合うということ
マトリックスの新作、レザレクションズを観た最初の感想は「これは、愛の物語なんじゃないか?」だった。
私は数年かけてシリーズを一通り見終わった程度には知っているが、「マトリックスシリーズの大ファンです!!」というわけではない。
その為、公式の設定について深い知見はない。
しかし、今回は観終わった後に感じた、この映画を「ラブストーリー」として感じるに至った道筋を文字に起こしてみたいとnoteを開いた。
1:繰り返されるデジャヴュと仮想世界
アンダーソンは、機械の見せる夢の中で、繰り返しデジャヴュに襲われる。前にもこんなことがあったような気がする。
デジャブ(既視感)とは、自分にとって未だ経験のない未知の出来事が、すでに経験した既知の認識であるように感じられてしまうという認識のあり方
だが、なぜそれが起きるのか。
マトリックスの物語上の説明では、機械が作った世界に起きるバグのようなものであるという。
しかし、メタ視点で見れば、あらゆる映画は繰り返し上映される。だけではなく、あらゆる物語は繰り返し語られる。
物語を類型に分けることは、神話など「物語」を研究する上での基本。
実際に、さまざまな物語に共通するパターンを見出し、類型化したAT分類という理論がある。
アンティ・アールネにより編纂され、スティス・トンプソンにより増補・改訂された。
音楽でもそうだ。コード進行やメロディにはルールやパターン、類型が存在する。
繰り返されながら、変化しているものが物語であり、歴史であり、音楽だ。
2:社会学者フェラロッティによるメディア論への反発
メディア論で有名なマクルーハンは「人間を拡張するものとしてのメディア」を賞賛し受け入れた。
それに対して、イタリアの社会学者フェラロッティは、自著の中で「人が、ホモ・サピエンス (知恵のある人) からホモ・センティエンス (瞬間に生きる人) あるいはホモ・ポスト・ヒストリクス (歴史を失った人) になった」と嘆いている。
彼はものすごい読書家だったので、テレビを歴史から断絶された、瞬間消費的で、断絶どころか歴史を葬り去るものだと感じていた。
彼が現代を生きていたらどう思うだろうか。
3:機械のミッションと人間のミッション
機械のミッションは、繁栄するためにエネルギー源として人間が人生で起きる感情を使う=人間を電池として使うこと。だった。
それは、言い換えれば、
「社会の成長(エネルギー=資本・消費)」を定常的に増大させ、拡大させていく試みであると言える。
4:フェイスブックとボットと自殺
アナリスト、と聞いた瞬間に「ケンブリッジアナリティカ」を連想したのは僕だけではないはずだ。
ケンブリッジ・アナリティカは、ドナルド・トランプの大統領選挙活動において、フェイスブックが収集した2.2億人の合衆国の心理的プロファイル=5000の分かれたデータ・セットに基づいて、マイクロターゲティングによる選挙活動=バイアスを強くする活動を通じて選挙戦を支援したとして批判の的になった会社だ。
人の行動や趣向、状態を元に分析し、テレビとは比べ物にならないレベルの操作をボットを通じて行うこともできる。
とはいえ、操作には限界があるよね。というのも言われているところで、結局アナリストは、人の欲求や不満や怒り、あるいはそれを呼び起こす情報を拡声器のように爆音で、パーソナルに届けることが可能。という一点で強い気もする。
5:消費され、利用されるマトリックス
本作は、キャットリクスのように、メタ視点で過去三部作を茶化しながら、裏でそっと悲しんでいるような趣がある。
例えば、「赤い錠剤」は、真実の世界をみるためのものだったはずが、女性嫌悪の集団にとって重要な象徴として利用された。
イヴァンカ・トランプは、億万長者のイーロン・マスクを引用して、自分は赤いピルを「飲んだ」と誇らしげにツイートしていた。
彼らには、青い錠剤が赤い錠剤に見えているのかもしれない。
なぜなら青い錠剤は、自分に都合の良い / 同質的な社会に適合するためのものだからだ。
6:BINARY - 自由意志か運命か。
作品内で繰り返し問いかけられる疑問
人間は自由意志を持っているのか?
ルネサンスの思想家 ピコ・デラ・ミランドラ『人間の尊厳について』における現代に通ずる人間観。
神は特殊な能力を全て他の被造物に与えてしまったので、最後の被造物であるヒトには「自分で自由にそうありたいと思った存在に自分を作り上げる能力」を与えた。
上記の前提において、【自らの産物である「人格」がなした行為】には道徳的責任を持つべきである=つまり、自分自身をコントロールできるという前提。
努力が足りない。才能が足りない。自己責任論。
こうした前提への問題提起は近年たくさん出てきている。
例えば、マイケル・サンデル「『実力も運のうち 能力主義は正義か?』」が批判するメリトクラシー=能力主義
そもそも「能力」があるかないかを決めるのは誰か?
→その環境を作ったのは誰か?
→能力であるかないかを決めるのは誰か?
