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夢でも現でもいいじゃない / 「インセプション」

昔者莊周夢爲胡蝶。栩栩然胡蝶也。自喩適志與。不知周也。俄然覺、則蘧蘧然周也。不知、周之夢爲胡蝶與、胡蝶之夢爲周與。周與胡蝶、則必有分矣。此之謂物化。
(かつて荘周は胡蝶になった夢を見た。ひらひらと楽しく飛んでいた。自分が荘周であることも知らなかった。ハッと目覚めると、紛れもなく荘周だった。荘周は、自分が胡蝶になった夢を見ていたのか、それとも胡蝶が荘周になっている夢を見ているのか、分からなかった。荘周と胡蝶の間には区別があるはずだ。これが物化である)

「荘子」齊物論

メソン(中間子)を予言してノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹博士は「荘子」を愛読し、よく講演などで取り上げていたという。この話を聞いた時、高校の頃に部屋の本棚の「荘子」をよくパラパラとめくっていた僕はうれしくなった。この思想の根底にある"齊物"という、あらゆるものを道のもとで等価であるとみなす考え方は、物理学の根本とよく似ていると思う。つまり、荘子の言うように、現実なのか夢なのかという問いがナンセンスであって、どちらであっても楽しく生きればよく、そうして区別や差を乗り越えた先に"逍遥遊"の境地があるーー。
さて、夢に関する映画は数多く撮られているが、最近いちばん話題になった作品はやはりクリストファー・ノーラン監督の2010年の映画「インセプション」だろう。どうみても「パプリカ」のパクりであることはさておき、夢と重力という、ちょっとよく分からない組み合わせを持ち込んだせいで、どこか深遠なテーマがあるかのような気にさせられる、21世紀思わせぶり映画ランキングがあるなら間違いなく首位を独走している作品である。
なんで重力が関わってくるのか、いちおう物理学専攻だった僕は本当に唐突に感じたので、インターネットで検索してみると、高校レベルの物理すら理解していないような人たちが"解説"しているものだから、余計に訳が分からなくなり、これはきっと書いている本人たちも分かっていないんだろうと結論付けた。おそらくノーラン兄弟は、"重力は時空の歪み"というところからヒントを得て、より歪んでいる(より奥まで進んだ)夢なら重力が変化するということにしたのだろう。重力である必要を全く感じないのは僕だけだろうか。奥に進むほど色調が変化するとか、視界が狭くなるとか、その方が観やすいし分かりやすいのだが。
ラストは現実なのか夢なのか、という質問も多いようだが、どう考えてもあれは現実である。正確に言えば、あれを夢にしてしまうような結論は欧米で受け入れがたいはずだ。無意識や夢というテーマは起点が現実だからこそ成立するのであって、「夢」というタイトルの映画は現実なのかと訊くバカはいないだろう。フィクションとは全て絵空事である。絵空事の中で、主人公が現実から出発して夢の世界に行き、そのまま現実に帰ってきませんでした、これでは主人公が何をしに行ったのか分からない。ではなぜトーテムを最後まで映さなかったのか。絵空事なのだから、夢か現か、その狭間に結末を置いておくことで、観客の感じている普段の"現実感"を揺さぶりたかったのだろう。
雨月物語」があれだけヨーロッパやアメリカの映画監督に人気なのは、あの夢のような屋敷のシーンの後で、主人公たちの生活や、我々観客の生きている現実が、あの屋敷ではないと言い切れるのかという余韻が強烈だったからだ。
「インセプション」は夢に潜入するというドタバタ劇を見せられて、主人公はなんとか帰ってきました、おしまい、という話である。映像がすさまじいので、それに圧倒されて"なんだかすごいものを観た"という錯覚を起こしやすい作品である。
この数年前に公開された、"夢探偵"が主人公のアニメ映画「パプリカ」の方が面白い。筒井康隆はこの原作を1993年に発表している。ただの天才である。

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