「世間」と「社会」と「日本語」

今日は、テーマにしている「自由」とは、ちょっとちがう、まぁ、遠くはないですが、そんなお話です。

かつての私もそうでしたが、演劇を志すものにとって、「鴻上尚史」の名前は、非常に大きなものです。また、一流のエッセイストでもあり、作家でもある。脚本も含めて文筆家としても素晴らしい方です。私も多くの言葉に示唆を受けています。

最近、これは、と思ったのが、「世間」と「社会」です。

この二つ、何が違うのかというと、鴻上さんによれば「世間」は、顔見知り、つまり、共通認識の多い集団。一方「社会」とは、赤の他人、つまり、共通認識の少ない集団だという事です。私はそう捉えています。

そして、鴻上さんは、この「世間」による「同調圧力」と、高校生の頃から戦ってこられました。だから、去年から今年に掛けてのコロナ禍で、その「世間」による有形無形の圧力があらわになったことを、非常に危惧されているのではないでしょうか。いや、むしろ、あらわになったことで、多くの皆さんに考えてもらいたい、としているのかも知れません。

さて、この「世間」が、日本でこれだけ強力に維持される理由を、私は日本という特殊な国土とその歴史にヒントがあると考えています。

まず、日本は大陸とは離れた島国で、日本海を人の力で泳いでも渡りきることはまず不可能です(これが、同じ島国でも、イギリスと違うところだと思います)。そして、地震や洪水などの災害が多いこと、そうした自然の摂理で、急峻な谷や険しい山などが多く、人が住める土地が少なかったこと。今でこそ、重機などの発達で、土地を削り、用水路を引いたりして、人が住める場所や田畑をふやしたり、交通網の発達で集落同士の行き来が簡単にできるようになりましたが、それでも、昔から災害が多く発生した場所にはそれを示す名前がつけられていて、実際、今でもそうした場所で災害による死者が出ていることは、報道などでご存じのことでしょう。

そうした場所で暮らして行く場合、どうしても共同体の単位は小さくなります。谷あいの村や、小さな島、山に挟まれた陸の孤島など、今ではその不便さから廃村になっているところも少なくありません。また、戦で敗れた人たちが隠れるように住んでいた場所では、敵に見つからないよう、あえて外部との接触を断っていたところもありました。

そのような危うい場所で共同体を維持して行くには、共同体としての共通認識が必要です。例えば、山の奥に入っていって、見知らぬ細菌やウイルスによって、未知の病気にかかるような事例があったとすれば、その山に入ってはいけないと言うルールが必要になります。そうしたルールを設けなければ、共同体そのものが崩壊する可能性があるからです。で、それは今のように科学的に説明できるものではないので、こういうことが起こったからあの山には入ってはいけないというとりあえずのルールが出来ます。それがやがて尾ひれが付いて、或いはわかりやすくするためにわざとかも知れませんが、物語となっていく。これが、現代に伝わる民話として残っている、と、これは私の解釈です。

このように「共通認識」を抱えた「世間」の形成は、集落にとって死活問題だったわけです。そういうもんだ、と、体にしみこませておかなければ、何か起こったときに対応が遅くなるからです。

翻って、現代では、文明が発達して、集落の間の行き来も道路や鉄道のおかげでしやすくなり、大規模な土地の開発で、集落は、県や市、町という、人口比でも面積でも比べものにならないほど大きなものになりました。また、他の土地への避難や病気の治療が容易になるなど、安全性は確保されるようになりました。そうなると、「教訓」であり生活の「知恵」であった「物語」は、当初の役目を終えて、単なる「伝説」「迷信」となりました。それでも、「集落」の名残であった「世間」は、消えることなく現代に脈々と受け継がれました。これは、後で述べますが、「日本語」という特殊な言語が影響していると、私は考えます。しかし、ここに来て、その「世間」の弊害が目立つようになってきました。

一つは、海外を含めて、人の交流が圧倒的に増えたことです。海外の方は、そんな日本の「世間」が持つルール、「暗黙の了解」などわかりません。言葉も異なるわけですから、日本の「世間」は通用しません。そうした人たちが「世間」になじめない場合は、いつまでもお客さんでいてもらうか、排除する以外に方法がありませんでした。それが今でも尾を引いていると、私は考えます。ひょっとしたら、ペリー来航と日本の開国がもたらした最も大きなものは「社会」の概念だったのかも知れません。

もう一つは、日本語という、世界でも珍しい言語体系です。ご存じの通り、日本語は主語を省略できます。その代わり、助詞で言葉をつないで、言葉の関係性を表せるようになっているので、意味は通じます。こうした言語体系は、韓国語もそうですし、モンゴル語も似ていると聞いたことがあります。しかし、この、主語を省略する、ということが、話し手の主体がどこにあるのかをぼやかしてしまう、と私は考えます。実際、そのように主張されている言語学者の方もいらっしゃるようです。これは、文の冒頭にほぼ主語がくるという、圧倒的に多い他の言語では、考えられない事でしょう。

