down the river 第三章 第二部〜飛翔⑥〜
真理とユウは部活動の朝練に参加する生徒達と同じ時間帯に学校にいた。
「運動部の連中はこんな時間からあんな激しい運動すんのかよ…。俺なら朝のホームルーム始まる頃にはもう死んでるぜ…。」
真理とユウは2階にある建屋外を通る渡り廊下にいた。
その渡り廊下からは軟式テニス部のコートが見下ろせる。
朝から激しい練習をする軟式テニス部を見てユウは寝ぼけ眼でぼやいた。
「フフッ、新田さんは運動嫌いだもんね。ライブの時とかは凄い動くのに。あれ結構な運動量だと思うけどなぁ。」
ユウの顔を下からうっとりと見つめながら真理は話す。
「あぁ、そういやそうだね。なんで音楽やってる時は身体が動くんだろうなぁ。不思議だよ。」
ユウの視線は相変わらず軟式テニス部に釘付けだ。
ユウの視線を外させない程、激しい朝練なのだ。
「あ、も一つあるよ?新田さんが一生懸命運動するやつ。」
「え?そんなんあった?俺が一生懸命運動なんかするもんか。」
「私を気持ち良ぉおくしてくれてる時。フフフッ。でしょ?」
「朝から何言ってんだか…お前も中々俺に似てきたかな?アハハ。」
「ワンコは飼い主に似るって言うでしょ?」
「知らないよ、犬なんか飼った事ねぇし。」
「新田さん、今飼ってんじゃん。」
「え?」
「私を飼ってるでしょ?」
「はぁー。お前大丈夫か?大学受験あんだろ?ホントにもう…。」
「ハハハ…」
「アッハッハ…」
2人の間に挟まって動けない空虚な笑いは早朝の澄んだ空気を灰色に染めていく。
真理は百合子との関係に今日決着をつけるつもりだ。
真理のユウを見つめる目が時間の経過に伴って覚悟を決めた様な、しかし、どこか憂いを帯びた目つきへと変わっていく。
「真理…俺はあれから色々考えたんだ。」
「私の事?」
「そう。俺の話を聞いて天澤さんは行動に出たんだろう。俺の話で天澤さんを止めていた物が消えてしまったんだ…だから…俺が天澤さんを使っ…」
「新田さん、そうなってしまう事、百合子みたいに行動を止めていた物が消える事を箍が外れるって言うのよ?フフフ、勉強しなさい。ね?私の事は良いから。」
真理お得意の口を挟むという技に対してユウは少し呆れ気味に真理を見つめた。
「俺は音楽を選ぶよ。真理、これからもお前には迷惑をかけてしまうかもしれない。」
「選ぶ…って?」
「俺は真理にも話した通り希少な経験をしてきた。それを皆に話す事で楽になれる奴が増えればいい、そう考えてきたんだ。そして…これからもそういう事を音楽に乗せて、届けて、楽にしていきたい。」
「うん。」
真理は真剣な面持ちで、少し伸びた美しい髪を揺らし、首を縦に振った。
「それで一緒にいる真理を傷付けてしまうかもしれない。今回の様に。」
「うん。」
ユウの言葉が途切れる度に真理は、首を大きく縦に振る。
「それでも俺と一緒に居てくれる?」
「相変わらずだね、新田さん。新田さんはどうしたいの?まずそこだよ。」
顔の毛細血管が破れるかと思うほど熱い血液がユウの顔を包み込んでいく。
「一緒に…居たい…。真理と…一緒に歩きたい…。俺は…。」
顔の熱に耐えながら、ユウはしどろもどろになり、答えた。
「私もだよ、新田さん。それでいい。それでいいの。」
真理は突然ユウの身体の向きを変えさせると、ユウの正面で立て膝を付いた。
そして両手を地に付け、ユウを見上げた。
「新田さん、私がなんで歳下の新田さんをいつまでも新田さん…って呼ぶかわかる?」
真理の瞳がとろけて、潤んでいく。
「わからないよ…。何度言っても直さないじゃんか。」
「私は新田さんのモノ。新田さんに全てを捧げる、そう決めてるの。だから尊敬の気持ちで新田さん…そう呼んでる。そして私は新田さんの失われた時を取り戻す。」
「ど、どういう意味だ?」
「新田さんは屈辱を受けてきたと思う。色んな事をされてきたと思う。やりたいけどやれなかった事があったり、破壊衝動もあるだろうし、色んな事を我慢してきたと思うんだ。」
「…。」
