【随筆】春――昔、花の東京で

 新調のバッグ片手に私は幾分不安な思いで犬の銅像の側に立っていた。二月の半ば、東京の朝はまだ肌寒く底冷えがしていた。
 昨夕、道南のD市から特急に乗り、津軽海峡を連絡船で渡り、青森からは寝台車に乗り継いで上野に到着したのは朝もまだごく早い頃。私は十八歳。大学受験のために一昨年の修学旅行に次いで二度目に足を踏んだ東京だった。
 家の経済的事情というやつもあって、兄の友人の下宿に十日余りを厄介になる予定になっていたのであるが、上野駅に降りてみるとプラットフォームに迎えに来る手筈になっていたその友人らしき人の姿がない。
 十五分ほどのあいだ突っ立っていたが声をかけてくる人の姿もなく、今降りた乗客で混雑していたフォームの人影も少なくなってくると心細さが募り、控えてきたマツノさんというその人の番号へ思い切って電話をかけてみた。大家さんらしき人が出てから、コーヒー一杯ぐらいは飲み干せる時間が経った頃に聞こえてきたマツノさんの声は眠たげで、明らかに今の今まで熟睡中であったのが知れた。フォーム上での感激のご対面を期待していた私は拍子抜けがした。
 「ハチ公知ってる?」「忠犬ハチ公ですか?」などという会話の後、指示されたとおり山手線で渋谷まで辿り着き、駅前の広場で忠犬ハチ公の銅像と一緒にマツノさんを待っていたのである。
 初めは銅像の真ん前に陣取っていたのであるが、それではあまりに今日地方から出て来た田舎者の図に見えてしまうと思いなおし、私なりに工夫して斜め後ろに立っていたのである。数多の人の手に触れられるからだろう、ハチ公の金属製の毛皮は朝日にてかてかと光っていた。日曜の早朝とて駅への人の出入りは数えられるほどに少ない。
 やがて近くに停まったタクシーから降りてきたジャージにジャンパー姿の男がニコニコしながら「須賀クン?」と声をかけてきた。「メシまだだろ?」と訊くマツノさんが向かったのは目と鼻の先、私が着く前からその駅前広場に出ていた屋台。「玉子入れてね」の注文に出てきた湯気の立つ、かつて見た覚えのない食い物、生玉子の他に肉と玉葱に紅生姜と思しき物の載っている丼飯をマツノさんに見習って、はふっはふっ、とかっ込んでみると、これが旨い。それは生まれて初めて遭遇した牛丼であった。
 マツノさんの下宿は大家宅の二階で、他に数部屋の貸室があり、各部屋ガス水道付き、トイレは共同、出入り口は大家さん宅とは別という作りだった。この度大学を無事卒業したマツノさんは北海道で教職に就くために明後日には帰郷するが、後は同居しているマツノ弟さんが私の面倒を見てくれるという。
 ティーバックを入れてくれるとマツノさんは「じゃ、須賀のオンジ、よろしく」と云い残してアルバイトへ出かけた。〈オンジ〉とはどうやら弟を意味する言葉らしかった。
 炬燵の上に置かれていたマツノさんの卒業論文『三島由紀夫論』を読んでみる。原稿用紙十枚の小論で、目を通した参考文献はこれも炬燵の上にある文庫本『花ざかりの森・憂国』、『真夏の死』、『剣』の三冊のみの由、「三島の全集や三島論揃えて書いてた奴もいたけどよぉ、このマツノ君はこれだけでばっちし合格よ」と先ほどマツノさんが得意げに話してくれたモノだ。卒論というのは随分と手軽にできるものなんだな、と私は感心してしまった。半ばほどは文庫本の解説からの引用で占められていたが、『剣』の主人公とX大学剣道部主将たる自分との境遇の類似故に三島に魅かれていった、というくだりだけはオリジナルと思えた。
 正午に向かうにつれて、窓から射し込む早春の東京の陽光はうらうらと暖かく、炬燵の温みも心地よく、投宿先に無事辿り着いた安堵もあって、私はごろりと横になった。寝台車ではあまり眠れなかったのだ。壁に二つ、壁土が円く凹んでソフトボールぐらいの穴が空いているのが見えた。あの穴は何だろう、と不思議に思いながら目を閉じた。
 どれほどの時間が経ったろう。人の声に目が醒めた。見ると開いたドアから半身を入れた男が「マツノはおるか?」と野太い声で訊いてきた。あわてて起き上がり入口まで行って、バイトで留守の旨伝えたが、男は私の躯を押しのけるようにして六畳の部屋へ入ってきた。
