down the river 第三章 第一部〜不浄⑧〜
公園のトイレ裏から紫煙が上がっている。
「なんだって今日…まぁ今日はたまたま仕事が早上がりだったし、時間もあったからいいけどさ。でもよぉ、せっかくやるならゆっくり時間かけてやりてえよ。こんなお前…汚い便所でションベンするみたいにさっさと済ますなんて味気無えだろうが。」
敬人はユウに文句を言い終えると眉間にしわを寄せて煙草を吸い込んだ。
「タハハ…まぁそう言わずに…。俺は満足だよ。どんな形でもタカちゃんの身体の一部を俺の身体の中に入れてその体温を中で感じる事ができたんだからさ。体温…タカちゃんの体温がなんか凄い恋しくてさ…。フフッ…しかしさ、ションベンみたいにさっさと済ますって…ハハハ…その表現止めろよなぁ、ハハハハ!」
ユウも眉間にしわを寄せて煙草を吸い込む。
2人は公園のトイレ内で愛し合った。
人気の少ない場所ではあるが、声を出したりする事は出来ないのはもちろん、長居をするわけにもいかない。
敬人の下品な表現は決して間違いではないのだ。
「俺はこれから学校なんだぞ?全く…疲れさせやがってよ…ハハハ…ったくもう…いくら再来週会えなくなったからって無茶さすなよなぁ。」
「そっか、これからか…。学校楽しい?俺はつまんないや。」
ユウは物憂げな目に悲しみを宿し、そのまま視線を下に向けた。
「定時制に楽しいもクソもあるかよ。ただ高卒の資格を取る為だけに行ってるんだし。それになユウ、贅沢を言っちゃいけねえな。お前は普通なんだ。普通。わかるか?普通なんだよ。俺が味わう事が出来ない普通をお前は味わえるんだぞ?」
「普通…か。俺が普通なのか?タカちゃん。」
「学校に関して言えばってこと。」
「あぁそういうこと。」
「さて、そろそろ行かねえと。」
敬人は気だるそうに立ち上がり煙草を消した。
それを見たユウも煙草を消すとゆっくりと立ち上がった。
「じゃあね、タカちゃん。再来週会えなくなっちゃったけど…今日会えてよかった。」
「あぁ、今度はゆっくり会おうな。そん時はフラフラになるまで犯してやる。」
「楽しみにしてるよ。じゃタカちゃん…キスして。」
「またな、ユウ。」
敬人はユウの右手を掴むと勢いよく引き寄せ、唇を吸った。
そしてお互いのヤニ臭い唾液をたっぷりと飲み干すとゆっくりと口を放した。
お互いの口を支点に作り上げた唾液のブリッジが曲がってきた車のヘッドライトに照らされ、夜景に浮かぶ橋の様に輝いている。
「タカちゃん、大好きだよ。」
敬人の額に自分の額を付けたままユウは愛を囁いた。
「うん、俺もだ。またな。」
敬人は優しく微笑み額を離すと、ユウが行く方向とは反対側へと歩き始めた。
ユウは直腸から溢れてきた敬人の体液に、緩やかで、穏やかな不快感を抱きながら家路についた。
・・・
『俺はバカなのか?本当に…。』
翌朝の混雑している電車に揺られながらユウは激しい自己嫌悪に陥っていた。
どこで誰が、どのタイミングで見ているかわからないというのを亮子の件で身に沁みて理解したはずだ。
それなのにまた同じ事をしてしまったのである。
そしてそれに気が付いたのは今朝である。
ユウはあまりに加速する自己嫌悪感に目眩を覚えた。
『酒に酔って記憶を失くすのと変わらねえじゃんかよ…。タカちゃんとの甘い時間に酔い潰れて大事な事…忘れちゃならない事を簡単に忘れちまう…。絶対に忘れちゃいけない経験なのに性欲が暴走しちまったらもうだめだ。あぁもう何やってんだ…俺は…もうこれ中毒っていうか…うん…もうこれ立派な中毒だろ…。もう最悪。これで誰かに見られてたらまた面倒くさいことになるだろうが…。バカ野郎だわ俺は…。』
高校の最寄り駅から高校へ歩いている間も自己嫌悪は止まらない。
一歩踏み出す度に公共の場で敬人とのセックスに酔い痴れていた自分の醜態がコマ送りの様に頭に浮かんでくるのだ。
