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いい文章を読めるしあわせ。
午後の最後の芝生。
今日のnoteを書こう書こうと思いながら、ぼくはフィッツジェラルドの『バビロンに帰る』を読んで、ウトウトと居眠りをして、村上春樹さんの「カンガルー通信」を読み終えて、「午後の最後の芝生」の冒頭に辿り着いた。読みかけのページにしおりの代わりに表紙カバーをはさんで小説を閉じる。
さてと、noteを書こうかな。…ダメだと思いながらも誘惑に抗えずツイッターをひらいた。ひとつの記事が目に入り、じっくりと二度読み返す。
世の中には「いい文章」がたくさん存在している。
ぼくはとにかくいつも、文章を読んでいる。今日も起き抜けから床にベタ座りして小説を読んでいると、奥さんが少々呆れ気味に「本当に暇があれば本を読んでるよね」と言っていたな、そういえば。
本でもwebでも何でも構わない。あいうえお…( 中略 )…わをん、そして漢字、カタカナ、アルファベット。それらの文字が組み合わされて並び、独自の物語がそこにはあり、何かしらの意味を帯びて、世界観を纏っている文章。
どんな文章でもいいかというと、そういうわけでもない。やっぱり( じぶん自身にとって )いい文章を書く人には偏りがある。たとえば、村上春樹さんの『中国行きのスロウ・ボート』なんかは、何度読んでいるかわからない。折に触れて本棚から取り出してページをめくる。
この本にしか存在しない文体、リズム、世界観が心地よい。短編だからこそ広く深く入り組んだ物語が存在しないぶん、軽やかに読み進めることができるのも好きだ。酷く疲れた日なんかに熱いコーヒーを入れて、一遍だけ読むなんていう読み方も多い。
先日インタビューさせていただいたあそうかもさんが、「毎日本と映画を見て暮らせたらいいのに」とおっしゃっていた気持ちがすごくすごくわかる。そんな土曜日の午後も薄い灰色に覆われはじめた。そろそろお家に帰ろかな。今日のご飯はなんだろな。