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知っているようで知らない「あの人」

なんとなく知っているけど、なんとなく知らない気もする。全く知らないわけではない。友人との会話に出てきたり、職場の人との会話に出てくる「あの人」。

そんな「あの人」の存在に注目するようになったのは、卒業研究での取り組みでの気づきがもとになっている。

以下では、僕の卒業研究の取り組み(時系列)と卒業研究について(なにをつくって、なにがわかったのか)を書いた。


1.S保育園との出会い

ことの始まりは、「S保育園」の理事長の方から、僕が所属している研究室の先生である富田先生にきた相談だった。
それは、保育士同士の情報伝達がうまくいっておらず、会議などの話し合いの場で使える様な、対話のためのツールが欲しいというものだった。

そこでさっそく、僕たちはその園の見学を兼ねてゼミ生4人と先生とで「S国保育園」に訪問することにした。

2018年10月22日訪問当日。

僕は生まれて初めて保育園というものに足を踏みいれた。
当時、保育園ではなく幼稚園に通っていた僕にとっては、懐かしい感じがするけれど、記憶にあるそれとはどこか違うものだった。

園長先生が出迎えてくれ、理事長が園に到着するまで園を案内してもらえることになった。

建物自体もとても素敵で、窓から差し込む光や、視界に子どもの姿はないけれど、子ども達がいる気配はしていて、とてもワクワクしたことを覚えている。この時僕は大学3年生で、まさかここで卒業研究ができるとは思ってもみなかった。

ちょうど一通り見学し終えたところで、理事長が到着し、相談内容について理事長と園長先生、保育園の事務の方1名、僕たち5人を合わせた計8人での話し合いが始まった。

保育園の現状、実際にどのような問題が起こっているのかなどを、僕たちが保育園側の3名に対してヒアリングして、そこで出た語句を付箋に書き出し、ホワイトボードにマッピングしていった。僕は保育園の現状を理解して、問題を解決しようと話を聞き、今まで自分が大学で学んできたことを生かそうと必死だった。

話は、会議での議題を立ち話などの偶発的なコミュニケーションから持ち込むためにどうするか、に行き着き、結局そのような場で使えるツールを僕たちが作成するという方向性で、その日は終わった。

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その日の話し合いを当日中に富田先生がまとめた資料のうちの一枚。(帰りの電車に揺られている時にこの資料が送られてきたときは、その速度感に尊敬のあまり震えていた。)

初めての訪問を終え、研究室では富田先生やゼミ生が様々な解決策を考え、どうしようかと話し合っていた。

しかし、どの解決策も僕にはしっくりこなかった。
なぜなら、僕はS保育園について全然理解できていない、と強く感じていたからだ。話し合いが悪かったわけでもないし、その時の内容が理解できなかったわけでもない。

頭でわかっているだけで、体でわかっていない感覚だった。

たしかに僕たちは話し合いだけでなく、実際に保育園に行ったし、園長先生の案内付きで一通り見学までさせてもらった。
それでも僕の頭は、そして体は理解できていないモヤモヤを抱えていた。

そんなこともあり、富田先生からこのプロジェクトのリーダーをやって欲しいと頼まれたときは、不安もあったが、そのモヤモヤを解消したいという思いもあり引き受けた。


2.保育園で働き始める

このようにして、保育園と関わっていくことになった僕だったが、保育園のことを理解できていない感覚があったため、そのモヤモヤは頭のど真ん中にずっといた。

富田先生も多忙で、なかなか相談できる時間がなく、モヤモヤの気持ち悪さが限界にきた僕は、富田先生に「保育園に、理事長の方とお話に行ってきます」と、まだ決まってもないのにメッセージを送り、その勢いで理事長に日程調整のメッセージを送った。

急なお願いだったにも関わらず、理事長は快く僕のお願いを受けいれてくれ、2019年3月14日に再び、S保育園に伺わせてもらうことになった。

前回、ゼミのメンバーと遠足のような気分で行った時とは違い、1人で保育園に行くだけでものすごく緊張した。

保育園に着くと、応接室に通してもらい、しばらくすると理事長と園長先生が来た。僕は正直に、自分が保育園のことを理解しきれていないと伝え、理解するために保育園でフィールドワークをさせてほしいとお願いした。

