風雷の門と氷炎の扉19
「ヒョウエ!!」
「お、おい!ヒョウエ!!」
ウリュとフウマは突然黙って、白目を剥き天を仰ぐヒョウエに声をかけた。
「ぐ…」
遂にヒョウエが自分自身に施した邪文が発動したのだ。
「は、は…な…離れ…離れろ…離れろるろらるるるるるるれれれれ!!」
ヒョウエは天を仰いだままガクガクと震え始め、白目からどす黒い血を流し始めた。
「ぐあああああああああ!!」
ヒョウエは口の両端が裂ける程の大口を開き、絶叫すると身体が真っ赤に変色して、膨張し始めた。
「じ、邪文…か…。ウリュ!離れろ!行くぞ!門に行くんだ!」
フウマはウリュの右肩を掴み、慌てた口調でまくし立てた。
「こ、こんな別れ方…そんな…ヒョウエ…」
ウリュが物心がつく頃にはもうヒョウエはウリュに仕えていた。
その関係はもはやただの主と従者ではなかった。
「ハヤク…ハヤクツレテイク…イクンダハヤク…イクンダ…」
ヒョウエの裂けかけた口からうわ言のようにその意志が吐き出される。
ウリュはその言葉を聞くと、膨張していくヒョウエの手に自らの手を添えた。
そして涙を流しながら、その手に唇をそっと触れさせた。
時が止まる。
ウリュの時が止まる。
『この手…ヒョウエの…この手…』
ウリュが幼い頃、自分が泣くたびにこの手が自分の頭を包んだ。
そして嬉しい事があった日も、この手がふわりと自分の頭を包んだ。
フウマとの修行でボロボロになったウリュの手も、悔しい思いをして血が滲むほど拳を握りしめた手も、全てこのヒョウエの手が包んできた。
ウリュの喜怒哀楽全てのシーンにヒョウエがいた。
小さいけれど、優しく、親以上に絶対的な味方である。
唇をつけたその手からヒョウエの思いがウリュの身体に流れ込んでくる。
『ヒョウエ…私…私行くね。それがあなたの思いなのだから…ヒョウエ…』
「ウリュ!!行くぞ!!」
フウマの声で現実に戻ったウリュは、溜まった涙を人差し指で拭った。
「行きましょう!フウマ様!」
「よし!ふっ切れたようだな!ウリュよ!さぁ!チゼを越えて行くぞ!」
「はい!!」
ウリュの目に迷いは無かった。
村をサンから守る最終防衛線であるチゼはすぐそこだ。
「ぐああああぉ!!」
叫び声を上げるヒョウエは、身の丈は10m程度まで伸び、筋骨隆々な体つきになり、頭髪は抜け落ち、顔は鬼のような憤怒の表情、白目を剥き、歯もあるようには見えない。
全身は真っ赤に変色している。
ヒョウエの面影はほぼ無い。
「ふうーっ!!ふうーっ!!」
ヒョウエは門の方向へ視線をやると、ゆっくりとした足取りで門へと向かい始めた。
ウリュとフウマはチゼの手前でお互い顔を見合わせるとコクリと同じタイミングで頷いた。
ドン…ドン…ドン…
ヒョウエの巨体は遂にチゼの溝を越えた。
ウリュとフウマはヒョウエの後方数mから身を潜めて前進する。
ドン…ドン…ドン…
ヒョウエの歩みに反応するかのようにサンがぶちゅぶちゅと嫌な音を立てて、その白い影を実体化させていく。
「うぁあああ!オオォォォ!」
ヒョウエはそれに気が付いたように巨拳を地面へと振り下ろし、実体化寸前のサンを蹴散らした。
しかし、サンはヒョウエから遠く離れた場所でも湧いて出てくる。
実体化したサンから順番に、カクカクと気味が悪い動きで自分達に害を加えるヒョウエに襲いかかって行く。
「ヒョウ…!ムグッ!!」
サンの大群がヒョウエの足に張り付き、白煙を上げている様を見てウリュが叫び声を上げそうになったが、フウマがその口を手の平で塞いだ。
「ヒョウエは私達の為に戦っているんだ…無駄にするな…情けない話だが…今の私達はヒョウエの命にかけるしかないのだ…分かったらゆっくり…静かにこの位置を保って…ヒョウエについていくんだ…。」
