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坂本龍一と桑田佳祐〜世界のサカモトとNIPPONの桑田〜

サザンオールスターズ結成45周年の3つの新曲

サザンオールスターズ結成45周年にあたる2023年。アニバーサリーイヤーとなる本年はじめに、9月27日から10月1日にかけての茅ヶ崎公園球場での野外ライブが行われること、それに先駆けて3ヶ月連続で新曲が配信されることが発表された。

サザンオールスターズ名義の新曲は2019年にリリースされた『愛はスローにちょっとずつ』以来3年ぶり。茅ヶ崎でのライブは2000年8月に実施されて以来23年ぶりとなる。ニュースでも大きく取り上げられ、サザンファンにとっては忘れられない1年となった。僕はライブには行くことが出来なかったので、大変に悔しかったが、リリースされた新曲とともに過去の名曲達を聴いて、大好きなバンドのアニバーサリーを楽しんだ。

1曲目の「盆ギリ恋歌」は「愛の言霊 〜Spiritual Message〜」や「愛と欲望の日々」に通じる和のテイストを散りばめた妖しげなディスコ歌謡。「歌えニッポンの空」は9thアルバム『Southern All Stars』をはじめとしてこれまでのレパートリーの中にも多くあるラテン形のサウンドで明るく故郷への感謝を歌う気持ちの良いナンバー。この2作は往年のファンにとって、過去の楽曲のエッセンスが感じられ、それが嬉しく感じられる作品であった。茅ヶ崎のライブに向けた新曲という意味でも、プロモーションとしてその役割を十分に果たす2曲だったと思う。

そして、連続リリースの最後を飾った「Relay〜杜の詩」は、それまでの2曲とは違った意味で話題となった。

「Relay〜杜の詩」について

「Relay〜杜の詩」は各種媒体で桑田自身が語っている通り、2023年3月にこの世を去った坂本龍一の神宮外苑前の再開発への反対運動への思いを引き継ぐ形でつくられた楽曲である。

「3月に坂本龍一さんが亡くなられて、テレビの特集などを通じ、あの方が仰っていたこと、想っていたことを改めて知ったんですよ。しかもそれは、自分の感覚と照らし合わせても何かしら響くものがあった。そもそも自分は、ビクター・スタジオに育てられた人間で、この界隈といえば、レコーディングの合間に散歩したりする大切な場所ですからね。再開発が社会問題かどうかという以前に、身近な話題でもあったわけなんです」

「特別コラム 〜詩に込められた思い〜」小貫信昭「サザンオールスターズ45周年特設サイト」 2023年9月20日

歌いだしの「誰かが悲嘆(なげ)いてた/美しい杜が消滅(き)えるのを/自分が居ない世の中/思い遣るような人間(ひと)であれと」という歌詞からは、余命宣告を受けながらも、自分が死んだ後の社会の未来に関心をもち、最後まで発信を続けた坂本龍一の思いを桑田が自分なりに受け継いでいくことの覚悟が感じられる。

サビのエモーショナルなクワイア(聖歌隊)とハンドクラップには、社会問題を歌ったシリアスさではなく、他社へのコミュニケーションへの希求が感じられる優しくも強度の高い楽曲になっていると思う。単なるベテランバンドのファンサービスにとどまらない、後世からみても、サザンの代表曲の一つとなるナンバーになったのではないかと思っている。

桑田佳祐と坂本龍一の関係

ところで、僕は桑田佳祐から坂本龍一の名前が出るのが意外だと思った。坂本龍一は1952年生まれ、桑田佳祐は1956年生まれと年齢が近いが、一緒に仕事をしたりしているイメージが無かったからである。実際、ライターの原田和典の記事でも、「我々ファンにも把握できる坂本龍一との接点といえば、83年公開の映画「だいじょうぶマイ・フレンド」のサウンドトラックに、それぞれ楽曲を提供していたことぐらいのはず。」と述べられている。(ちなみに「だいじょうぶマイ・フレンド」については後述する。)


とはいえ、顔見知りではあったようだし、ホントのホントのところはどうなのか?と思い、いろいろ調べてみようとインターネットで軽く検索しても、桑田のレギュラーラジオ番組『やさしい夜遊び』での発言やインタビューを抜粋したインスタントな記事ばかりが先に目に入り、2人の本当の関係性について、知りたいことになかなかたどり着けない。