「それを全部私が受け止める。新田さんが私を壊したいなら壊せばいい。我慢してきた事を全部私にちょうだい?それが私の幸せ。それが新田さんの時を取り戻す…その言葉の意味だよ。そして私は…」
真理は潤んだ瞳を、ユウから下へ落とすと、両腕を曲げてゆっくりと額を地に着けた。
「な、止めろよ、真理。なんでそんな事をする!?」
ユウは慌てて辺りを見回しながらしゃがみ込むと真理の左肩に右手を置いた。
「どうかこれからも新田さんの隣に居させて下さい…なんでも…なんでも…します…なんでもさせてください…私を使ってください。」
ユウは表情を崩し、恥ずかしそうに微笑むと真理の頭をクシャクシャと撫で回した。
「真理…心配するなよ。俺はお前を守る。お前を置き去りにしない。さぁ、天澤百合子と話を付けるんだ。何かあればすぐに駆け付ける!」
・・・
「なぁ新田くん。」
「え?」
昼食後に一眠りしていたユウは、生理現象の衝動に叩き起こされ、少便器の前にいた。
そこで見た事はあるが話した事がないという同級生が突然ユウに話しかけてきたのだ。
「何?どうかしたの?」
ユウは用を足し終えると、下半身の身支度を済ませ手洗い場へと移動した。
ユウは直感で声をかけてきた人物の危険性は無いと判断したので、ソフトに話を返した。
「…。」
「何、へへへ…。どうしたの?何か用があんなら遠慮なく。ん?」
「少し、話せないかな。いっつも新田くん昼休み寝てるからさ。」
「あぁそういう事ね、別に起こしてくれて構わないのに。便所じゃアレだから教室戻ろうぜ。」
「い、いや、待って!待ってくれ!」
その人物は急に大きな声で便所から出て行こうとするユウを引き止めた。
「?」
「こ、こっちで…話したい…。ついて来て。お、俺、佐々木…佐々木ってんだ。」
「ん、あぁ。佐々木くん、佐々木くんね。」
『な、なんだ?こいつ。別に危害を加えようってわけでもなさそうだし…。ついて行くか…。』
ユウは佐々木に案内されて来たのは軟式テニス部の部室だった。
『ほお…運動部の部室なんか初めて入ったな…。意外と綺麗にしてるもんだなぁ…。』
10畳程の面積で背の高い棚が置かれているのでかなり狭苦しく感じる。
ユウが朝に見た部員数には明らかに釣り合っていない。
しかしよく清掃されている様で、汚れも少ないし臭いも感じない。
「へぇ、初めて入ったよ、部室なんてさ。佐々木くん、軟式テニス部か…。んで?どうした?話って?」
ユウの問いかけに佐々木は赤面するばかりで返事をしてくれない。
『なんだ?こいつは…。まぁいい。悪い奴じゃなさそうだし。』
「なんだよ、話がしたいんだろ?」
「新田…くん…は…その…」
「…?何?」
「男が好きなの?好きになれるの?」
「…。」
「俺、こないだFRIDAYに友達がライブするからって見に行ったんだ。そしたら新田くんが出てて…その…」
「あぁ。」
ユウは話を遮り首を数回ゆっくりと縦に振りながら返事をした。
「え?」
「そうだよ。MCで話した通りだよ。別に隠すつもりも無い。」
「そ、そうなのか…」
「そう。別に構わないよ。佐々木くんが良ければ教室でも良かったのに。んで?俺が男も女も好きになれるのを知ってどうすんの?金でもたかる気だったの?」
ユウは悪戯っぽく笑いながら佐々木の顔を下から覗き込んだ。
「ち、違う!そんなんじゃない!」
左手を縦にして激しく振りながら佐々木は否定した。
ユウはその様子を見て少し吹き出しながらなだめた。
「わかってるよ。アハハ、冗談だよ。そんな悪人ツラしてねえし。で?何?何か相談?」
「うん、悪いな…突然…。」
「いや、全然。いいよ?」
「実は…俺もそうなんだよ…だから何か仲間がいて嬉しくてね…。」
「ほぅ…。男が好きなの?それとも両方?」
「俺は男が好き。」
「ふぅん。そっか…経験はあんの?」
「あぁ。少しね。」
「少し?」
「うん。…だけ…。」
「え?」
「咥えた…だけ…。」
「咥え…?そうか!アッハッハ!じゃあわかるかな!?匂いは!?臭かったか!?臭かったろ!?なぁ!佐々木くん!独特の匂いだよな!…な!?」