すると、理事長は僕の話を聞いた上で、どうぞとすんなりと受け入れてくれた。さらに、そのような関係を結ぶ上で、ただ通って保育士の補助をするよりも、アルバイトという形態のほうがお互い良好な関係を築けると思うと提案してくれた。

お互いの都合を調整し、2度ほど保育園に訪れたのち、5月9日からS保育園で、毎週木曜日の9時〜13時までの4時間を保育士の補助として、今回のプロジェクトのメンバーである同研究室の女の子と共に、働かせてもらうことが決まった。最初に訪れてから約6ヶ月経って、やっとスタートラインに立った気がした。


3.上映会での感動

5月9日フィールドワーク初日。
8時40分ごろに行くと、ちょうど園児が来る時間帯で、園内は保護者の方や園児、保育士で賑わっていた。
9時になると事務担当の先生がやってきて、軽く挨拶を交わし、園児のいる部屋まで案内してくれた。しかし、この部屋に居てくださいと言われただけで、何も業務に関してはわからないままだった。

部屋に入るなり、5、6人の園児に囲まれ「誰?」「新しい先生?」と質問責めにあうと同時に、複数の園児に飛びかかられ身動きが取れない状態になってしまった。しばらくすると、その部屋のクラスの担当の先生が来て、助けてもらった。そこでも自己紹介は名前だけで、僕が何をすればいいかは指示されなかった。

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初日を終え、たった4時間で疲れ切った僕たちを見て、園長先生は笑っていた。体こそ疲れ切って居たものの、僕の心は軽かった。
今まで感じていたモヤモヤが晴れるだろうという感覚があったからだ。そこで僕は、その日に自分が感じたこと、思ったことを忘れない様にと、もう1人の学生と一緒にノートを買い、書き記していくことにした。ノートは、そのほとんどを日記的に書いていった。このノートを買い、書き続けた自分には感謝しかない。この記事を書く上ではもちろん、研究にもなくてはならない存在となり、記録を取り続けることの重要さを学んだ。

次の日、アルバイトとは別で上映会が行われるとのことだったので、足を運んだ。理事長の友人であるHさんが、1年間S保育園で撮りためたものを保育園で上映するというものだった。

上映会では、保育士を含めた保育園に関わる人たちが集まっていた。上映された映像にはテロップは入っておらず、ただただ保育園の様々なシーンが流れて行くものだった。そこには起も承も転も結もなかった。上映後、それがこの保育園の姿で、ありのままの姿とHさんがコメントした。

それに加えて園長先生からも「保育園ではいろんなところで同時多発的にいろんな出来事が起こっている。それは泡みたいなもので、その泡を丁寧に掬っていくのが私たちの仕事。」と付け加えた。

この時強烈に感動したことを、今でも覚えている。

園長先生の言葉はとても丁寧で、一語一句聞いていて心地よかった。
話す言葉が、脳内で全てひらがなで認識されるような感覚がある。

そして、その丁寧な言葉を僕はノートにメモしていた。


4.演じないこと

5月30日、4回目の出勤で、少し慣れてきたかなと思っていた頃、理事長に、少し話せる?と言われ行ってみると、「あれじゃダメだよ、演じてるでしょ?」と注意をうけた。

「子どもは、大人が演じていたらわかるし、そしたら子どもも演じるんだよね」「素の安田君でいいんだよ、1人の人間として子どもと接して欲しい、今僕と接してるみたいにさ」この言葉にはハッとした。子どもとの関わりを通して、自分自身の振る舞いについて真剣に考えた。

保育士の子どもに対する振る舞いが、少し冷たいなと感じる時があった。
しかし、それは僕が勝手な保育士像を抱いていただけで、S保育園の保育士は違っただけだった。ここにいる保育士は1人の人間(大人)として子どもと接しているだけだった。

そして、僕たちが着目していた「保育士同士のコミュニケーション」も例外ではないような気がした。


5.エピソードトーク

6月27日非常勤の先生と園長先生、マネージャーの先生で月 1 で行われている会議に参加させてもらった。

もともと会議で使えるようなツールを作ろうとしていたため、どのような会議なのかは見ておきたかった。だいたい20人くらいの会議だった。

印象的だったのは、 会議の最後に「エピソードトーク」という園長先生が保育士を指名して、指名された人が最近あった出来事を共有するものだった。エピソードの具体的な内容はプライバシーの問題もあり、ここでは割愛するが、保育士の語るエピソードはどれも素敵なものだった。

