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作ることと食べること

昨日いつも行っているスーパーで60cmはあろうかという真鯛を見つけてしまった。ああ〜料理したい。丸ごと買って色々作ってたらふく食べたい。そしてこの大きさで3000円という破格……流石です、いいスーパーです。最高。再推しです。いい心意気だ、その気持ちに応えたいぞ。

買った。魚をこの向きで置くの違和感あるが左利きなのでこの向きで置かざるを得ないときがある。

鱗と内臓の処理をした後のものなんだけど、このサイズの魚が乗るまな板が無い。前も70cmの鯛を衝動買いして捌いたけど、その時どうやったんだっけ……。手前に置いているのは小出刃ですが……比較すると本当にでかいな……歯も立派。この歯で貝とか甲殻類もバリバリ噛み砕いて食べてたんだろうな……この大きさまで育つのに、どのくらいかかったんだろう〜とか、どんな暮らしをしてたんだろうとか、色々と思いが巡ってしまうよ。
特に昨日はおめでたいことがあったわけでも、誰かと食事をする予定があったわけでもないのだけども。

私は日常的にする料理は避けている。(これは基本的に一人暮らしだからこそできることで、他人と暮らしていて自分が食事担当だった場合そうも言っていられなくなる)その日とりあえず食べるためにする料理は私にとって作業になってしまう。料理する時には、心に余裕がある状態で食材にちゃんと向き合いたいし、自分を含めた食べる人のことを考えながらじっくり料理したい。毎日食べるものを作る時にそんなことをしてたら時間と精神力がいくらあっても足りないので……個人的にちゃんとしようと思って挑む料理と食事はある種の儀式のようなものなんだよな。
あと一緒に食べる人がいるなら、その食事を体験として共有したい。し……「私の作ったものを食べて、それによりその人の体が作られるのか……」ということをよく考える。なんとなくこう、向こうにそんな意図がないだろうから、私が勝手にそんなことを考えて感慨深くなるのは何となく一方的というか……なんというかどきどきする時があるので……私の食事を食べてくれる人には大抵その旨は伝えてある。本人にその気がないのに、一般的によくある状況下で勝手にどきどきされるの気持ち悪いだろうなと思うので。モナリザ相手だとそれが如実で「私の作ったごはんを食べてる……」とやっと懐いた野生動物を見るような気持ちもプラスされるんだな。ずっと慣れてくれなかった動物が手ずからご飯を食べてくれたみたいな感慨深さがあるのです。

・皮なしの刺身と、松皮造りの刺身
・鯛皮ポン酢
・白子の天ぷら(生青のり入り)
にして食べました。白子が本当に立派で…ぷりっぷりで感動したよ……。デカい鯛なのでもう身が厚すぎる。

〆に鯛茶漬け

アラは表面を焼いて、昆布と一緒にじっくり煮て出汁をとった。黄金色の出汁スープだ〜〜今日はその出汁とアラで鯛めしを作る予定。サクもまだまだあるので、カルパッチョも作ろう。カマも片方は鯛めしにするけど、もう片方は焼いてそのまま食べよう。1匹買うと本当に楽しい、楽しいというか……何かかしらが満たされる気がするんだよな。めちゃめちゃ命に向き合う機会です。生き物にも自分にもね。
死ぬことはある種の安定だし、向き合う機会もそこそこあるので個人的に直視しても大丈夫なんだけど、生きることはめちゃめちゃ不安定な状態だし個々によって大きすぎる差があるし、直視すると頭が焼けるんですわ。こういう「何かかしら」を通して向き合うしかない気がしていて……太陽投影板みたいな感じだね。

追記

過去一のデキだ。鯛めし
カルパッチョのつもりだったがもはやマリネである。新玉ねぎ、トマト、焼きアスパラガスと鯛。
ここまで使い切りました。ありがとう。お命頂戴!


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