ということで、自分の興味のためにここで調べた結果を置いておきたいと思う。そこにはファンからすると常識であるものもあるだろうし、逆に当時を知る世代の方からすると実感と合っていないところもあるかもしれないが、少なとくとも僕は同時代を駆け抜けた2人の偉大なミュージシャンの違いと共通点について知りたかったし、そのような記事がもっと増えればよいのではないかと思っているので、ここに残しておきたいと思う。

結論から言ってしまうと、彼らはいくつかの共通のキーパーソンを通してニアミスしているが、直接コラボらしいコラボをおこなっていない。ただ、そのキーパーソンたちと二人の交流がいちいち刺激的で面白い。

坂本龍一による桑田佳祐評、桑田佳祐による坂本龍一評

そもそも坂本龍一は桑田佳祐をどう思っていたのか?
爆笑問題のラジオ「NHK爆笑問題のニッポンの教養」(2009年9月1日放送)のゲストとして出演した際にその評価がうかがえる。
(ちなみに、爆笑問題はサザンファンとして有名で、サザン・桑田ソロのライブの幕間の映像で度々出演している。)

この放送では、爆笑問題・太田がサザンオールスターズの『彩~Aja~』を流した後に、太田が坂本に対して「サザンはどうですか?」と問う

坂本は「桑田君は顔見知りではあるんだけど……」と前置きして、「理解しようとするんだけど、僕はよく分かんないんだよね。でも人気があるじゃない、凄く。どういうところに触れるんだろう?それを知りたい」といった形で爆笑問題に尋ねており、決して桑田 = サザンのことを高く評価しているわけではないことがうかがえる。この後、爆笑問題の二人は坂本が歌詞を音の記号としてしか認識していないという発言を引き出すことになるが、実際に坂本龍一が作詞としてクレジットされている楽曲は非常に少ない。

桑田は『ただの歌詩じゃねえかこんなもん』(1984年 新潮社)などの歌詞集を出版しているし、音楽評論家のスージー鈴木は『桑田佳祐論』(2022年 新潮社)では、桑田佳祐の歌詞について、『勝手にシンドバッド』を指して「日本語を英語のように歌う」というクリシェ的な桑田評の一歩先を行く分析をしており、桑田佳祐の言葉を「戦後民主主義を謳歌した言葉」と評している。実際、いちファンとして歌詞を抜きにして桑田佳祐の魅力を語るのは難しいのではないかと思う。

一方、桑田佳祐はインタビューで坂本龍一と自身を対比させて以下のように述べている。

「日本人がアメリカのビルボードホット100で1位を取った歌は、1963年の『上を向いて歩こう』(坂本九。英題は『SUKIYAKI』)以来、60年もの間、一曲も出ていない。僕もそれを密かに人生の目標にしていた時期もあったんだけど、未だ叶わない。それこそ坂本龍一さんは“音楽家”として“世界のSAKAMOTO”になった。でもサザンは、自虐じゃないけど、ローカルな“音楽屋”が似合っている。ドメスティックで、ガラパゴスなりの良さというか、そこは我々なりに大切にしておきたい。“世界”ではなく“世間の娯楽チック”でいたいんですよ」

Yahoo!ニュースオリジナル「次世代のために意見のキャッチボールを――移り変わる時代に、サザン桑田佳祐が音楽で生む「コミュニケーション」」2023年9月19日18:00配信https://news.yahoo.co.jp/articles/0ec4568f9307dad96f25305babe7e2d0cf832b09?page=4

音楽家として世界で評価された坂本龍一と、日本人なら誰もが知るサザンオールスターズ ≒ 桑田佳祐としての自分を冷静に分析したうえで、自分の持ち味を見出すような発言である。

実際にサザンオールスターズは80年代に21作目のシングル『Tarako』でアメリカのロサンゼルスでのレコーディングを決行しており、カップリング曲の『Japaneggae (Sentimental)』も含めて全編英語詞になっている。