なぜ、主語が省略できるのか。先程述べたように、日本語は助詞で言葉をつなぎ、重要なところは文章の並びでわかるようになっているので、知らない単語がない限り、文法上の意味が通らないと言うことはありません。そして、話し手の主体がどこにあるのかは、「日本語を扱う日本人」という「世間」に所属していれば、暗黙の了解でわかるようになっています。

つまり、乱暴なことを言えば、主語が省略できるような話は、自分が所属している「世間」の中の「自分」が話していることだからです。だから、ある人が話している「この話」は、その人が所属している「世間」を主体とした「話」だから、特に、同じ「世間」に所属している人には、主語がなくても話の主体がわかってしまうのです。

皆さんも、普段の会話を思い浮かべて見てください。これは自分だけの意見だ、体験だ、と言う場合は、「私」「オレ」「自分」という主語をつけるはずです。ところが、SNSやニュースサイトの掲示板などを見ると、主語が省略されている書き込みが目立ちます。これは、自分の意見を話しているつもりが、無意識のうちに、自分自身をある「世間」の側においての発言にしてしまっているからではないかと私は考えます。そうしてそれは、個人よりも遙かに大きい集団である「世間」をバックにおいてしまうが為に、しばしば強固で、違う「世間」とぶつかってもまず壊れません。そうして、より大きい「世間」に、より多くの人がおもねると、それが日本では「世論」という「物語」になり、その「世間」に「同調」することを強要します。なぜなら「世間」は、集団を維持するために必要なものであり、「物語」はその集団における「正義」だからです。

「世間」のルールに無意識に従ってしまうのは、かつての集落の名残なのです。

そして、この「世間のルール=正義」の恐ろしいところは、誰もその正しさについて、科学的に検証したり、疑うことをせずに、多くの人が習慣的に同調してしまうところです。なぜなら「物語」と違うことをすれば、集団を維持できなくなると思ってしまうからです。

もっと怖いのは、この「巨大化する世間」を、民主主義のシステムと同じだと考えてしまうことです。

昔、小学校で、私は民主主義のシステムの根幹は、多数決だ、と教わりました。なので、クラスでも何でも、物事を決めるには、多数決で決めていました。これは、手続きとしては確かに間違いではないでしょう。けれど、事はそう単純ではありません。

昔、イタリアのベネチアが独立国だった頃。国家元首は投票という民主的な方法で選ばれていたそうです。とはいえ、くじ引きの要素もあったので、完全に民主的かと言えばそうではありませんが。ただ、その方法が、指名された人が、選挙人を選び、その選挙人がまた候補を選び・・・ と言ったことを何度も繰り返すというもので、大変な時間がかかったはずです。これは、世襲制による権力の腐敗を防ぐ目的があったとされていて、だから、誰が元首にふさわしいかを徹底的にふるいに掛けるのに必要だったのでしょう。そうなると、選ぶ方だって真剣です。時間がかかると言うことは、それだけ時間を掛けられると言うことでもあるわけですから、どういう人を選んだらいいのかについて、相当学び、考えたはずです。

つまり、民主主義における多数決は最後の手続きであって、そこに至るまでに、自分にとっての正解を見つけるべく、投票する人は、調べ、学び、考えなくてはいけないと言うことです。民主主義をまともにやろうとすると、とても時間がかかるのです。

ところが日本の「世間」では、この「調べ、学び、考え」という、最も大事な部分を「世間」の「共通認識」あるいは「同調圧力」が担ってしまい、その結果、手続き上の多数決のみで物事が決まってしまいます。もう、スカスカの民主主義です。

私のつたない経験で言えば、こうした多数決に至るまでの話し合いに、「私はこう思う」というように、明確に「私」という主語を発したと言う記憶はありません。〇〇くんがいい、誰々さんはダメだ、と言う時、その「いい」「悪い」を判断している主体がはっきりとしないまま、そして、はっきりとしていないことを疑問に思わないまま、話し合いが進んでいったように思います。1対1の意見交換はありません、単位は小さくとも「世間」と「世間」の闘いなのです。こんな風に、子どもの頃から、様々な「世間」の中で育ってきてしまうと、「世間」そのもののあり方に疑問すら持たない。そこへ、帰国子女のような、「社会」がやってくると、途端に戸惑い、明らかに日本人とは違う容姿をしていれば「お客さん」、日本人或いはそれに近い東アジア人の容姿をしていると、「世間の顔をしているくせに」となり、最悪の場合、排除、つまり「いじめ」に繋がってしまうのです。

コロナ禍で顕著に表れた「同調圧力」。それは、大きな「世間」による、小さな「世間」もしくは「個人」への、無自覚で暴力的な粛正とも言えるでしょう。それは、話し手の主体をはっきりさせるところから始めないと、何も変わらないのかも知れません。「世間」が求める「会話」ではなく、「社会」が求める「対話」。「世間」の中で数千年の間使われてきた「日本語」という言語体系の中で、今まさに、それを獲得する必要に迫られている。私は、このコロナ禍で、その葛藤があらわになった、と思っています。皆さんはどうお考えでしょうか。


(文章は今後も、校正が入ります)

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