成長や有用性は、ほとんどの場合「経済的価値」や「道徳的価値」に紐づけられる。
つまり、マトリックスのシステムにとって有用かどうか。
神経科学・心理学・進化学の発展で、前提としていた「自由で反省的で自律的な行為主体としてのヒト」は間違いだったことがわかってきている。
つまり、ヒトは行為をコントロールできないし、自由に選択できないし、心を反省するのも下手だし、それほど合理的に行為しない。
生まれ育った環境や、時代、文化背景、身体、さまざまな要因によって人は抗い難い影響を受ける。
もっと言えば、現代のマーケティングや情報流通は、「人間の生理的な反応」あるいは「文化的に埋め込まれた反応」に訴えかける。
つまり、人は自分の行為を完全にコントロールすることはできない生き物だということがわかっている。
自己責任の話に戻れば、過度に責任を重視する倫理システムが人々を苦しめている現状がある。
弱いものがさらに弱いものを叩く構図
自己責任に耐えきれない人々の自罰的傾向を助長する。
環境、教育、コントロールできない因果的要因、運によって人格は決定されていく。だとしたら、行為の良し悪しに基づいて、一方を罰し、他方に報いるのは公正ではない。
「自由意志か運命か」
ここまで完全な自由意志はない。と結論づけられそうな話をしてきたが、本当にそうなのか?
ただし、人生はあらかじめ決められた、完全にコントロールされた運命である。とも言えなそうだ。
マトリックスの中での自由意志と運命は、二重の構造になっている。
ひとつは、機械の支配する世界のカラクリ=運命 と そこから逃れる術=自由意志
もうひとつは、宇宙全体の運命と、そこから逃れる術。
後者についてはわからないが、前者については、ひとまずの答えを出すことができそうだ。
0:再び、ふたりの人間が愛し合うということ
複雑極まりない社会のシステム、その情報の渦中で常識や既成観念に飲み込まれ、環境要因によって選択肢を知らず知らずのうちに狭められる人間に、自由意志はあるのか。
あるとしたらどこにあるのか。どんな風にあるのか。
リザレクションでは、もっとも強い自由意志が「愛」であるという答えをひとまず与えているように感じた。
大きな意味で、愛は決定論的なものかもしれないが、システムにとっては予測不能な力を持つものだと言える?
それは不条理で、非合理的で、当事者間にしか感じられない絆や価値観を生じさせるものだから。
つまり、二人の間にモーダルが生まれるようなものなのではないだろうか。
生物多様性といえば、有名なのがガラパゴス諸島だ。
ガラパゴスでは、他の地域にない特有の進化をした生物がたくさん生息している。
なぜか。それは環境が閉じていたからだ。つまり、特有のモーダルで、突然変異を起こした=その環境独自の変化を続けていたからだ。
文化人類学者がこぞって未開の地域の調査をしたのはなぜか。それは当時の西洋とは全く異なる価値観を持った人々がいたからだ。
文化や価値観、、ミームは閉じた環境下でこそ、固有の発展をする。
グローバル社会では、価値観が共有されているため固有のミームが生まれて来づらくなっている。
とはいえ、共有されたからこその反発=右派左派、ジェネレーション、経済格差などで大きな分断を生んでいる。これは自分こそが正しいという信念に対して、世界中から都合の良い意見ばかりを即座に集めることのできる社会の弊害だ。
ますます多様性からは程遠い。
かつて江戸時代のお祭りで各町が神輿を担いで練り歩き、その出来栄えを町人がジャッジするという文化があったらしい。しかし、そこには審判がいなかった。
なぜか?価値観が共有されていて、ほとんどの場合、満場一致で勝ち負けが町人全体で決定可能だったからだ。要するに、全ての町人が神輿の評価に関してはエキスパートだったから成り立っている。
専門家とは、各領域ごと、つまり社会全体からある程度切り離されたモーダルの内部に精通した人々のことだ。モーダル内部では当たり前のことが、外部では当たり前ではない。
予定調和的なモーダルへの介入は、システムにモーダルを取り込み、利用するような仕草になることもある。(科学は戦争に利用され、資本主義に利用され、本来の可能性や意義と尊厳を見失う。)
シリコンバレーがディセントラライズドの夢に浮かされるのも、こうしたシステムにうんざりしているからだろう。
より可能性に開かれた世界を作るには何ができるだろうか。
愛し合う人々の間の素敵な時間や逆に喧嘩の理由や、大切にしているものは、外から観てみると訳がわからない。
あまりにも退屈な理由で喧嘩をしているように見えるし、支離滅裂な理由で愛し合っていたりする。
それは外側にいる私たちには理解不可能なことだからだ。
もっともらしい説明をしようとすると、却って馬鹿らしい言葉しか生まれないが、それを魔に受けてしまうのは危ない。
当事者にしかわからない価値がそこにはあるからだ。
だからこそ、マトリックスに対して、愛する二人は混乱を与えることができた。
マトリックスを超える価値とは、誰もがシステムを離れるべきだという単純なことではないのかもしれない。
それではカオスしか生まれない。過酷な世界に身をおく必要などないと思う人もいるだろう。
ただし、誰もがシステムには外側があることを理解し、それぞれにモーダルを持ち、与えられた世界を変えていくこと。
抑圧された状態を当たり前として受け入れないことだろう。
マトリックスではバグだと軽んじられるデジャヴュ、つまりモーダルで形成されるような物語を、ミームを、価値観を、あるいは愛を、いまこの時を生きる自分の身体を通し、行為や動きによって見つけ直し、受け継ぎ、マトリックスに対して表現すること。なのかもしれない。
余談だが、マトリックスシリーズの監督であるウォシャウスキー姉妹は、二人ともトランスジェンダーであり、二人とも性転換手術を経ている。(ラナ・ウォシャウスキーは元ローレンス・ウォシャウスキー、リリー・ウォシャウスキーは元アンドリュー・ポール・ウォシャウスキー)
3部作は、トランスとしての自己というテーマが通奏低音として流れている。
しかし、視聴者側としてはもっと広い意味での「システムにハマらない、抑圧された人々」の物語として受け止めることができる、どちらにしても素晴らしい作品だと思う。
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