【小説】古本定食――古本ノンキ堂噺その六
10月○日 日曜 晴
夕方札幌着。東京はまだ残暑のような毎日だったが、ここはさすがに秋の気配。かねて予約してあったウィークリー・マンションに入る。1Kで月八万七千円。学生時代を過ごした札幌を舞台とする作品の取材と執筆のため三ヶ月ほど逗留の予定だ。
取材だけなら数日で済むのだが、東京の喧噪から遠く離れて、誰にも会わずに原稿書きに集中しようという作戦なり。今度の書き下し長篇で自分の単行本も五冊目となる。前の二冊は売れず、担当編集者にも肩身の狭い思いをさせている。いわば背水の陣なり。推理小説を書くのは初めてとなるが、今回は必ずいいもの、いや、ミステリ史上に残る傑作にしなければならない。
10月○日 月曜 曇り
真後ろに大学、周りは学生街という環境に入り、また二十代に戻った気分なり。〈ホテル札幌会館〉が建物ごと消えて駐車場になっているのにしばし茫然とする。古本屋はSUB18条駅近くの〈百間堂〉や〈ノンキ堂〉もなくなっており、現在残っているのは〈北天堂〉だけ。学生マンションが建ち並び、この辺りもすっかり景色が変わってしまった。文芸書が多く、カセットでストーンズをよく流していた〈ノンキ堂〉のあの店主は健在なりや。
夜は樽川通りに移転した焼鳥〈きよた〉でビール。
10月○日 木曜 曇り
午後散歩。道路が拡張され、地下トンネルもできていて驚く。大学図書館を覗き、次いでキャンパス内を散策し、生協の書籍売場を眺めた後、学食でラーメン。樽川通りにあった喫茶とカレーの〈時間〉が教養部(いまは言語文化部とか云うらしい)の近くに移っていた。三時間ほどぶらつき、部屋に戻って読書。
夜七時、〈おしどり〉にて友人山田と会う。学部運営で今は大学教員も何かと大変そう。24条駅近くの〈大狸〉も店仕舞したと云う。〈おしどり〉は、マスターの白髪は増えたが刺身は変わらぬ味、寿司も美味で酒がすすんだ。
物見遊山は今日で終り。明日からは本腰を入れて原稿を書くつもりだ。
10月○日 土曜 終日小雨
午前中五枚。昼は学食でカレー。戻って夕方までにまた五枚。これで計九十八枚となり、全体のほぼ五分の一までは進んだか。プロットと肝心のトリック(これが驚天動地のもの)はできているのだから、あとはキーボードを打ちまくり、書いて書きまくるのみ。夜は〈ローソン〉の弁当。
11月○日 火曜 曇り
朝方冷え込むなあと思ったら初雪。東京の編集者渡辺から進行具合を訊くメールあり。「順調です。二〇〇枚まで進んでますから」と返信するが実は逆。困った事態となっている。
昨夜、山田と〈おしどり〉で飲んでいた時、新作のトリックを披露したところ、それはクリスティー『スタイルズ荘』、安吾『不連続』の二番、三番煎じだと云う。え?と虚を突かれた自分は、ではこれはどうだ、とばかりに第二の事件のトリックを述べたのであるが、それはルルー『黄色い部屋』とまったく同じだと指摘する。じゃあこれは?と作品全体にわたる仕掛けについても説明に及んだところが、それはクリスティー『アクロイド殺し』、栗本薫『ぼくらの時代』ですでにやられているのだ、と気の毒そうに話す。編集の渡辺にもこれらのアイディアについては執筆前に知らせてあったのに、「いいですね。いいですね。それでいきましょう」と煽るのみで、何のアドバイスもなかった。
どうも渡辺はミステリに関してはド素人であるらしい。もともとは文芸書の版元でもないし、仕方ないのかもしれぬが、もう彼は頼りにできないと思う。だからといって今から他の出版社を探す当ても勇気もない。締め切りの四月までになんとしても完成させねば。昼はカップ麺。夜は日本シリーズ観ながらコンビニ弁当。
11月○日 木曜 晴
昨日も今日も終日部屋で煩悶。偶然とはいえ、名作とされる作品と同じトリックを幾つも思いついていた点からみても自分にミステリの才能がないとは考えにくい。結局、札幌舞台の青春恋愛ミステリという意図で書いてきた原稿二〇〇枚は全部捨てて、明治時代背景の歴史冒険ミステリに変更することにした。押川春浪、岩野泡鳴、石川啄木も登場する長篇になる予定。そうと決まると頭上の雲消えたがごとくにスッキリして晴れやかな気分となり、夜、〈おしどり〉へ。焼鳥にタコ刺しで熱燗、〆は寿司。