残念ながら、日本人以外の音楽リスナーでこの楽曲を知る者は多くないだろう。スージー鈴木は、桑田佳祐のインタビューからこんなエピソードも引用している。

桑田佳祐のインタビューによれば、この時期(※著者注 1983年リリースの6thアルバム『綺麗』から1984年リリースの7thアルバム『人気者で行こう』の間)桑田がニューヨークで、当時の売れっ子ミックス・エンジニア=ボブ・クリアマウンテンと面会したらしい。そこで『綺麗』を聴かせたのだが、ニューヨークで聴いた『綺麗』の音は「けっこうみじめな音」をしていて、ショックを受けたという。その上、なぜ音が貧弱なのか、その理由について、ボブ・クリアマウンテン(※著者注 BonJovi,Devid Bowie,The Rolling Stones等の数々の有名ロックミュージシャンのレコーディングエンジニアをつとめた人物)から「やっぱりセンスですな」「血ですな」と言われ、さらに落ち込んだという。

スージー鈴木『サザンオールスターズ1978-1985』(2017 新潮社 p181)

音楽で世界のサカモトとなった坂本龍一と、(世界で通じなかった失敗を経て)ローカルな音楽屋としての矜持を語る桑田佳祐。互いの評価からも、そんな対比がうかがえる。

キーパーソンと坂本・桑田の交流について

ここからは、僕がピックアップしたキーパーソンと坂本・桑田の交流がどのようなものだったのかをネットや書籍からひっかき集めてきたものである。リアルタイム世代ではないのと、サザン/桑田は好きだがYMOやシティ・ポップにそれほど明るくない僕の知識の偏りが大いに現れていると思うが、どうかご容赦願いたい。間違いや不足があればどうか優しく訂正いただきたい。

藤井丈司

藤井丈司といえば、YMO・坂本龍一のアシスタントとしてキャリアをスタートさせ、その後90年代以降に多くのミュージシャンの編曲/プロデュース担当していることで有名なシンセ・プログラマーであるが、桑田佳祐との仕事でも有名である。スージー鈴木は前述した『サザンオールスターズ1978-1985』では「YMOとサザンという、ほとんど交流の無い2つの人脈をつないだ、稀有なキャリアを持つ。」と紹介している。

藤井丈司はサザンオールスターズ 7th『人気者で行こう』(1984年)からサザンオールスターズのサポートメンバーとなっているが、注目すべきは、『人気者で行こう』でのクレジットが「Techno」であることである。(8th『KAMAKURA』では「syn & computer programming」)このおおざっぱな「Techno」というクレジットについては、サザンオールスターズ2代目レコーディング・エンジニアの池村雅彦は『サザンオールスターズ公式データブック 1978 - 2019』(2019 リットーミュージック)のインタビューで「YMOに携わっていたから、みんなも”テクノ”ととらえたのではないでしょうかね。」と言及しており、スージー鈴木は『サザンオールスターズ1978-1985』で「サザンの6人が、コンピューター~デジタルという新機軸について、まるごとざっくりと藤井丈司に頼っていることが、強く感じられる表記のように思う。」と評している。

実際、藤井丈司が桑田佳祐の楽曲づくりに与えた影響は大きく、池村雅彦はインタビューで『人気者で行こう』録音時のエピソードを交えて以下のように述べている。

「彼は、最初はシンセのマニピュレーターとして参加していましたが、徐々にある種のサウンド・プロデューサーとして関わっていった。「ミス・ブランニュー・デイ(MISS BRAND-NEW DAY)」は、ベースが藤井君の打ち込みで、イントロのシンセは原坊(※著者注 サザンオールスターズのキーボーディスト 原由子)が手で弾いたものを藤井君がクオンタイズした。僕は打ち込みだと勘違いしていて、「いえいえ、ちゃんと私が弾きましたよ?」って後年、原坊に怒られちゃった(笑)桑田君が簡単なコード譜で曲のイメージを説明すると、藤井君が打ち込みやアイデアを返していくといったやりとりで形にしていった曲もありましたね。

『サザンオールスターズ公式データブック 1978 - 2019』(2019 リットーミュージック)p42

上記の引用は、これまで80年代的なデジタル路線ではなく、バンドセッションにより楽曲を作り上げていく、60年代の洋楽志向が強かったサザンオールスターズが一気にデジタル化を進めていることを象徴するようなエピソードだと思う。藤井は桑田佳祐1stソロにして自身のセルフタイトル『Keisuke Kuwata』ではすべての楽曲に、小林武史とともに、ドラムス&シンセサイザー・プログラミング/シークエンシングとして全面的に参加しており、その後のバンドのセルフタイトル『Soutern All Stars』にも参加している。