『ぐあぁ…もう、俺だけじゃない。タカちゃんにまで迷惑がかかっちまう…。それなのにケツ振りながらタカちゃんを誘惑してあんな場所で…。ああぁ!!もう最悪だ!!』
ユウは心の中で絶叫すると、自己嫌悪で涙が溢れそうになってしまった。
「新田!おっはよ!」
バシッとユウの背中に衝撃が走った。
「あ?なんだ?なんだお前はぁ!」
ユウは振り返ると嫌悪感を剥き出しにした表情でその衝撃を与えた主へ向かい、声を荒げた。
ユウはわかっていた。それが誰であるかわかっていたが、今のユウは感情を制御する事は困難な状態だ。
「え…。あ、新田…そ、そんな…」
真理の顔が一気に曇り始める。
悲しみと恐怖に沈んだその顔は今まで見た真理の表情のどれよりも美しく、絶望的なレベルの色気が滲み出ていた。
「あ、その…すいません…本当にあの…すいません…。」
ユウは真理の表情に見惚れていたもののすぐに自分の取った行動が非常識であったかを理解し謝った。
「ご、ごめ…あ、新田…ごめ…」
真理の泣きだしそうな声と表情に周囲の視線が集まる。
「ほ、本当にすいません…ちょ…その…考え事してて…。」
「い、い、いいの…あら、新田…本当に…ごめん!」
真理はそう言い残すとその場から美しい髪を揺らしながら走り去ってしまった。
周囲の視線が真理からユウへと移り始めた。
『まったく…俺…何やってんだよ…。本当にもう…死にてえ…。痛くねえ、苦しくねえ、悲しくねえ…そんな死に方があるなら今真っ先にその方法で死にてえよ、本当に…。』
ユウは周囲の視線に睨み返しながら、足速にその場を去った。
・・・
昼休み、ユウはいつも通り机に突っ伏していた。
朝から色々面倒事があったのでユウは眠りの世界に速やかに落ちていった。
そして夢を見た。
『あぁ、みんな…居たのかよ。栗栖さん…久しぶり…ごめんな…酷い事して。おぉ、哲哉…お前も来てたのか…この夏祭りの為に戻って来たのか…お前を受け入れるっていう選択肢もあったのかな…今考えるとな…何かすまなかった…。神…神美沙…お前を壊しちまった…なんて謝っていいもんか…お前を壊す必要なんか無かったんじゃないかな…。ごめん…ごめんな…。』
高校を卒業するという時間設定の夢だ。
卒業を機にあの神社の夏祭りで集合するというシチュエーションらしい。
『ヒ、ヒデ…。お前…なぁ…謝りてえ。謝らせてくれよ…。まだ謝ってねえよな。お?来たぞ来たぞ。みんな聞いてくれ。俺とこのタカちゃん、中学校卒業してからずっと正式に付き合ってたんだ。さぁタカちゃん、みんなに見せつけようぜ?さぁキスをしよう。』
敬人と濃厚な口づけをしていたユウは突如背中に走る悪寒に身を震わせた。
口づけをしている敬人の顔の後ろ数メートルの所に緑色の人影が見える。
チキチキ…
カッターの刃を出す音に反応する様にユウの震えは大きくなっていく。
『りょ、亮子…。』
ユウが敬人と口づけをしたまま亮子の名前を呟くとその緑色の人影はドンという音と共に敬人と入れ替わりユウの目の前に現れた。
その顔は間違いなくあの亮子だった。
そしてその緑色の肌は棺桶の中に居たあの亮子のものだった。
『見たぞ…見たぞ…ユウ…』
「ハッ!!」
ユウは亮子の呟きで目が覚めて顔を勢い良く上げた。
「ふぅ…ふぅ…な、なんて夢だよ。見たぞ…って、あぁ…気にしすぎかな…はぁ…。ふぅ…何か…謝ってばかりの夢だったな…。謝る、謝りたい、そればっかりだ…つまり、その後悔しかないってことだ、俺の選んできた道は…。後悔か…。」
ユウは独り言を小さな声で呟くと椅子から立ち上がり手洗い場へと向かった。
手洗い場に着いたユウは蛇口をひねり水を勢い良く出すと両手で顔を洗った。
塩素臭く、冷たい水がユウの顔を叩く。