12月○日 木曜 曇りのち雪
引っ越し。今日からマンションを引き払い、学生アパートに拠点を移す。いま時、こんなボロ家がまだ残っていたのか、という六畳間に中古屋で見つけてきた座卓を置く。これは、贅沢はしていないつもりだが、当初の予想よりも出費嵩み、高円寺の部屋代も払わなければならないしで、貯金の残りも心もとないため。保証人は山田。布団一組とストーヴもプレゼントしてくれた。持つべきものは親友なりと感激す。
12月31日 水曜 雨
例年より気温高く、雨に加えて強風の大晦日。昨夜は編集の渡辺から電話あり、原稿進捗状況を訊かれる。内容が大幅に変わった旨伝えるも、さして驚きもせずに、「いいじゃないですか。いいじゃないですか。それでいきましょう。傑作の予感がします」と繰り返すのみ。近況報告を兼ねて兄に賀状出す。部屋で熱燗をやりながら除夜の鐘。
1月○日 金曜 晴
山田宅に招待される。官舎だが、家族三人で暮らすには十分な広さ。小学三年の可愛らしい娘さんに美しい奥方。その安定した暮しぶりを羨ましく思う。奥さんの手料理で八海山。だが、愉しかったのもここまで。
新たに一五〇枚まで書き継いだ歴史ミステリの内容に話題及ぶ。すると、「……云いにくいけどな……、それは横田順彌の、あちらは短篇集だけど、『明治幻想青春譜』に設定が酷似しているぞ」と暗い顔つきで山田が書斎から新書判のその本を取り出してきた。急いで頁を捲った自分は、はは、はは、と笑い出し、一気に酒を呷ったまではいいが……、後は覚えていない。泊まっていけと奨める山田の好意も聞かず外に出た記憶がうっすらあるのみ。気がついた時にはアパートの前の雪山にうつ伏せに倒れていた。
1月○日 土曜 雪
終日布団の中で過ごす。二日酔いと風邪。発熱と悪寒と下痢。このまま小説は完成せずに人知れずこのボロ部屋で死んでゆくのか、と絶望的な気持になる。明日は病院へ行くつもり。
3月31日 火曜 晴
この日記も久しぶりとなった。一月の風邪以来、体調ばかりか執筆の調子も大いに狂ってしまい、小説は停滞。似たような先行作品があると知っては続きを書き継ぐ意欲も湧かず、歴史冒険ミステリは中断したままなり。山田ともあれ以来会っていない。向うも気まずいのか連絡もない。
昨日は編集の渡辺にもう三月ほど待ってくれと電話。何かイヤミのひとつも云われるかと覚悟していたが、意外にあっさり承諾されて拍子抜けする。まあ。こちらの金で勝手にやっている札幌暮らしであって、版元たる虚業之ジャパン社は一円も出している訳ではないが。
最近は外出もせずに部屋で即席麺、パック酒の毎日なり。もう東京へ帰って取り組んだ方がいいのかもしれぬが、とりあえず明日からはまた書くつもり。毎日必ず朝からノートPCに向うことだ。
5月○日 水曜 晴
桜の季節も終わった。その後も小説は花咲かず、凍りついたままだ。
夕方から散歩。樽川通りの〈ブックオフ〉を覗く。店内に立っているだけで疲れる。外に出ると、車道挟んで向かいに飲食店らしき行灯の灯りあり、ふらふらと引き寄せられる。近づいて見ると〈古本定食屋 人間失格〉との屋号。何度もここの前を通っていたが、こんな店があるとは気がつかなかった。
中へ入ると広さは六坪ほどか、左側がカウンター、真ん中にテーブルが二つ、右側の壁際に書棚が何本か設置されて本が並んでいる。本はすべてクリスタルパックの中に入っており、照明が反射して光っている。客は誰もいない。カウンターの中に座って本を読んでいた男がこちらに顔を向けた。
その顔に見覚えがあった。「もしかして、ご主人は昔、ノンキ堂さんって古本屋さんをやってませんでした?」と訊いてみると、果たしてそうであった。次第に店舗売りがままならなくなり、友人から貰ったPCでネット販売に参戦したが散々な結果に終わった、もう古本から足を洗おうかと一度は考えたが、今度は定食屋を兼ねた店で最後の勝負に出た、本がビニール入りなのは汚れないようにです、神経質でしてね、わたし、と質問してもいないのに教えてくれる。