坂本龍一がYMO・ソロとして日本を代表するテクノ・ミュージシャンとなるのに貢献した藤井丈司は、桑田佳祐にとっての、日本のテクノ代表として、90年代以降にサザンオールスターズが「ローカルな“音楽屋”」として「メガ・サザン(©スージー鈴木)」になるのにも貢献していたのである。

忌野清志郎

忌野清志郎は坂本龍一とのコラボレーションシングル『い・け・な・いルージュマジック』をリリースしている。1982年に「資生堂'82春のキャンペーンソング」としてヘビーローテーションされたこのシングルは、プロモーションビデオでふたりがけばけばしい化粧をほどこし、キスをするなどの過激なパフォーマンスが話題に。

この曲は誰もが知る超有名な楽曲と言ってもいいと思うし、80年代の華やかなりし頃に起きた、一流のミュージシャンのコラボレーションの代表例と言っても差し支えないだろう。

忌野清志郎と坂本龍一のコラボレーションの経緯については、思考家・佐々木敦のWebちくまの記事に詳しいので参照されたい。

一方、いまとなっては桑田佳祐が忌野清志郎とコラボレーションしていたことは、『い・け・な・いルージュマジック』と比較して、あまり知られていないのではないかと思う。

忌野清志郎と桑田佳祐のコラボレーションが披露されたのは1986年と1987年の12月24日に日本テレビ系列(NNS)で放送された『メリー・クリスマス・ショー』(Merry X'mas Show)でのことであった。

『メリー・クリスマス・ショー』は、吉川晃司が「今の音楽シーンがつまらないのは、ある意味あなた方にも責任があるんじゃないの?」という挑発に乗った桑田佳祐が企画して実現したといわれている(Wikipediaにそう書いてあるけど本当なのだろうか)。司会が明石家さんま、桑田佳祐率いるKUWATA BANDを中心に、松任谷由実、泉谷しげる、アン・ルイス、中村雅俊、吉川晃司、ARB、鮎川誠、トミー・スナイダー、小林克也……など、超豪華な出演陣による特別な音楽番組である。出演者に加えて演出も豪華で、制作会社が倒産寸前になったといわれる(これもマジなのだろうか)、伝説的な番組である。

忌野清志郎は『メリー・クリスマス・ショー』ではVTR出演だが、VTR中でオリジナル楽曲『セッションだッ!』(作詞作曲:桑田佳祐)のパフォーマンスとなっており、桑田佳祐と共演している。とくに1987年の『メリー・クリスマス・ショー』でのパフォーマンスは、プロレスのリングを模したステージで、古舘伊知郎のアナウンスのもと、忌野清志郎と桑田佳祐が向かい合って歌うのだが、途中から泉谷しげるが乱入してきたり、物を投げる、山下洋輔が弾いているピアノ(非常に高価なピアノらしい)に水をかける、等の暴力的ともいえるパフォーマンスが目立つ。今でこそクリスマスのゴールデンタイムのテレビで流すにはちょっとアバンギャルド過ぎるのではないかと思うが、忌野・桑田の記名性の高すぎる二名のボーカリストによる掛け合いは、掛け値なしに、大変にカッコいい。この映像はインターネットのどこかにあるので、各自検索してご覧いただきたい。

平成初期生まれの僕は、『い・け・な・いルージュマジック』は昔のヒット曲を流すテレビ番組で流れていたので知っていたが、インターネットが自由に扱えるようになるまで、『メリー・クリスマス・ショー』も『セッションだッ!』も知らなかった。それもそのはずで、『メリー・クリスマス・ショー』と『セッションだッ!』のいずれもソフト化されておらず、当時この番組を録画した人だけが知る隠れた楽曲だったのだ。忌野清志郎も 2009年に世を去っており、ソフト化されていたら伝説的な音源になったのではないかと思う。残念!

