見出し画像

「勉強してない」がご法度の理由に気づきました。

もうすぐ年の瀬の今日この頃、今年最初で最後のTOEICを受けてきました。
2024年はTOEIC目標点とるぞ!と意気込んだ年明け、とりあえず単語帳を見ていた2月、なかなかうまくいかなかったので受験生の頃の単語覚え術を踏襲すべくmikanという学習アプリに1年プランの課金をしてやる気満々だったころはよいものの、5月からは大学の実習が忙しく気づけば忙殺された春夏……
8月は留学で、どちらかというとスペイン語に力を入れておりまして、9月と10月は大学祭の準備で3~6時間睡眠か11時間睡眠のどちらかで、11月はそんな無理し過ぎた大学祭で壊した体をゆっくり休めていたら、気づけば過ぎていったのでした。

さて、こんな状態でTOEICを自信をもって受けられたのかは言うまでもありません。しかも前日は外せない用事で、家に帰れば疲労による頭痛が襲います。
明日の朝っぱらに試験を控えているのに、ともう涙目です。
「こんな体調不良でいい点数とれるほどちゃんと勉強してないよ…」と。
7,810円もかかるのに、こんなに勉強していない自分を殴りたいと思いました。

しかし、ふと思いました。
全然ちゃんと勉強しなかった。それで点数がわかって、全然勉強しなかったからなあ、なんて思って次受け直すとき、私は果たして今回した勉強のことを思い出すのだろうか?
つまりはこうです。”何もしていない”という自己評価は、次に繋がらないのではないか、と思ったのです。
実際はまったくやらなかったわけではなくても、自分が”こんなのやったうちに入らない”とみなしたとします。そうすると、次回同じ目標に再挑戦するときに、前回は何もしなかったから、とゼロスタートの気持ちで取り組んでしまうのではないか。そうなると、前回に取り組んだこと、できたこと、そしてなによりやらなかった自分、できなかった自分を透明にしてしまうのではないか、とはたと気づきました。
私の”何もしなかった”はストイックさではありません。やらなかった弱い自分、情けない自分を認めたくなくて、最初から無かったことにしたかっただけです。
わずかしか積み上げていない石を、鬼が来る前に蹴散らしてしまうようなもので、そんなことではいつになっても成長するわけがありません。
学習の世界に鬼はいないのです。それなのに、鬼に見られたらどんなに馬鹿にされるかと自分のつくった小さな石の塔を自分で崩してしまえば、また挑戦するときに1から積み直さなければならないのです。
ゼロスタートにすれば以前に感じた情けなさ、自分の弱さをリセットできる代わりに、自分のしたこともゼロになります。弱さを直視しないで心を守ることと成長とはトレードオフだということを、この年になって理解しました。

もちろんやらなかったことについて、自分をなじりたい気持ちは十二分にあります。暴言を吐きたい気持ちも山ほどあります。
それでも、自分だけは自分のプロセスを認めて、次がゼロスタートにならないように石の塔を保たないといけないのです。悔しい気持ちと情けない気持ちも一緒に積み上げるしかないのです。だからなにかに順当に挑戦すると、心が大人になっていくのだと気づきました。自分は精神年齢が幼いなと感じてはいましたが、21年経って原因がわかってよかったです。

TOEICはとりあえず結果を待って、目標点に到達していなければまた受ける予定です。結果がどうであれ必ず糧になるというのは、自分の石の塔を気持ちに負けずに壊さなかった人に当てはまることです。気持ちは切り替えても経験は忘れず、落ち着いて待ちたいと思います。

いいなと思ったら応援しよう!