お品書きを見せてもらうと奇妙な料理ばかり。朔太郎ハンペン、太宰湯豆腐、風太郎チーズ肉トロ、三島ビーフステーキ、荷風カツ丼、潤一郎とろろ飯、鷗外饅頭茶漬け、志賀直哉豊年サラダ、ジョイスマカロニ、等々。昼間の食事に利用する客は皆無の由で、最近はほぼ夜ばかりの営業というのも頷ける。定食屋というより居酒屋だ。だが値段はどれも三百円から六百円と安い。
ビールと名前に惹かれ鏡花鍋なるものを頼むと、主人は壜ビールとグラスのみ出して「少々お待ちを」と云うや、外へ駆け出した。どうやら注文があってから材料を仕入れに近くに走る方針らしい。棚の本は自分が通っていた頃の〈ノンキ堂〉と同じように詩集や小説本が多い。十五分ほどして戻ってきた店主が調理して出してきたのは、ぐつぐつと煮込んだ地獄谷の如き鶏鍋で、肉も固く、猫舌の自分は閉口した。あの主人、いったい儲ける気があるのだろうか。
7月○日 水曜 どんよりとした曇り
偶然、〈人間失格〉の客となった翌日のこと、閃くものがあり、突き上がってくるものがあり、俄然、猛然と書き始めた。これが快調に進んで一昨夜ついに、古本屋ハードボイルド・ミステリ『さらば愛しき古本よ』四〇〇枚を脱稿。で、昨日のことだ。虚業之ジャパン社渡辺に電話した。だが、「おかけになった電話番号は現在使われておりません」とリピートされ、メールも戻ってくる。たちまち目の前が暗くなった。自暴自棄。何もかもイヤになり、〈人間失格〉で冷や酒を浴びる。顛末を明かすと主人は、「今日はね、お金はいいから」とありがたい言葉をくれ、これは迷惑だったのだけれど自作詩の朗読も聞かせてくれた。夜が白むまで二人で痛飲してしまい、メランコリックな気分極まって悪酔いする。朦朧とした頭で聞いた話だが、たしか、実は自分も今「古本定食」という小説を書いているのだと、呂律の怪しくなった店主が話していたような覚えもあるが、あれはウツツであったかどうか。
7月○日 金曜 陰鬱なる曇り
昨日は半年ぶりに山田に会った。帰京旅費として頼んであった五万円借りる。その足で〈人間失格〉に別れの挨拶に行くと、主人は、「今夜は俺の奢りだよ」と、ビール、日本酒、焼酎とじゃんじゃん出してくる。居合わせた同業の奈落屋さん、善々堂さんも加わって、自分の送別会。振り返るに、この店で客として見た覚えがあるのはこの二人だけだ。その後のことだ。すっかり調子の出た自分は、浅はかな自分は皆を誘って北二十四条へ繰り出し、居酒屋、スナック、キャバレーと梯子。今朝起きてみると財布に残っていたのは千円札が二枚だけ。
夕方、銭湯から帰った後、もう近づいてはいけないと誓った筈なのに、また〈人間失格〉。あんな所に行っては駄目になると分かっているのに、気がつけばあの店に座っている、飲んでいる。あの退嬰的なまったりとした空気が自分の心を落ち着かせるのだろうか。
8月○日 土曜 快晴
昔とちがって札幌もキビシイ暑さ。今日から〈人間失格〉に住み込んで働くことになった。アパート代を払う金にも窮していたところ、マスターが誘ってくれたのだ。札幌の〈洗濯船〉にしようじゃないか、などと彼は能天気、いや脳天気な夢想をしている。しかし、客が来ないこの店で賃金が払えるとは思えないのであるが。今月分から金を振り込んでいない高円寺のアパートはどうなっているだろうか。保証人の兄にまた迷惑がかかっているのかもと想像すると恐ろしい。だから思い出すのはやめにしようと思う。
それから、最近とみにやつれたらしい自分を心配そうに眺め、一度病院へ行った方がいいのでは、と店主は奨めてくれるのだが、彼こそ一度医者に診てもらった方が頭の具合にいいのでは、とこちらは気になっているのだが……。
創作の方ではまた案が浮かんだ。どうもミステリは今ひとつ自分に合っていなかったようだ。今度はホラーを書く。しかも古本ユーモアホラーを、必ず。これはまだ誰もかつて試みた者のいないジャンルではないか。自分が先駆けとなるのだ。ふふ。傑作の予感がする。
(了)
*初出『季刊札幌人』2009年夏号
単行本『さまよえる古本屋――もしくは古本屋症候群』(燃焼社 2015年刊行)に収録
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