松任谷由実

この記事を書いているときにちょうど前述した『メリー・クリスマス・ショー』で披露された作詞:松任谷由実、作曲:桑田佳祐による『Kissin’ Christmas (クリスマスだからじゃない) 』が2023年にリアレンジを施されてリリースされた。

この楽曲は「音源化はしない」とされていた楽曲だったが、2012年の桑田佳祐のベストアルバム『I LOVE YOU -now & forever-』に収録されたことが話題になっていたが、まさかリアレンジされてリリースされるとは。ユーミン・桑田ファン両方にとってうれしいサプライズになった。


平成最後の紅白歌合戦である「第69回NHK紅白歌合戦」においては、サザンオールスターズが50組目の最後の出演者として特別出演し、『希望の轍』と『勝手にシンドバッド』を披露した。『勝手にシンドバッド』のステージでは、ユーミンが桑田の頬にキスする場面が画面に映り、大きな話題(?)となった。

桑田とユーミンのコラボレーションは大きな話題になっているが、坂本龍一とユーミンはどうだろうか。

YMOの発案者である細野晴臣は、ユーミンの1stアルバム『ひこうき雲』のバックバンドキャラメル・ママ(後のティン・パン・アレー)に参加しているのはあまりにも有名だし、1974年12月に東京・銀座に設立されたレコーディング・スタジオ「音響ハウス」にはユーミンや夫の松任谷正隆も坂本龍一も出入りしていた等、共通の知人・友人が多く、ユーミンのラジオにゲスト出演をしていたりしていることから親交があったことはうかがえるが、楽曲としてのコラボレーションは意外にも1985年にリリースされた小田和正と財津和夫とユーミンのコラボレーションシングル『今だから』の編曲に坂本が参加しているのみであるようだ。

https://www.amazon.co.jp/今だから-松任谷由実/dp/B07MFGRZ4C

『今だから』はそとそもボーカルを取っている3人が超ビッグネームであるが、バンドメンバーも超豪華。キーボードは坂本龍一が担当し、ドラムは高橋幸宏、ベース後藤次利、ギター高中正義とサディスティック・ミカ・バンドのメンバーが揃っている。

この2曲に関しては、桑田・坂本が云々というより、自身が超売れっ子でありながら、フットワーク軽く話題のコラボをしまくるユーミンがすごいという話かもしれない。

山下達郎

2023年に名盤『FOR YOU』のトップを飾る「SPARKLE」のミュージックビデオが公式にYoutubeにアップロードされた山下達郎。(もうひとつバッドな話題もあったが、ここでは触れないでおく)

桑田佳祐と山下達郎は非常に親しい間柄であることはファンには知られている。エピソードには枚挙にいとまがないが、直接のコラボレーションとしては、1988年リリースの山下達郎の9thアルバム『僕の中の少年』に収録されている「蒼氓(そうぼう)」のコーラスに桑田佳祐・原由子夫妻が参加していることが知られている。

また、2014年に竹内まりやのデビュー35周年記念シングルとしてリリースされた「静かな伝説(レジェンド)」にも山下・竹内夫妻と桑田・原夫妻が再びコラボレーションしている。

2人は度々対談も行っており、山下達郎の2016年に発行されたファンクラブ会報誌「TATSURO MANIA」100号記念にて、山下達郎と桑田佳祐の対談が掲載されている(らしい。僕は読んだことはないです)。また、1988年7月5日から3日間、FM東京で放送されていたラジオ番組『TOKYO RADICAL MYSTERY NIGHT』ではガッツリ対談を行っている。互いの交友関係や音楽感の違い、作曲法などに話が及び、ファンであれば必聴である(各自インターネットで検索して確かめてほしい!)

一方、坂本と山下の交流についても様々なエピソードが残っている。

坂本龍一は自身の著書『音楽は自由にする』(新潮社 2009)にて、山下達郎との出会いを記している。

坂本と山下の交流のエピソードは以下のNakajiさんのブログにも詳細に記載されていたので参照されたい(丸投げ)。

楽曲でのコラボレーションついては、山下達郎の2ndアルバム『SPACY』(1977年)、3rdアルバム『IT’S A POPPIN‘ TIME』(1978年)にYMOに参加する前の坂本がキーボードとして参加しており、ライブのメンバーとしても参加していたという。

また、遡ること1975年。山下達郎と坂本龍一がはじめてコラボレーションした作品として、少年少女合唱団みずうみ 『海や山の神様たち~ここでも今でもない話~』がリリースされている。フォークソンググループ「六文銭」のメンバーだった及川恒平が主催した、児童合唱団による合唱のアルバムであるが、山下達郎がギターを、坂本龍一がキーボードを弾いている。なんと、こちらはサブスクリプションで聴くことができるので、サブスクでヤマタツのギターを聴きたくてウズウズしている(?)人は是非お聴きいただきたい。

