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往復書簡~本が好きな方へ送る、本好きの手紙~

既視の海様

気づけば花水木の時期も終わりに差し掛かり、日ごと夏めいてくるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
お送り頂きました「本が好きな方へ送る、本好きの手紙」があまりに魅力的で、ぜひ返信をしたく筆を執った次第です。

辻邦生と水村美苗の『手紙、栞を添えて』はお教え頂きました通り、ちくま文庫版を注文しました。数日後には私の手元に届きます。素敵な本をご紹介くださり、本当にありがとうございます。また一冊、大切な本が増えたこと、大変嬉しく思います。

お返しと言うにはささやかですが、私からは鎌田 實(かまた みのる)の『雪とパイナップル』をお伝えさせてください。

この本との出会いは、今年の3月に奈良県生駒市で開催されたビブリオバトル全国大会です。
ビブリオバトルとは口頭での書評合戦です。発表者たちがおすすめの本を5分で紹介し、''最も読みたくなった本''を投票で決めます。最多票を集めた本はチャンプ本と呼ばれます。表彰されるのはあくまで本で、発表の良し悪しでチャンプ本が決まることはありません。ただ純粋に、発表を聞いて自分が読みたくなった本を選ぶ。本を愛する人たちによる非常にユニークな戦いです。

そんなビブリオバトルで紹介されたうちの一冊が『雪とパイナップル』でした。

背景は1986年4月26日に起きたチェルノブイリ原子力発電所の爆発事故。舞台はベラルーシ共和国です。事故の後、ベラルーシに降り注いだ放射能は広島に落とされた原爆500発相当と言われます。
放射能の汚染地帯で甲状腺がんや白血病の子どもが急増し、支援要請を受けた鎌田医師はベラルーシに赴きます。
事故当時、政府はベラルーシに住む人々に対して原子力発電所の事故のことも放射能のことも隠蔽していました。この本に登場するエレーナさんもまた、何も知らなかった人の1人です。
生まれたばかりのアンドレイ君に春を見せてあげたくて、エレーナさんは乳母車を押して散歩に出ます。外は黒い雨が降っていました。
アンドレイ君は10歳で急性リンパ性白血病になります。難治性で抗がん剤は効かず、 患者自身の造血幹細胞を移植する治療(自家造血幹細胞移植)が行われました。アンドレイ君は敗血症や白血病の再発を繰り返し、その度に懸命に闘いました。そして、15歳になる年に息を引き取ります。
その後、 鎌田医師はエレーナさんに会うため再びベラルーシへ向かいます。アンドレイ君を救えなかった自分はきっと歓迎されない。そう思っていた鎌田医師をエレーナさんは温かく出迎え、日本人看護師のヤヨイさんについて語り始めます。移植療法の後、発熱と口内炎で食事ができなくなってしまったアンドレイ君のため、ヤヨイさんは「あること」をします。エレーナさんはヤヨイさんをずっと覚えていました。

大人が読む絵本というスタイルで描かれたこのお話しは、「ひとりのこどもの涙は、人類すべての悲しみより重い」という言葉から始まります。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』からの引用です。『カラマーゾフの兄弟』の中で、イワンが弟のアリョーシャに「罪のない子どもが他人の代わりに苦しみを受ける理屈がどこにあるのか」と問う場面があります。なぜ子どもたちは苦しまなければならなかったのか。人類の幸せは、子どもの涙と引き換えに成り立たせてもいいのか、と。

人々の生活のために用いられた原子力発電。その原子力発電所で起きた凄惨な事故。当時風は偶然北向きに吹いていました。そして政府は事故を隠しました。わずか10歳の子どもとその家族が負うにはあまりに大きな理不尽です。それでもエレーナさんが語ったのは怒りでも恨みでもありませんでした。
『カラマーゾフの兄弟』の中でイワンが問いかける「何をもって子どもの涙を償うのか」に対して、答えられる人間はいないでしょう。償う術もおそらくありません。それでも、エレーナさんが最後に語った言葉こそ、不条理で満ちるこの世界の希望に他なりません。
「ベラルーシ」とは「白いロシア」という意味です。冬は雪が、5月は林檎の花が、大地を真っ白に染め上げる美しい国であったお話し。ご興味とお時間があったらで大丈夫です。お手に取ってみてください。タイトルが『雪とパイナップル』である理由も、看護師のヤヨイさんがした「あること」と関係しています。

ビブリオバトル全国大会にて『雪とパイナップル』は僅差で2位でした。チャンプ本(佐藤圭一、冨田武照、松本瑠偉 著『美ら海水族館はなぜ役に立たない研究をするのか?』)も素晴らしかったのですが、私は票を『雪とパイナップル』に入れました。自分が看護師だからかもしれません。スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの『チェルノブイリの祈り』を読んでいたからかもしれません。生まれた場所が林檎の花の咲く地域だからかもしれません。読みたくなった理由はたくさんあります。全国大会という場で『雪とパイナップル』に出会えたことは私にとって幸福でした。
ビブリオバトルは「人を通して本を知る。本を通して人を知る」をコンセプトとしています。不思議なことに、普段自分が手に取らないような本も、人から紹介されると読みたくなります。そしてまた誰かに伝えたくなります。
本はただそこにあるだけでは無力です。読む人がいて、そしてそれをまた誰かに手渡す人がいて初めて、与えられた役割を果たすことができます。
『雪とパイナップル』が、既視の海様をはじめこの往復書簡を読んだ方たちの''読みたい本''の中に加えて頂けたら。そして、 10年後、20年後でも良いのです。何かの折りに読んで頂けたら。これ以上、嬉しいことはありません。

2023年5月11日  夜風に当たりながら
菅野 紫拝



追伸
『カラマーゾフの兄弟』の中でイワンが発した「人類の幸せは、子どもの涙と引き換えに成り立たせてもいいのか」という問いかけを元にする小説があります。アーシュラ・K・ル・グィン著『風の十二方位』に収録された『オメラスから歩み去る人々』です。紙幅を鑑みて今回は触れられませんでしたが、私の大好きな作品であるため、ここに簡単に記載させて頂きます。
オメラスという街の人々の幸福のために1人の子どもが犠牲になります。子どもを助ければ享受できる幸福が全て消えるため、子どもを助ける人はいません。しかし、ごく一部の人がとる選択が物語の最後に描かれます。 ジェレミー・ベンサムの功利主義について考えさせられると同時に、物語の静かな余韻が美しい小説です。


この往復書簡は既視の海様のお手紙『本が好きな方へ送る、本好きの手紙』への返信として書かせて頂いたものです。https://note.com/dejavudelmar/n/n593e003e993d

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