『世界の適切な保存』永井玲衣

二泊ほど、入院をした。元々予定していたもので、致命的な何かがあるわけではない入院。他のいくつかの本といっしょに、永井玲衣さんの『世界の適切な保存』を持ち込んだのだが、思いの外、読書をしようという気分にならず、パラパラと数ページを読んだだけだ。

9/20(金)、永井玲衣さんと岡野大嗣さんのトークショー&サイン会があり、会社終わりで梅田に向かった。岡野さんの短歌はまさしく「世界の適切な保存」であるということから、「正確」とはちがう「適切」について考えた。終始穏やかな雰囲気であった。永井さんは短歌を詠んだことがないというが、本のなかには短歌の引用が非常に多い。

永井さんは、その場でいちばん忘れられてしまうようなものを保存したい、というようなことを言っていた。例えばこの会場なら、あの棚の下のところでくしゃっとなってる毛布とか、と話していた。
岡野さんは、最近は短歌に味付けをしないようにしていると話した。「あなた」や「君」はけっこう味の素なので、便利なんだけど、最近はきちんと出汁を取りたいのだそうだ。なるほど、と思った。それが「適切」ということなのかどうかは、自分で考えることなのだろうなと思った。

岡野さんに、恋人の分と二冊サインをいただき、以前もサインをいただいたことなどを話して、会場を出た。
それから、以前から気になっていたうめきたの芝生公園に向かってみた。本当に不思議な空間で、芝生に腰かけているのが心地よかった。恋人たち、恋人未満たち、友人同士、ひとり、たぶん夫婦もいた。どのような人も排除されない雰囲気があったように思う。この素敵さを味付けせずに適切に保存するのは難しいなあと思った。

恋人に月の話をしてるのをちゃんと夜風がきいててくれた/姿煮

だめだな、味がついている。

いま、退院して、そのまま近くのカフェでこのノートを書いている。サバサンドとブレンドコーヒーがおいしい。
以前に恋人と行ったカフェの、名前を覚えていないこだわりのコーヒーが美味しかったな、と思う。ホットサンドを食べながら、それぞれのコーヒーカップの花と鶏のことを話した。こういう、ちょっとしたことをありのまま伝えたいと思うのが、適切な保存ということの第一歩なのかもしれない。

なに一つ忘れたくない昼前の カップの底の黒ずみさえも/姿煮

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