議事録って案外重い存在だった
その本質をたどると
「議事録 ≒ 契約書」
となるということをどのくらいの人が理解しているでしょうか。
議事録というと、なんとなく
「若手(新人)に書かせるもの」
「先輩になれば、上司になれば、作成しなくていいもの」
なんて勝手に思い込んでいたりしませんか?
ですが、議事録の存在がたとえば裁判での重要な証拠として取り扱われることがあるように、議事録の存在はかなり強力な効果を発揮することが往々にしてあります。
まずは「契約書」の存在について今一度認識を確認してみましょう。
そもそも民法522条では口約束でも双方が合意すれば「契約」として成立すると言っています。ですが、実際にはビジネス等の商取引において、契約書を定めることが殆どです。
なぜか?
それは、後々双方が言い争いになった時、物的証拠が無ければ正しく問題を解決できないどころかそもそも『なかった』ことにしかできず、場合によっては自分自身が不利益を被ってしまう可能性があるからです。
言い争いになってしまうのは、端的に言えば「合意状態が維持できなかった」場合に起こります。そして合意状態が維持できない状況に陥る原因となるのは多くの場合、どちらか一方または双方の
記憶や認識が劣化し、変化してしまう
ことによって生じます。
そして、その合意した状態を継続できなければ、当然その合意内容は失効します。そうならないために、その責任を人および人の記憶や認識に押し付けないようにするために「契約書」という形をとって、この合意状態を永続化しようとしているわけです。
ITちっくに言えば、
「メモリで何でも処理するんじゃなくて、
永続化したいのなら永続化層(DB等)でしっかり記録しておきなさい」
と言っているのと同じです。私たちエンジニアから見れば至極当然、当たり前の論理なんですよね。
さて、一方で議事録はどうでしょうか。
会議があり、ある議題が取りあげられました。
議題に対し、出席した関係各位が同意・合意しました。
でも議事録を書きませんでした。
後日、「言った/言わない」の水掛け論になって揉めた
…という事例、判例は昔から延々と続いています。
合意状態を永続化できなければ、すなわち人の記憶と認識といった性善説にばかり頼っていれば、いずれは大トラブルに発展する…ということは歴史が証明しています。
どんなに優れた人であっても、記憶や認識が劣化、変化せずに延々と持ち続けることは100%不可能です。
であるならば、契約書と同じく「人や人の記憶に責任を押し付ける」方法をとるのではなく、記録化し、その「記録に対してすべての合意状態を管理する責任を押し付ける」方法をとらざるを得ないのではないかと、私は思うんです。
そういう意味で、契約書と議事録は「合意状態を永続化する」という一点において、まったく同じ本質を持っているものだと認識しています。
ではみなさんは、この本質を理解したうえで取引相手との重要な契約書を、まだ一人前になり切れていない若手や新人に丸投げすることが本当に正しい行為だと思いますか?
多くの人は「思わない」と答えるであろうはずだと思うんですけど、なぜかそれが契約書ではなく『議事録』と言った瞬間、スンッってなっちゃうんですよね。まったく同じくらいの責任の重さを背負っている文書なのに。
もちろん議事録の作成は手間がかかるし、ぶっちゃけてしまえば面倒くさい作業であることは理解しています。部下や後輩に一任してしまいたい気持ちもわかります。個人的には、議事録作成というのは「ドキュメンテーションスキル」のいろはが詰まった"永字八法“のような存在だと思っているので、新人や若手のドキュメンテーションスキル向上のために、議事録作成を用いるのは大賛成です。
ですが、議事録本来が持つ「責任」の大きさを考えた時、作成を任せるのは良いとしても、その内容についてはしかるべき役割・立場の人がきちんと責任を持って確認し、合意状態に対して
認識の齟齬が発生しないよう
記憶の劣化等によって余計な問題が発生しないよう
しっかりとフォローする責務があるのではないでしょうか。
けして
「そんなの新人にやらせときゃあいいんだよ!」
なんてふざけた発想で丸投げしていいようなものではありません。その一つひとつが、新規に契約を結ぶかのような重大な存在として残ることを肝に銘じておかなくてはならないと思うんです。