先日の上映会の際、園長先生が言っていたことと繋がる部分があった。
このエピソードを語る(共有する)という行いは、自分自身の行いを一度振り返り、共有できるようにまとめる必要がある。これは言い換えると、前述した、保育園で起こった泡を保育士が掬う行為にあたるのではないか。

このことから、保育園においてエピソードが重要だということを知り、保育士たちのエピソードに注目することになる。最終的に作成した内話帳の最初の欄に「今日のエピソード」 を設けたのは、ここでの気づきがあったからである。


6.保育園を職場と捉える

7月16日、夏休み前にゼミ内で卒業研究の経過を報告、発表する機会があった。この時すでに16回もの訪問を終えていた。

この時僕は、保育園を保育士の職場と捉え、保育士同士のコミュニケーションに関してある仮説をたてていた。
それは、保育という仕事は休む暇がほとんどなく、一般的な企業で行われる様なコミュニケーションやそのような場を設けることが難しいということである。僕がそう思うようになった具体的な場面は主に3つあった。

1つ目は、昼食の際ご飯を食べながら行うコミュニケーションだった。僕が今まで経験してきたアルバイトやインターンでは、昼ごはんを食べながら会社の人と話すことが多々あり、その時に趣味の話をしたりして職場の人とコミュニケーションをとっている気がしていた。
しかし、保育園では子どもと一緒にご飯を食べるため、職場の人とゆっくり話をすることは出来ない。近くにはいるけれど、保育士同士で他愛もない話をすることはない。

2つ目は、喫煙所でのタバコミュニケーションと言われるもので、これは保育園の性質上、喫煙所がそもそもなく、S保育園の保育士に喫煙者はいなかった。

3つ目は、飲み会などの飲みニケーションと言われるもので、2つ目と同じく性質上、保育園内でお酒を飲むことはなかった。保育士の話によると、業務が終わって飲みに行く人達もいるらしいが、それほど多くはないらしい。

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以上の3点から、最初の方に考えていた会議などの話し合いの場に用いるツールよりも、日々の業務で忙しい保育士同士が、会議などの業務上のコミュニケーションではないコミュニケーションを取ることが必要ではないかと考えるようになった。

3つの共通点として、そこには少なからずコミュニケーションをとる人たちが関わりあうための、何かしらの理由があった。もう少し付け加えると、そこには何かしらのモノがあった。

昼ごはんを食べながらのコミュニケーションであれば、朝から夜まで仕事をする上で当然お腹は空くので、昼休憩なるものが与えられているし、そこには食べ物がある。
喫煙所でのタバコミュニケーションであれば、喫煙者はタバコを吸うために喫煙所に行き、そこにはタバコがある。

そこで私が提案したのが、小学生ぐらいの時にやったような交換ノートから着想を得た、保育士同士が使うオリジナルの交換ノートだった。そのノートにはいくつかの項目があり、保育士はそこに自由に書き込み、次の保育士に回すという使い方をする。
僕はこのノートの中で、「書くコミュニケーション」が行われると考えていた。その項目の中には、質問コーナーと回答コーナーが設けてあり、忙しい保育士が対面でコミュニケーションを取るのではなく、交換ノートの中で書くことでコミュニケーションを取るということだ。

さらに、情報を交換ノートに書き、ものとして残すことで、受け渡しの際にきちんと情報が渡ったことが明確になり、誰に伝わっているかもわかるのではないかと考えた。ものとして残すことで、渡すという行為が生まれるため、保育士は書き終えると、自分の手で次の人に渡しに行かなければならない。ここで、対面での会話が生まれるのではないかとも考えていた。渡すこと自体がひとつのコミュニケーションになってはいるが、どちらかというと「書くコミュニケーション」に重きを置いていた。

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7.関与することの恐怖

このようなことを考えていた僕だったが、その提案を実行に移せないでいた。

訪れた回数にして20回を超えた僕は、保育園のことやそこにいる人たちのことがとても魅力に感じ、すっかり大好きになっていた。もともと情報伝達を改善するために受けた依頼だったが、そんなことを改善しなくても十分に素敵だったし、僕が入る隙がないように思えた。
保育園に対して、自分が関与して環境を変えてしまうのではないかという恐怖を感じているほどだった。