前川清

この流れで前川清!?と思うかもしれない。前川清は「内山田洋とクールファイブ」のメインボーカリストとして『長崎は今日も雨だった』(1969年)や『そして、神戸』(1972年)『東京砂漠』(1976年)等のヒットを飛ばした。

前川清は1982年にソロ名義でデビューする。そのデビュー曲『雪列車』の作曲者が坂本龍一なのである(作詞は糸井重里)。

坂本によって生み出された『雪世界』は、『内山田洋とクールファイブ』での演歌・歌謡曲の歌唱のイメージの延長線上にシンセサイザーがまじりあうユニークなテクノポップ・シンセ演歌ともいえる楽曲で、シンセサイザーの音使いは90年代のJ-POPのバラード楽曲を先駆けているような印象を覚える。ちなみにこの楽曲のドラムは坂本龍一自身がたたいているのは有名な話。前川自身もインタビューで言及しているが、まる1日かけて、ハチマキをしながら(!)ドラムを録音していたという。「何で1日、そんなに一生懸命にたたくんだ」という前川の問いに対して、「アジアというのか、日本というのか、和太鼓の音をドラムの中で出したいけど、その響きが出ない」と答えたと言われている。

一方の桑田佳祐は「前川清の髪型で学校に通っていた」(『ただの歌詩じゃねえかこんなもん』)ほどの前川清ファンを公言しており、『ポップス歌手の耐えられない軽さ』(2021 文藝春秋)では前川を以下のように分析している。

腹の底からシャウトする前川さんは、ムード歌謡会ではかなりの異端児であり、斬新だった!!作詞、作曲および編曲家の先生方が、音楽的に指定した「本来の歌い方」とは、ちょいと違う「ノリ方」「解釈の仕方」で彼は啼き、慟哭(さけ)ぶ!!
(中略)
三橋美智也や北島三郎のような、日本民謡をルーツに持つ人たちの歌唱も素晴らしいが、前川さんのルーツは多分に洋楽的な影響が大きいと、アタシは確信するのでありました。
明らかに「夜の演歌酒場」とは違うノリを持つ前川節!!その辺の「日本のロック」なんかより、よっぽどガッツのある「ロッカー」であり、「R&Bシンガー」なのであります!!

桑田佳祐『ポップス歌手の耐えられない軽さ』(文藝春秋 2021)

実際、前川清は洋楽ポップスが好きで、ライブでもたびたび披露している。内山田洋とクールファイブでの直立不動のしかめ面でしっとりと歌い上げるパブリック・イメージとは異なる、踊れる楽曲を明るく歌いこなすこともできるボーカリストであり、桑田はそれを見抜いていたのである。

桑田佳祐が昭和から平成の名曲をひとりで歌いこなす超人的な企画「ひとり紅白歌合戦」においても、毎回クールファイブの楽曲が披露され、その際には桑田が「ヅラ山田洋と大泉洋とクール・ファイブ」名義でクール・ファイブのメンバーに扮した映像がバックモニターに映され、笑いを誘っている。

一方、前川清の方も桑田佳祐を意識しており、インタビューでは「サザンのを全部カバーしたいですね。今まで、「真夏の果実」とか「TSUNAMI」とかは歌ってきたけど、「勝手にシンドバッド」とか、僕とはかけ離れている曲も歌ってみたいです。」と述べている。

サザンオールスターズ『SEA SIDE WOMAN BLUES』(39作目のシングル「01MESSENGER 〜電子狂の詩〜」のカップリング曲)のカバーにいたっては、シングルリリースされている。僕はもともと『SEA SIDE WOMAN BLUES』が好きだったが、このカバーは原曲は前川清のために作られたのではないか、というくらいにハマっているので、愛聴している。

坂本は演歌・歌謡曲のスーパースターである前川の新たな魅力を引き出し、桑田は演歌・歌謡曲だけではない前川清の強みを知悉していた。日本歌謡界のスーパースターを通して二人は繋がっていた(?)のである。

なお、前川清が桑田に与えた影響に関しては以前記載した「演歌と桑田佳祐」と題したブログにも記載しているのでぜひご一読いただきたい。

村上龍

これまで坂本・桑田両名と同じミュージシャンとの関係について述べてきたが、ミュージシャンではない著名人として、村上龍を挙げておきたい。実は坂本・桑田をもっとも近づけている(?)のは、村上龍だった。