 酒臭い匂いがする。ひょろりと背が高く、三つ揃いのモスグリーンのスーツを着て、片手には洋酒のボトルらしき物を持って微笑している。髪は長く、エラが張っているせいか頬がこけて見える。マツノさんの友人なのだろう。
 「お前は?」と訊かれて事情を説明する。男はコップを出させて琥珀色の液体を少量注いで飲み、「これはヘネシーといってな、高い酒だ、お前も飲むか?」と微笑みを浮かべて云う。断るのも申し訳ないような気持でかすかに嘗めてみた。「旨いか?」と問うので「はい」と答える。と、間髪入れず頬に平手が飛んで来た。「あっ」、と声を出す間もなく今度はもう片方の頬にビンタが浴びせられる。カッ、と頬が火照る。何が起きたのか分からなかった。「正座せい!」といきなり叫んだその顔はもう笑ってはいなかった。云われるままに膝を揃えると、「たるんどるぞ!」と怒鳴る。次いで腹に衝撃があり、「うっ」と前のめりになった。一瞬息が止り、鈍痛が来た。男の拳が私の腹部に食い込んでいた。痛みに姿勢を崩しそうになるとビンタが飛んで来た。
 それからも数発、腹部や顔面に打擲が加えられた。じわっ、と込み上げてくるモノを押さえきれずに、膝に水滴が落下する。自分は東京へ受験に来た筈なのに一体何をやっているのだろう。東京は恐ろしい所だと思った。
 夜になって帰宅したマツノ兄弟の話によると、かの暴漢はマツノさんの友人でX大学空手部主将を勤めていたコマタという男であった。以前にも酔ってこの部屋で騒いだ揚げ句、如何にしてのけたのか、軽業師か猿(ルビ:ましら)のごとく窓伝いに隣室に侵入し、住人の鼻を折るなどして全治何週間かの怪我を負わせたまま逐電したことがあったと云う。マツノ兄弟は駆けつけた警察官に、「いきなり部屋に入ってきたんですよ。一度も会ったことのない男でした。僕らもビックリしてるんですわ」と述べて糊塗するのに一苦労したと云う。「あそことそこの壁の穴は奴がそん時に作ったもんよ、拳でな」とマツノさんがジェスチャーを交えながら説明してくれる。今後は鍵をかけて誰が来ても居留守を使うようにと指示を受け、やはり恐ろしか所だ、東京は、と肝に銘じた。
 その後、コマタは現れず、受験のついでや合間に神田や早稲田の古書街、それに歩いて十五分ほどの繁華街三軒茶屋で古本屋を覗いて廻っては、サルトル全集の『ボードレール』や読めもしないHenry Miller『Black Spring』などを買ったり、また、郷里では見ることの叶わなかったポルノ映画(三本立て五百円)なぞを見て過ごした。映画館の暗闇には云い知れぬ解放感があり、東京もそう悪い所じゃないぞ、と早くも見解を修正していた。なにしろD市で一軒だけ残った劇場でモギリをやっているのが、母が友達付き合いをしている近所のオバサンだったのだ。
 三校受けたうちの一校に合格した。第一志望ではなかったが浪人している余裕は我が実家にはなかった。卒業式に行くと久しぶりに会う級友たちがストーブの周りに集まって、受験結果と進路を報告し合い、東京や他の街での受験生活を話題に盛り上がっていた。皆が皆、旅館に宿泊しての優雅な旅でちょっと羨ましい気もしたが、反面、自分のは、あれはあれで面白い体験だった、とも思えてきた。
 それは自衛隊市ヶ谷駐屯地で三島由紀夫が自決した事件からさほど遠くない頃で、学生達の反乱は沈静化の方向にあったとは云え、まだ若者たちが――一部にしろ、怒りを忘れていない時期であった。
 私はと云えば、ただ漠然と詩や小説に憧れている愚か者に過ぎなかった。上京すれば何らかのキッカケが掴めるのでは、という虫のいい考えもあった。ともあれその春、私の東京暮しが始まろうとしていた。
 
 
 
(了)
 
 
 
 *初出『季刊 札幌人』2006年春号
  単行本『さまよえる古本屋――もしくは古本屋症候群』
             燃焼社 2015年刊行に収録

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