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小春日和(1)

小春日和ってねー、秋の日のことなんだって。知ってた?


雪乃の話題は、いつも急に変わる。そして、今日は、いつもよりよく話す。
3月20日。青空が眩しい午後。日差しは、暑いくらいだ。制服のコート、完全に要らなかったな。


そうなんだ。今日みたいな日のことをそういうのかと思ってた。春先なのにもう暑い。ほら、英語だっだら、インディアンサマーだよね。


実際、学校から駅に向かって歩き始めてまだ10分も経たないのに、額にはうっすら汗が滲み始めていた。並んで歩く雪乃を見ると、彼女もいつの間にか羽織っていたコートをサブバックに押し込めている。片袖が、バックから少しだけだらりと垂れているのが気になるけれど、私は知っている。清楚な外見に似合わず、彼女のカバンやポーチの中が、いつでもぐちゃぐちゃなことを。そして私は、もう一つ知っている。雪乃は、決してガサツな女の子ではないことを。彼女は、本当に可哀想なくらい不器用なだけなのだ。だから、彼女の荷物には、メイクポーチだけじゃなく小さなソーイングキットもハンドクリームも絆創膏もちゃんと入っている。心配性のお母さんが用意した手作りの防災キットまで持ち歩いている。ペンケースもノートもハンカチも大人の女性が持ってもおかしくないような上品なものを使っている。何より、彼女の所作も笑顔も優しさも美しい黒髪も可愛い声だって、全て本物のお嬢様のそれだった。

ね、小春って、絶対春の初めの頃のぽかぽかであったかい日って、感じだよね。
でも、春じゃなくって、秋とか、冬とかのあったかい日のことなんだって。
日本語、難しいねー。

うん、難しいねー。

ねえ、あたしたち、今年大学受験だけど、大丈夫かなあ。日本語知らなすぎるかも。

うーん、あたしは、全然大丈夫じゃない。数学も英語もやばいし。そもそも大丈夫な科目がないよ。

え、でも、インディアンサマー知ってるじゃない。あたしより、英単語一個分賢いよ。

そうなの? ありがと。


駅が、近づいてきた。その先の角を曲がれば、駅舎が見えてくる。小さな駅だが、お互いに乗る方向が違うから、改札を通ったら、そこでまたねとバイバイする。雪乃が、不意に立ち止まり背中を向けた。


ねえ、卒業式も、終わっちゃったね。先輩に会うことも、もうないね。


ああ、そうか、と思う。雪乃は、このことを話したかったのか。だから、ずっと…。


卒業式、素敵だったね。先輩も、素敵だったね。


それだけ、答えた。

雪乃は、私に背を向けたまま、動かない。

雪乃は私になんと言って欲しいのだろう。「そうだね」と受け流せばいいのか、「大丈夫だよ。会えるに決まってるよ」と根拠のないことを言えばいいのか、「また会えたらいいね」と慰めればいいのか。択一式の問題より選択肢は少ないのに、答えは、分からない。でも、動かない雪乃の背中は、次の言葉を待っている。私の言葉を、待っている。

ねぇ、雪乃、あなた、私になんて言って欲しいの?
私が、なんて言ったら、雪乃は喜んでくれるの?




気がつくと、スマホの電子音が、寝室中に鳴り響いていた。画面に目をやると、アラームの設定時刻よりも2分近く過ぎている。時間的には十分眠っているはずなのに、まだ、微睡んでいたい。最近、よく夢を見る。やけに鮮明(リアル)な夢なのだが、そこに私の知る人が現れることはない。記憶にない友人や恋人やときには同僚なんかがいつも私の周りにいる。そして、夢の中の私は、ちゃんと彼や彼女らのことを知っている。もちろん、名前も。起きてしばらくの間は、彼らの顔も声もしっかり思い出せる。でも、リアルな私は、彼らをまるで知らない。そんなことが、続いている。この気だるさは、夢見のせいなのだろうか。半身を起こし、アラームを切る。わざとらしく伸びをしてみるが、もう一度柔らかなマットレスに身を沈めたいという気持ちはなかなか消えてくれそうになかった。

「まだ、水曜じゃん」

自分を鼓舞するつもりで、声を出したら、さらに絶望的な気分になった。週末までの3日が、永遠に感じる。気だるさの原因は、本当は、夢を見たことなんかじゃない。原因は、とっくに分かっている。

でも、どんなに疲れていても、今の私は、職場に行かなければならない。夫との離婚が秒読みとなった今、私は、しっかり稼いで、娘たちを育てなければならないのだから。収入源を維持することは、目下の至上命題だ。そのために、転職だってしたばかりだ。思ったほど収入は上がらなかった転職だが、一年の休日は、10日も増えた。土日も祝日も確実に休めるから、前の職場にいた頃より子供たちと過ごす時間が増える。それだけでも幸せ、なんだと思う。ありがたいと、思う。


 隣の部屋のドアが開き、続いて階段をゆっくり降りる音が聞こえてきた。長女が、起きたのだろう。私は、両手で顔を覆い、目を閉じて自分に気合いを入れる。「進まなきゃ。とにかく、進まなきゃ。私、できるから。前に、進めるから。進んだ先が、前だから」そう心で唱えながら、胸骨を上げる。すると自然に顔が上を向く。口角を上げて、掌をゆっくり下ろす。大丈夫、私はちゃんと笑っている。私は、笑える。だから、大丈夫。

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