ユウは佐々木がどういう反応をするかどうかなど気にならない程にテンションが上がってしまった。
同じ学校の同じ学年でこんな話ができるとは夢にも思わなかったのだ。
ユウは話の最後に僅かだが理性を取り戻した。
しかしもう止まらない。
「プッ!ブアッハハハ!そうそうそうそう!!ね!?スルメみたいな匂いでさ!ね!わかるよ!新田くん!!」
佐々木はユウの不安を消し去るかの様に大笑いをし始めたのだ。
その佐々木を見たユウも更にテンションが上がる。
「やめろよ!アハハ!スルメとか言うなよ!スルメイカ食えなくなんだろ!ハハハ!ヒィヒィ!腹痛い!やめろやめろ!佐々木くん!」
「でもさ!それがまたいいんだよね!」
「そうそう!なんて言うのかな…脳に直接来るんだよね!あの匂い!カツーン!ってさ!!アハハハ!!」
「ハッハッハ!わかる!わかる!ね!?ハハハ!」
「ハハハ!」
「あぁ、笑った笑った…。もう勘弁してよ新田くん…」
佐々木は目を擦りながらもう片方の手でユウの肩を叩いた。
「あぁすまんすまん。その…俺も何だか嬉しくなっちゃってよ。」
「新田くん、ありがとう。」
「あえ?何が?」
「何がじゃないよ。本当にありがとう。」
「意味がわかんねぇ。」
「楽になったんだよ。ライブの時新田くんは言ってたろ?普通の人間が見れないその景色を俺達は見る事ができるって。人になんか託すな、自分の目で景色を見ろって。あの言葉で俺はどれほど救われたか…。だからお礼を言ってるんだ。」
「…マジか…。そんな…。俺は何も…。」
ユウは急に讃えられて恥ずかしかったのか、くねくねと気味悪い動きをしながら目を伏せた。
「そして今日こんなに笑えた。笑い合えた。俺達しかわからない話題でね。本当にありがとう新田くん。」
「あぁ、佐々木くん、俺も楽しかった。こちらこそありがとうよ。お?そろそろ昼休み終わるぜ?うちのクラスは移動教室だ。先に戻るよ。」
ユウは踵を返すと部室から出て行こうとした。
「新田くん。」
佐々木は片手を口の端に当ててユウを呼んだ。
ユウが振り返ると佐々木は両手を後ろに組み、両膝をつけて内股になっている。
まるで女子の様な仕草だ。
「どうした?佐々木くん。吹っ切れたのか?」
佐々木は2回もじもじと腰をくねらした後、動きをピタリと止めると驚くほど自然で、流暢な女言葉で話し始めた。
「うん。あたし頑張る。女の子として、男子を愛していける様に。あたし、ずうっと女の子になりたかったの。新田くんのおかげで本気で女の子を目指せるわ。」
「あぁ。佐々木くん、好きな奴でもいるのか?俺は応援してるよ。」
「うん。あたし全力でぶつかっていくわ。あたしは…彼の為に、きちんと女の子になるわ。応援してて?」
佐々木のセリフを聞いたユウの頭の中でゴリゴリとすりこ木を擦る音が響く。
そして過去のシーンが霧がかったユウの頭の中で再生された。
『…女になれユウ…』
『…さぁ来なよタカちゃん…』
『完全に…ウッ…女だな…お前…フッ…ウッ…』
『友原先輩がそうしてほしいなら女になりますよ?なりきりますよ?なんでも…なんでもします…。』
「カッ…はぁ…ハァハァ…ぐうっ…」
すりこ木を擦る音がユウの頭の中を埋め尽くそうとしている。
ユウはその苦痛に耐え切れずに息を荒くして、片膝をついてしまった。
「や、どうしたの?新田くん。」
「だ、大丈夫。ごめん、びっくりさせて。なぁ佐々木くん、また話そうや。また佐々木くんと話がしてぇ。」
心配して近付こうとする佐々木を制止しながらユウはゆっくりと立ち上がった。
「うん!もちろん!」
「約束だ。佐々木くん何組?」
「あたしC組よ?」
「うん、わかった。俺はAだ。じゃあまたね。」
ユウが片手を上げると、佐々木は嬉しそうに両手を胸の前で勢いよく振った。
その仕草、行動はもはや普通の女子だ。
部室を出たユウは顔をしかめた。
その表情は怒りではない。
「わかってねぇんだ。佐々木は…。責任…これが責任…か…。」
ユウが読めない感情を顔に刻んでいる間にも真理と百合子が話をする、その運命の時は刻一刻と近づいていた。