この期間中、富田先生には口が酸っぱくなるほど、なにか行動に移さないと、と言われ続けたが一向に手は動かない。
頭では、自分の手を動かして何かをつくらないと何も始まらないことはわかっていた。

こんな僕の背中を押したのは、園長先生の一言だった。

ゼミ内の発表が終わって2ヶ月経った、秋学期が始まる少し前のこと。園長先生に研究の途中経過を報告する機会があった。
そこで僕は、現在考えている提案を園長先生に伝えた。すると、園長先生は「やってみたい!」とノリノリで僕の提案に賛同してくれた。

僕が感じていた不安や恐怖はこの一言できれいになくなった。
そこからは一気に作業を進めて交換ノートを作成し、9月12日に交換ノートは園長先生の手に渡った。保育士の仕事の負担にならないよう、具体的な使い方は園長先生に任せた。

その後、保育士の前で園長先生が交換ノートについて説明され、9月20日ついに保育園で使われ始めた。

後に書く人の基準にもなり、参考になる人が誰もいないためハードルの高い1人目は、園長先生が引き受けてくれた。

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こうして僕のつくった交換ノートは、それをつくった僕の手から離れ、保育園というフィールドで使われ始める。

もっとも、交換ノートと呼んでいた(呼ばれていた)のはそのような形態や機能をしていたからで、使われ始めてからではあるが僕はこれを「内話帳」と名付けることになる。


8.「下山」すること

ここからは、僕がつくった交換ノートがどのようなもので、どのように使われたのか、それは一体何だったのかについて説明しようと思う。

一般的な卒業研究(特にデザイン系)では、ある状況において何かしらの問題、課題がありそれに対しての解決策を提案、実践することに重きを置いていることが多い。

しかし僕たちの研究室では、その後に自分のつくったものや取り組みを振り返り、自分のつくったものが何だったのかを語っていくまでを卒業研究とした。

富田先生は、この卒業研究の過程を山登りに見立て、創ることを「登山」、語ることを「下山」と呼んだ。

詳しくは富田先生が記事に書いていたので、そちらを参考にしていただきたい。僕の拙い文章ではなく、わかりやすく丁寧に、僕の研究の概要まで書かれている。また、富田先生は僕の卒業研究の担当教員であるため、卒業研究に対する教員側の視点と学生側の視点が見れて面白いかもしれない。


9.交換ノートについて

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まずはじめに、僕がつくった交換ノートの仕様について説明する。

大きさは、見開きで縦220mm横314mmとB4サイズよりも少し小さい。書いたり読んだりする時以外は閉じてあるため、だいたい手帳ぐらいの大きさになっている。

紙の質は、少し厚めの両面印刷可能な普通紙を用い、鉛筆やシャーペン、ボールペンであれば裏写りしないようにした。

綴じ方は、開いた時中央になる側に上下に2つ穴を開け、後から紙を追加したり、紙の取り外しがしやすいように紐を使って綴じた。

項目の内容に関しては、小中学生を対象につくられた市販の交換ノートを参考にし、そこに書いてある項目をベースに、S保育園で働く保育士にあわせて編集した。具体的なものを挙げると「今日のエピソード」で、これは前述した会議でのエピソードトークが基となっている。

次に、このような形態をもつ交換ノートは、どのようにして保育士の間で回されたのかを説明する。

基本的に、小さい時に交換ノートをやったことのある人は、その時の使い方を思い返してもらうといい。

交換ノートには「次の担当」という項目があるため指名制になっており、交換ノートを書き終えた人は、次に交換ノートを書く人を決めることができ、その人に直接交換ノートを渡す。交換ノートを受け取った人は、交換ノートの項目にそれぞれ書き込み、次の担当を決め、その人に渡す。そして、この一連の流れを繰り返していく。

書くタイミングや場所は自由で、家に持ち帰って書く人もいれば、保育園で書く人もいた。受け取ったら次の日に書かなくてはいけないというルールもなく、受け取った時期に書く時間がなければ、自分の書けるタイミングで書けばいいようになっていた。