数回顔を洗い流すとユウはびしょ濡れの手でポケットからハンカチを取り出し顔を拭いた。
「んああああ…。」
ユウは高校生らしからぬ中年の様な声を出して顔を拭き終えると自分に近付いてくる人間に気が付いた。
「瀧本さん、こんにちはっス。どうしたんです?1年の階に来るって。何かありました?」
「おぉ、ちょっと時間ある?話しがしたいんだけど。」
「はぁ…俺とですか?まぁ全然暇ですけど…。」
瀧本はゆっくりとユウに近付きユウの右肩に手を置いた。
「新田優よ。お前Blue bowに入らない?」
「え?僕がですか?」
「そうベーシストとバッキングボーカルで。どう?」
「どう?って言われても…ですね…。」
ユウは後頭部を掻きむしった。
『何なんだよ今日は…色々あり過ぎて頭がついて来ねえよ…。』
「迫島となんか揉めてんの?」
「…!」
ユウは目を見開いて瀧本を見つめた。
「やっぱそうか。こないだそんな反応してたじゃん?」
「はぁ…揉めてるっていうか…。」
「うちのベーシストが抜ける。夢を目指して進学するんだと。1人抜けて解散ってわけにはいかないんだよ、Blue bowは。中々規模が大っきくなっちゃったからね。デモテープも結構売れてるし。」
「そのベーシストの方は後悔してないんですかね…。」
「ん?」
「瀧本さんが僕をバンドに入れるという選択は後悔しないですか?ヒデ…迫島は後悔しないですかね…?俺と別れる事を…。そしてBlue bowの瀧本さん以外のメンバーは後悔しないですか?後悔するだけでも辛いのに、後悔を人に与える事までしてしまったら、俺…もう…人じゃなくなってしまいそうで…。」
ユウは急に悲しくなり、涙が溢れそうになってしまい、涙を隠す様に下を向いた。
「新田…。」
瀧本は涙声になったユウを心配して肩を軽く叩いた。
そして瀧本はその整った顔を縦にゆっくり振り、ユウに話を続けろという意思を無言で伝えた。
「謝りたくないんですよ、もう…。謝られたくもないんですよ、後悔もしたくないんですよ…もう…。瀧本さんの誘いは嬉…」
「新田、お前は人間だよ。後悔しない奴は虫と一緒だ。」
「え、え?」
ユウは瀧本の反応に顔を上げた。
そしてその反動で溢れた右目の涙がユウの頬を伝う。
その涙を見ると瀧本は続けた。
「新田、虫と一緒と俺は言ったけど虫でも後悔してると思うぜ?」
「虫でも…ですか?」
「そう。謝る事までしないけどさ、ハハハ。虫とか色んな生物が今の形になるまで後悔しまくってたと思うんだよ。なんであの時にあの餌を食わなかったんだろう、食えなかったんだろう、食えてたらまだまだ生きれたのに、あの時なんで人間に近付いたんだろう、近づかなかったら踏み潰されなかったのに、なんであの毒に耐性が無かったんだろう、耐性さえ有れば俺達は絶滅寸前まで追い込まれなかったのに、視野が広ければ、後ろさえもう少し見えてれば…食われる前に逃げられたのに、もう少し…あと少し…なんで…そんな後悔と悔しさを持って死んでいった先祖が遺伝子レベルでの警告を身体と本能に組み込み、小さな進化を積み上げて今この地上にいる生物の形になったんだと俺は思う。」
瀧本は理解しやすく、優しく、そして聞き取りやすいトーンでユウに説明をした。
ボーカリストという表現者ならではの職人芸と言っても過言ではないその話し方にユウは涙を隠す事も拭う事も忘れて聞き入った。
「新田、謝罪は後悔を生むんだ。そして後悔は成長と進化を生む。お前の後悔がお前自身を成長させなくても、それを表現する事で必ず誰かを成長させて、進化させる。」
ユウの目から大粒の涙が流れ始めた。
「俺は断言出来る。謝罪の気持ちは、さらけ出して、表に出す事で綺麗に、美しく光り輝く。そして…」
瀧本の次の言葉でユウの何かがプツンと軽快な音を立てて弾け飛んだ。
「心からの謝罪より生まれ出た後悔は必ず誰かを救う。」