【一句鑑賞】冷かに壺をおきたり何も挿さず/安住敦
季語は「冷やか」秋の季語。
秋になって物や空気をひんやりと感じる
皮膚の実感のことだと、
私は捉えている。
句意は明瞭である。
何も挿さず、ただ壺をおいた。その壺が目の前にある。
そして、その壺をおいた手に「冷か」という実感がある。
その実感は、壺をおいた空間の冷やかさであり、
何も挿さない壺そのものに感じる冷やかさでもあると思う。
また、静かにおくのではなく、冷やかに壺をおいた
その行為自体が主人公自身の冷やかさともとれる。
何も挿さずとも、壺は壺としてそこにあるだけで美しいと
感じたその一瞬の冷やかさなのかもしれない。
音をみてみると、上五、中七、下五には
「やや yaya」「をお (w)oo」「ささ sasa」と
同じ音が繰り返されている。
そこに、なんとなく壺の重さを私は感じる。
一見わかりやすい句だが、疑問も尽きない。
壺の大きさは?形は?材質は?
どこに置いたのか?
これから何か挿すところなのだろうか?
だとしたら、何を挿すのか?
それとも、もう何も挿さないままなのだろうか?
これまで何かが挿されていたことがあるのだろうか?
答えのない疑問を繰り返す度に、
壺の存在がどんどん無限に大きくなっていく。
秋には、収穫や実り、というイメージがあるので
今は何も挿されていない壺も、
これから豊かに満たされていくのかもしれない。
いや、何も挿されていない壺は何かを失ったところで、
これから迎える冬の厳しさを暗示しているのかもしれない。
それとも最初から壺の中には何もなく、そしてこれからも
何もないままそこにあり続けるのだろうか。
何かで満たされる可能性と
何かを失った可能性と
過去も今も未来も空っぽの可能性と
いくつもの大きな可能性を秘めて
今、何も挿さず、
ただこの壺は「冷かに」存在している。
何も挿されていない壺は、何でも挿すことのできる
大きな大きな壺のようにも思えてくる。
主人公の皮膚の実感をとおして、
壺と主人公とが「冷かに」繋がり、
さらに言えば、読者である私が追体験するように
「冷かに」壺と繋がっている気持ちになる。
そして、壺の、底知れぬ秋の深淵に
そのまま引き込まれそうな
私がいる。
安住敦(あずみ あつし 1907年7月1日ー1988年7月8日)
出典:第3句集『古暦』1954年刊
この記事は、五月ふみさんが企画された
「好きな俳句の一句鑑賞アドベントカレンダー」に
参加させていただきました。
ありがとうございます!
毎日チェックするのが楽しい素敵な企画です。
これまでの分も、これからの分も、
毎日ひとつずつクリスマスツリーに飾りをつけていくように
俳句の鑑賞をどうぞお楽しみください。