また、僕が途中経過を観察する時以外は、基本的に担当の保育士の手元にあり、自分に担当が回ってくるか、交換ノートを持っている人に見せてもらわない限り、交換ノートに何が書かれているかは見ることができない。


10.「下山」を前に、下山ルートを見失う

交換ノートが保育園で回り始めてから約1ヶ月経ち、10人ほどの保育士に回ったタイミングで紙が足りなくなったこともあり、観察もしたかったため、一度交換ノートを回収した。

そこで、園長先生に手渡して以来はじめて交換ノートを見たのだが、あんなに忙しい保育士の方たちが書いてくれているという事実に感謝の気持ちが止まらなかった。周りの人たちの中には、そもそも書いてもらえるのか、という意見を言う人もいたが、S保育園の人たちは、僕のような何をしているのかもよくわからない学生の取り組みにも協力的だった。

しかし、回収した僕はまたも卒業研究の壁の前で立ち止まってしまう。

交換ノートを保育士の人たちに実際に書いてもらって、そこに書かれたものを観察すれば何か見えるはずだ、と思っていた僕の考えは甘かった。

というのも、もともと「書くコミュニケーション」を想定して交換ノートをつくったため、交換ノートによって行われたコミュニケーションを観測する必要があった。しかし、僕はそのコミュニケーションをいかにして観測するかがわからなかった。コミュニケーションは観測するものなのか(できるものなのか)については別として、その時の僕は「下山」を前に、登ったはいいものの頂上からどうやって山を降りたらいいのかわからない状態だった。下山ルートがわからなかったのである。もう少し詳しく言うと、どこから降りればいいかがわからなかった。


11.インタビューから見えたもの

そうやって立ち止まっていた僕は、富田先生とゼミの時間に限らず、電話などで相談をし続けた。(富田先生は多忙な中でも「電話大丈夫だよ!」とゼミのグループラインに送り、卒業研究で悩むゼミのみんなに時間を割いてくれていた。)

話し合った結果、書いてくれた保育士に直接インタビューをすることになり、11月29日S保育園にて、保育士の方2名に約1時間のインタビューを行った。(一緒に働いていたゼミ生と僕を合わせて計4名で行われた。)

質問内容をあらかた考えていき、インタビュー内容はボイスレコーダーで録音した。その録音したものを、後から文字に起こし、交換ノートではどのようなコミュニケーションが行われていたかを考察した。

このインタビューを通して、この交換ノートがなんだったのかがようやく見えてきた。そして、ここからが僕の卒業研究のメインディッシュである。

交換ノートでは、僕が想定していた書くコミュニケーションに加え、交換ノートに書いてある内容を誰かが読み、その内容を元に書き手と読み手、または読み手と第三者のコミュニケーションが行われていた。
インタビューから引用すると、以下の内容がそれに当たる。

 回るたびに書く人も「次あの人にこんなこと聞いてやろう」みたいな感じでした。で、読んで「あの先生アレが好きなんだって」とかを人に話すっていうのはすごくやっていました。それがネタでいじられるとかもありました。すごい楽しい話の種がいっぱい増えたって感じですね。

それは言い換えると、自身のことを書くことで種を植え、他の人がそれを読むことで芽が出て、その内容を元に会話に花が咲く、と言えるのではないか。

僕はこのコミュニケーションを、喫煙所での「タバコミュニケーション」、お酒の席での「飲みニケーション」ではない内話帳での「仕込みニケーション」と呼ぶことにした。


12.仕込みニケーションとは

「仕込みニケーション」は交換ノートに会話のタネを仕込んでから対面のコミュニケーションまで、大きく分けて3つの段階に分けることができる。僕はこの一連の流れを、種を植える、芽が出る、花が咲くという、花が咲くまでの流れに見立てた。

1段階目は交換ノートに「書く」段階である。

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誰にどんなことを聞こうかと、質問コーナーに聞きたい質問を書いたり、書き手自身のエピソードや最近はまっていることを書く。こうして交換ノートに書いた内容は、話のタネになる。植物に見立てたのも、「話のタネ」と、後から出てくる「話に花が咲く」という言葉から来ている。