フウマは小さな声でウリュを諭した。
「ヒ…ヒョウエが…」
ウリュは口を塞がれたまま涙を流し、その名前を口にした。
「さぁ…行くぞ…歩くんだ…静かに…静かにだ…」
「オオォォォあああ!!」
ウリュとフウマを察知したサン達は2人に襲いかかろうと身体の方向を変えたが、ヒョウエの叫び声にすぐ反応し、ヒョウエに飛びかかって行った。
「ヒョウエ…!」
ウリュを何とか諭したフウマであるが、その様子を見て、涙を堪える事が出来なくなってしまった。
フウマは自分の口に手の平を当てて、声を殺した。
その手の平に自分の涙がこぼれ落ちていく。
ヒョウエは湧いてくるサンを全て自分に引き付けようと叫び、暴れ回っている。
更にウリュとフウマの歩くスピードに合わせているようにも見える。
暴れながらもしっかりと2人を見ているように歩調が合っているのだ。
『私は…邪文を施した苦痛は味わった事が無い…だが…自分の限界を越えた体格と力を手に入れるのだ…並の苦しみではなかろう…そ、そんな中…お前という奴は…ヒョウエ!』
フウマの視界が涙で霞む。
「ぐあああああああ!!おァァァ!!」
ヒョウエの右足が遂に溶かし尽くされた。
バランスを崩したヒョウエは片膝と両手を地に付けた。
右足を溶かし尽くしたサンは更にヒョウエの身体を溶かそうとヒョウエの身体を這い上がってくる。
・・・
『くそぅ…足をやられたか…駄目か…?も、もう少しなのに…』
ヒョウエの意識は意外と冷静だった。
『ヴィレントは…もう発動したのか…?このままじゃ…も、保たない…。さっきの痛みはヒガンテだけだと思うんだが…勘弁してよ…ヴィレントは発動していないと思うんだが…それとももう発動したのか?大した邪文じゃない…?そんな馬鹿な…それとも発動しないままヒガンテの限界で爆発…?そ…そんな…。』
ヒョウエは地に付けた右腕を振り回し、サンを蹴散らし、そのまま張り付いたサンを握り潰しながら放り投げていく。
『くそぅ!!まだ…!まだ戦えるぞ!ウリュ様は…?』
ヒョウエはチラリと視線を後方に移すと、フウマに連れられて、身を潜めながら歩いているウリュが見て取れた。
サンはウリュ達には気が付いていないようだ。
『フッ…フッフッフッ…師弟の絆か…。ぐっお…くぁ…あぁ!!』
ドクンドクン…
再びヒョウエの心臓に激痛が走った。
しかし、ヒョウエはその激痛に安心感を覚えた。
『ハハハハ!ヴィレントだ…ハハ…やっぱり…ぐぁあ!!クッ…発動してなかったか!ハハハ!!ようし…ようし…グッ…オ…し、死ぬ前に…も、もうひと暴れだ!!ぐぁあああ!』
「おァァァァァァァァ!!!!」
ヒョウエが大きく叫ぶと、赤い身体が更に赤くなり、身体の周りでバリバリと稲光がほとばしった。
『怒…怒…怒…怒…怒…怒…殺せ…殺せ…殺せ…殺せ…殺せ…殺せ…殺せ!!』
ヒョウエの頭の中でヒョウエ自身の声が響き渡る。
ヒョウエは自分の声で繰り返される言葉に、心を染めていく。
『殺せ!!全て殺せ!!全てを破壊しろ!』
「おァァァ!うがぁあああああ!!」
ヒョウエの両目の眼球がブリブリと音を立てて飛び出す。
そして口からはどす黒い血を吐き出した。
その瞬間からヒョウエの身体が足からゆっくりと真っ黒に染まっていく。
邪文、ヴィレントが発動した。
ヒョウエは絶命するその時までひたすら暴れ狂う巨大な狂戦士となるのだ。
「ヒョウエ…」
ウリュは小さく呟いた。
そしてヒョウエは正気を保つ最後の瞬間にその思いを小さく呟いた。
『ウリュ様…』
もう戻れない。
だから伝えてはならないその思いをヒョウエは伝わらない声で、伝わらないように呟いた。
『お慕い申しておりました…ウリュ様…ウリュ様…貴女を…貴女を…お慕い申して…おりました…』