note一周年 「私」のままで生きるということ
今日は夏至。
昨年の夏至の日にnoteを書きはじめているので、ちょうど一年が経ったことになる。
勇気を出して自己開示の一歩を踏み出したあの時から一年、私は何がどう変わっているだろう。
せっかくなので、このタイミングで少し振り返ってみることにした。
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自己開示の怖れがなくなってきた
最初の投稿は、こんなタイトルだった。
この時は、「読まれなくていい」とエクスキューズをつけないと、何も書けないような気がしていた。この時も書いているが、私の頭には物心ついた時から「マーケットイン」(社会に受け入れられることを優先して立ち振る舞う)の思想が染み付いてしまっていたから。この思想が今まで私をいかに強く縛りつけていたかということにも、一年かけて気づかされてきたように思う。
「誰かの役に立つため」ではなく、「良い評価をされるため」でもなく、「読まれなくていい」と決めて、自分の内側にある想いと向き合って、開示していく「練習」。
ぎこちないながらも一年続けてみてわかったのは、自己開示に対する恐れは、ほぼなくなったということた。
特に、私がこれまでnoteで書いてきたことというのは「スピリチュアルな部分の開示」がメインだったのだが、実際は自分でも拍子抜けするほど、なんてことはなかった。
個人的な体験を書いているだけで、誰かに考えを押し付けているわけでもない。私は私なんだし、離れていく人がいたらそれはそれ。記事を書いていくにつれ、どんどん良い意味でどうでもよくなっていった。シンプルに割り切れるようになった。
表現についての新鮮な発見
noteを読んだ友人が「あなたが書いていることを私は理解しきれてはいないが、あなたの本心を書いてくれていることが嬉しい」(意訳)と言ってくれたことは印象に残っている。
「勇気をもらった」「共感した」「スッキリした」というメッセージをいただくこともあった。それぞれに「具体的にどんなところが?」とは尋ねていないけれど、私の文章のどこかしらがその方の琴線に引っ掛かって、それがきっかけとなって前向きな気づきがもたらされていることもあるらしかった。
こういうやり取りが生まれること自体が、私にとって嬉しいことだった。今までよりも深いところでつながれたような気がして、心が温かくなった。
誰かに何かを伝える意図はなくても、時に人の心に何か響くものが与えられることがある、というのはちょっと新鮮な発見だった。大学で習ったマーケティング手法とも、マスコミ時代の企画書の書き方とも全く違う。
他者とつながる手段として、私にとって自然なスタイルなのもしれない。試しにやってみたからこそ得られた気づきだった。
OSのアップデートが起きていた
ちなみに、ここにきてnoteの投稿についてはご無沙汰モードになってしまっていた。前回の投稿から、二ヶ月以上空いている。
その理由は、ちょうどこの二ヶ月、自分の内面にやや大きめの変化が起きていたから。パソコンにたとえたら「OSのアップデート」という感じだ。「マイナーアップデート」と言えるものは以前からちょこちょこ起きていたのだが、今回のものはおそらく「メジャーアップデート」だったように思う。
OSのアップデートは物事の捉え方自体が変わるし、それに対しての処理方法が変わってくる。前バージョンにしか対応していないソフトがバグを起こすこともあって、バグが起きた箇所と理由も突き止めていく必要がある。そのバグによって起きる不調(心身の)の対応もしなくてはならない。
スケジュールが多忙というわけではないし、現実的に大きなトラブルが起きたわけではない。表面上は平和な日々だったと思う。でも、自分の心の中に、あるいは体に、静かに、ダイナミックな変化が起きていて、自分自身が戸惑っていた感じだった。
表現にはタイミングがある
そんな過程をnoteに綴ることもできたのかもしれない。ただ、私にとってそれはあまりしっくりこないような気がした。
表現にもその人に適したスピードやタイミングがあるとしたら、私の場合は「いったん熟成させる」みたいな工程がどうしても必要なのかもしれない。その時々の思考の断片を書き記していくタイプの方もいると思うけど、私はどうも違うらしい。
(そもそもこのnoteに書いてきた記事のほとんどは、過去の出来事の振り返りであり、もうそこそこ熟成済みのものだった)
この感情はなぜ湧いてきたのか。この出来事にどんな意味があるのか。ある程度は自分自身で納得してから、その都度、私なりの答え(暫定でも)としてまとめられるものを、文章として残しておきたいのだ。
そもそもこれはあくまでも私が私と向き合うためのnoteなのだから、ノルマではない。「note書かなきゃ」となることだけは避けたい。
自分の直感に従って、「そろそろこのことを書いておきたいな」となったときが表現しどきなのだと思う。
自分を愛するということ
今回の「メジャーアップデート」についても書き記したいと思ってはいるものの、それがいつになるのか、どんな形になるのかは見当がつかない。一言で表すなら「自分を愛することと魂の仕組み」についての気づきだと思うが、テーマが大きすぎて、かつ漠然としすぎている。
とはいえ、今日「note一周年」で振り返ったときに確かに言えることは、この一年間、私が心がけてきた「私は私」という表現のスタンス自体が、間違いなく自分を愛することにつながっていたということだと思う。
そのことは私に、軽さと、強さと、優しさをもたらしてくれている。
これは一年前の私と比べたら、という話であって、まだここから変わっていくと思うし、それが楽しみでもある。どこまで「私」のままで生きられるか、というチャレンジをしているところ。
そんなわけで、いまの思いは抽象的でいろいろまだまとまっていないのだが…
夏至の今日、私の胸にあるのはじんわりとした「感謝」の気持ちだったので、そのことだけは記しておこうと思った次第だ。
何に対しての、誰に対しての感謝なのかというと、それこそ「全て」という気がするのだが、あえて今日ここに書くとしたら。
まず、毎日パワーを届けてくれている太陽、ありがとう。
一年前、note書きはじめてくれた私、一年間あきらめずにややこしい私と向き合ってくれた私にも、ありがとう。
そして、まとまりのないこのnote、ここまで読んでくださったあなたも、どうもありがとうございました!
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