2段階目は受け取った交換ノートを「読む」段階である。

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それまでに担当した人たちが書いた内容を読む。そこで、今まで知らなかったあの人の最近の趣味や、共感できるようなエピソードを知る。1段階目で仕込まれた会話のタネは、誰にも読まれなければ書いた人の日記で終わってしまうが、読む人の存在により、その会話のタネは芽を出す。


3段階目は知った内容を基に、対面で「話す」段階である。


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2段階目で知った内容を基に、それを書いた人、まだ交換ノートを見ていない第3者(交換ノートに書いてもいなければ、読んでもいないため第3者とする)と対面で話す。交換ノートが無ければ挨拶程度のコミュニケーションだったものが、交換ノートの存在により、会話にわずかではあるが花を咲かすことができた。交換ノートの存在が、挨拶だけで終わっていた人に対して、話しかける理由をつくった。

これが「仕込みニケーション」である。
3段階目のような雑談的なコミュニケーションを見るに、交換ノートは保育園において、たばこやお酒に変わるコミュニケーションの媒体になったのではないか。


13.つくったものに名前を付ける

交換ノートでは上記のような、コミュニケーションが行われていた訳であるが、ここまできてやっと、僕はこの交換ノートを「内話帳」と名付けた。

名前を付けるタイミングとして、つくった時もしくはつくっている時に名前を付けるのが一般的だろう。

しかし、僕の交換ノート「内話帳」(せっかく名前ができたので以後内話帳とする)はつくった時はおろか、使ってもらってから名前がついた。

これは、前述した僕たちの研究室で大事にしていた「下山」が関係していると思う。自分のつくったものが一体何だったのか、にフォーカスをあてていた僕にとってこのタイミングの命名は必然的だったようにも感じる。

さらには考えれば考えるほど(この文章を書いているときでさえ)、名前を付けることが、ものに意味を与えること(意味づけ)に当るのであれば、僕が命名したタイミングやそのプロセスは当たり前のことだったのではないかと思うようになった。

なぜ内話帳なのかについては、仕込みニケーションで起こっていたものが、話のタネになる人やそこに書かれている内容が内輪ネタに寄っていたからという点と、最終的に「話すコミュニケーション」に繋がっていたためである。


14.問いの浮上

先ほど「仕込みニケーション」は3段階あり、3段階目では読み手が書き手や第3者に話すと言ったが、その中でも読み手が第3者に話す内容に着目した。

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なぜそこに着目したかというと、これもインタビューでの考察がきっかけとなっている。僕が特に気になった部分は、インタビュー途中にでてきた「あの」という言葉だった。

(内話帳を)読んで「あの先生アレが好きなんだって」とかを人に話すっていうのはすごくやっていました。

インタビューの中で発した言葉のため、固有名詞(先生の名前)ではなく、あの先生と言ったのかもしれない。(その後に「アレ」と使っていることからも、そういう意味で使ったのだろうと推測できる)

だとすれば「この先生」や「その先生」でも良かったのではないか。

実際に、インタビュー内容の「あの先生」の部分を「この先生」に変えても違和感なく伝わる。

しかし、インタビューを受けてくれた保育士は「あの先生」と言った。
「この先生」や「その先生」、ましてや固有名詞でもなく「あの先生」と。

ここで、僕の中にひとつの問いが浮かび上がった。

「あの人(あの先生)」ってどんな人?

はじめて保育園を訪れてから1年以上の月日が経ち、この時すでに卒業研究提出の一週間前だった。

何度も何度も保育園を訪れ、自分でつくったモノと必死になって向き合い続けた僕が掲げた、渾身の問いだった。


15.知っているようで知らない「あの人」

ここまできてようやく、タイトルである知っているようで知らない「あの人」にたどり着いた。

ここからは
・「あの人」はいつ現れるのか
・「あの人」は誰なのか
・「あの人」はどのような人なのか

の順番で整理しながら説明していく。


「あの人」はいつ現れるのか

前述したように、内話帳を読んだ人(読み手)が内話帳に書いてあった内容を、まだ読んでいない人(第3者)に話す時に「あの人」が出てきていた。

では、そんな会話の中で出てくる「あの人」は誰なのか。


「あの人」は誰なのか
しつこくなってしまい申し訳ないが、もう一度インタビュー内容を振り返ってみると

(内話帳を)読んで「あの先生アレが好きなんだって」とかを人に話すっていうのはすごくやっていました。

というように、内話帳に書いてあった内容の話を、まだ内話帳を読んでいない人に話しているため、「あの先生」は内話帳にその内容を書いた人だと考えられる。

「あの人(あの先生)」とは内話帳に書いた人、書き手だったのだ

ここで重要なのが、書き手は内話帳に書いた時点では「あの人」にはなっていないという点だ。
あくまで、その内容を読んだ人が第3者に話す会話の中で「あの人」として出てくる。