坂本龍一と村上龍の親交はここで述べるまでもないだろう。1985年刊行の『EV.Cafe 超進化論』では、ふたりと吉本隆明、河合雅雄、浅田彰、柄谷行人、蓮實重彦、山口昌男との鼎談が行われたのはあまりにも有名。生涯を通じた友人であったことは、数多くの証言が残されている。(というか僕は『EV Cafe超進化論』を読んだことがあるだけで、それ以外のことはあまり知らないので何かあれば教えてください。)

一方、桑田佳祐と村上龍の関係については、桑田ファン以外はあまり知らないのではないだろうか。村上龍は、桑田の歌詞・エッセイ集『こんなもんただの歌詩じゃねえか』の巻末に収録されている『無敵のサザンオールスターズ』と題された文章で、初期(正確には『勝手にシンドバッド』(78)~『東京シャッフル』(83)まで)のサザンオールスターズを「サザンは、日本にはじめて現れたポップバンドだと思う。」と絶賛している。この『無敵のサザンオールスターズ』は(現代から見るとポリティカル・コレクトネス的に確実にアウトな表現が見られるが)ウルトラ名文なので、機会があったら読んでほしい。以下の記事で一部を読むことができるが、これはサザンオールスターズファン、日本のポップスファンであれば必読の優れた文化批評であると思う。

坂本とは親友であり、桑田を絶賛している村上龍だが、実は冒頭に述べた映画『だいじょうぶ、マイ・フレンド』の原作・脚本・監督が、この村上龍なのである。

『だいじょうぶ、マイ・フレンド』の映画の音楽監督は加藤和彦がつとめており、サウンドトラックは海外でも人気盤になっているとのことだが、この中の『ドアーズのテーマ』の作曲を坂本が、『ミス・ユー・ベイビー (MISS YOU BABY)』の作曲を桑田佳祐(歌唱は上田正樹)がつとめているのが、冒頭に引用した「「だいじょうぶ、マイ・フレンド」にそれぞれ楽曲を提供していた」の内実である。

僕は実際に絶版状態になっている『だいじょうぶ、マイ・フレンド』のDVDを買って見てみたが、この2つの楽曲が重要に絡み合っているなどということはなく、『ミス・ユー・ベイビー (MISS YOU BABY)』に至っては、どこで流れているのかがわからなかった。坂本の『ドアーズのテーマ』については、作中に出てくる悪の組織「ドアーズ」のテーマということがあり印象的に使用されている。

映画の内容については、以下の記事を参照されたい(多少のネタバレを含む)

ちなみに、『だいじょうぶ、マイ・フレンド』には高橋幸宏がゲスト出演している。坂本より前の2023年1月に亡くなった高橋幸宏は、桑田と家族ぐるみの付き合いがあったそう。

しかし話は逸れるが、この『だいじょうぶ、マイ・フレンド』は本当に謎の作品である。主演はアメリカン・ニューシネマの傑作『イージー・ライダー』のピーター・フォンダ。ヒロインは本作がデビュー作となる19歳の広田レオナ(当時広田 玲央名名義)。珍妙なストーリーと明るい作風は見るものに強烈なインパクトを与える。せっかくプレミア値がついたDVDを持っているので、いつかブログに書いてみたいと思う。

世界のサカモトとNIPPONの桑田

ここまでで、ほぼ同時期に活躍し、多くのキーマンとのコラボレーションを行いながらも、混じりそうで混じらない坂本・桑田について、できるだけネットや書籍から調べられることを中心に書いてきた。僕の知識不足で触れられていないエピソードや人物もたくさんいるだろうが、今回はこの辺にしておきたい。

世界のサカモトとNIPPONの桑田。坂本は世界で日本の音楽シーンの存在感を示し(YMOにおける細野晴臣のオリエンタリズムを纏う巧みな戦略と日本の高度経済成長の力の後押しもあっただろうが)、桑田は日本で世界のロック・ポップスを根付かせた。両者の距離感は音楽的には遠く離れているかもしれないが、共通するキーパーソンを通してみると、意外と近しいところにいたことがわかる。

そんな2人がなにか間違ってコラボしたりしてくれないか…と妄想してみたりもするが、もうそれは実現されないのだと思うと、とても悲しい。僕らにできることは、彼の残してきた功績を少しでも次の音楽シーンに繋いでいくことだけだろう。興味本位からはじめたことだが、そんなことまで考えてしまい、こんな長大で散漫な文章が生まれてしまった。

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