つまり、書き手が「あの人化」するということだ。

以上の「あの人化」プロセスをまとめると以下の図のようになる。

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これは、僕がつくった内話帳が「あの人を会話の中に生むモノ」として考えることができ、当初の目的から研究題目に言い換えると、僕がやったことは「あの人」を介した会話を支援するツールの作成と言えるのではないか。


「あの人」はどのような人なのか
ここで気になるのが、「あの人」の特徴である。

あの人がどのような人かを考察するにあたって、「あの」が「人」を説明している言葉なので、「あの」について考える事にする。

「あの」と聞いて私たちが思いつくのは、一般的に、こそあど言葉と呼ばれる指示詞ではないだろうか。

日本語の指示詞は「コ・ソ・ア」の3系列ある。その用法について、以下2つの用法が挙げられる。

「指示対象が視野内にあって、典型的には指差しや視線を伴う『現場指示』と、指示対象が目の前に存在するのではなく、典型的には先行発話すなわち言語的文脈に示されたものを指す『文脈指示』とに分けられる。」
(森塚2003.p54)

研究者によってそれぞれの呼称が異なっており、用語の定義も研究者によって様々である。そのように日本語の指示詞、特に文脈指示に至ってはまだ体系化がなされていない。

とりあえずこの時点でわかったことは、内話帳で出てくる「あの人」はその場にいるわけではないため、後者の文脈指示に当たると考えられる。

それでは、文脈指示のア系列(あの、あれ、など)がどのような使われ方をするものなのか。

文脈指示のア系列を考えるにあたって、東郷雄二(2000)「談話モデルと日本語の指示詞コ・ソ・ア」を参考にする。

この中で東郷は久野(1973)の

ア系列の指示詞は「その代名詞の実世界における指示対象を、話し手、聞き手ともによく知っている場合にのみ用いられる」

という仮説に重要な反例があると述べ、次のような仮説を提唱している。

「ア系指示詞は、共有知識領域に存在する対象をさす。また共有知識領域に存在する対象をさすことができるのは、ア系に限られる」

乱暴ではあるが、談話モデルの説明や上記の仮説に至るまではここでは詳しく書かないことにする。(気になった方はぜひ調べてみてください!対話の場のデザインをしてきた者として、めちゃくちゃ興味深かったです!)

この東郷の仮説から、「あの人」という指示詞はア系であるため、「あの人」は共有知識領域に存在すると言える。

つまり、「あの人」は話し手と聞き手、お互いが知っている人である。

話し手だけが知っているわけではなく、聞き手だけが知っているわけでもない。お互いが知っているからこそ、会話のタネになり得たのだろう。

確かに、職場や教室の話しづらい人でも、出身校が一緒だったり、出身地がかぶっていたりすると、それだけで話しかける人もいる。
僕の卒業研究に寄せて言うと、共通の知人の話で盛り上がることは多々ある。

僕がつくった「内話帳」は、共通の知人を会話のタネにするツールだった。


16.さいごに

以上が僕の4年間の集大成、卒業研究である。

この卒業研究から得た学びはとても多く、何にも変えがたい僕の財産である。そして、ここで築かれた、当事者やフィールドそのものに対する姿勢、態度は今後もデザイナーをやっていく上で生かされると思う。

別段、有名になりたいとは思わないけれど、この記事を読んでくれた人たちにとっての「あの人」になれたらいいな、とは思います。


最後の最後になりましたが、僕の卒業研究に関わってくださった、理事長、園長先生をはじめとする、S保育園の皆さま、アドバイスをくださった他大学の教授の方々、そして富田先生、富田ゼミのみなさま、本当にありがとうございました。これからも頑張るので、よろしくお願いします。

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