【第2回 アンダーソン】ファッション・絵画や歴史と繋がるクラシック音楽
第1回のショパンから一気に100年ほど時間を進めて、第2回はルロイ・アンダーソンが活躍していた1950年前後のアメリカに行ってみたいと思います。
アンダーソンという名前でピンとこなくても『そりすべり』『タイプライター』など愉快な曲の数々を聴いたことのある人は多いのではないでしょうか。
その愉快さは語るより見たほうが早いので、まずはこちらをご覧ください。
※8分の動画で中ほどまでお芝居です笑
1954年の作品『サンドペーパー・バレエ』をお送りしました。アンダーソン、もう好きになっちゃいませんか。私は好きになっちゃいましたよ!
戦後のアメリカで最も求められたアメリカ人作曲家
1908年、アメリカのマサチューセッツ州に生まれ、音楽大好き両親の元で様々な楽器や音楽と親しみながら育ち、地元(!)のハーバード大学で言語学と音楽を学んだという多彩な才能を持ったアンダーソン。
なんと9か国以上の言語を話せたそうです! ヨーロッパの言語は体系が近いとはいえ、すごすぎませんか。
言語学の博士号取得を目指していた在学中の1936年頃、校歌をアレンジした『ハーバード・ファンタジー(後に改訂→ハーバード・フェスティバル)』を聴いた指揮者のアーサー・フィードラー(※)に見いだされ、1938年『ジャズ・ピチカート』でボストンポップス(ほぼ地元!)のエキストラとして実質のデビューを飾ります。
(※当時含め50年に渡りボストン・ポップス・オーケストラ(ボストン交響楽団に併設のポップス専門オケ)の音楽監督をしていた人物)
しかし、順調に見えた彼の人生は、第二次世界大戦によって大きく変わってしまうのでした。学業を断念し米軍に入り、言語能力を買われ国防総省で祖国を守るべく尽力します。
それでも作曲は続けることができたのは、彼と、後に彼の音楽を楽しむ人々にとって幸運なことでした。
やがて終戦。アメリカの誰もが歓喜したこの瞬間、戦争で止まっていたアメリカの時が動き出すと同時に彼の『時計』も動き出します。
この1945年頃に作曲された『シンコペイテッド・クロック』が1950年にレコードとして発売され大ヒット。冒頭で挙げた『そりすべり』や『タイプライター』もこの頃です。
戦後の活気と幸せで楽しいムードにぴったりだったのでしょう。いいえ、きっとそれだけではありません。勝ってどんなにハッピーでも、友人や家族を亡くしている人はアメリカにだって大勢いました。戦場で負った傷の痛みや、殺めてしまった敵国兵の姿が忘れられずに毎晩悪夢にうなされる帰還兵もいたでしょう。アンダーソンの音楽は、ただ底抜けに楽しいだけでなく、フッと憂いを見せることがあります。『生き残った我々にもいろいろあるよね、だけど僕たちは生きているじゃないか。さあ、数分間でいい。僕の音楽で笑おうよ』そんな声が聴こえてくるような気がします。
同じ頃、戦争で負けてしまった日本でも、明るい歌が大流行していました。
独りでは水底に沈んでしまいそうな気持ちの人々が、こういった音楽によって立ち上がるチカラを得て復興を遂げていったのだと思います。
当時13歳だった美空ひばりの『東京キッド(1950)』と、2年後の『お祭りマンボ(1952)』をどうぞ。
10/6追加 ちょうど始まったNHKの新朝ドラ『ブギウギ』のモデルとなった笠置シヅ子の『東京ブギウギ(1947)』もぜひ!
アンダーソンは庶民的な冗談めいたアイデアで次々と名曲を世に送り出し、1953年頃には『アメリカで今イチバン演奏されるアメリカ人作曲家』なんて言われていたそうです。
冗談めいていながら、ジャズのオシャレさやクラシックの上品さを損なわないセンスがさすが。
ラヴェルやガーシュウィンのようなジャズとクラシックの香りが漂う『ブルー・タンゴ』、ワーグナーのファンファーレ(『タンホイザー:大行進曲』)から始まるクラシック音楽のパロディ『クラシカル・ジュークボックス』も必聴です。途中でリストの『ハンガリー狂詩曲第2番』も聴こえますよ。曲の変わり目にはジュークボックスの機械音を模した音や、レコードの針が飛んで同じフレーズを延々繰り返すなんて小ネタも挟んできます。レコードかけたことある人にしか分かんないネタ!
当時のジャンルとしてはポップスだったようですが、フルオーケストラを贅沢に遊び倒すクラシックの異才でもあり、現代の私たちが持つような『クラシックは堅苦しい、難しい』なんて全然気にしなくていいんだ! という気持ちにさせてくれます。
アーサー・フィードラーとボストン・ポップス・オーケストラによって演奏された曲を、1950年代を感じられそうな味わい深いレコードの音で集めてみました。
街で流行のファッション
1950年頃のファッション変化は男女で大きく差が出ていました。1900年初頭には男性は既に今とあまり変わらないスーツ姿を見ることができますが、その頃の女性はまだロング丈のスカートを日常的に使用していました。それが女性の社会進出に伴い、徐々にスカート丈が短くなり、服の素材も男性のものに近くて丈夫で動きやすいものを使うようになったり、パンツスーツも当たり前に着こなすようになっていきました。
銀幕スターやパーティーシーンではまだまだ19世紀の延長のような華やかなロングドレスも見られましたし、一概に丈の短いスカートが主流! とはいえないのですが、時代の変化としては一気に活動的なスタイルになっていった時代といえるでしょう。
アンダーソンが『アメリカで今イチバン演奏されるアメリカ人作曲家』と言われていた1953年といえば、オードリーヘップバーンの『ローマの休日』が公開された頃です。
引用:パラマウント公式(英語)
『ローマの休日』←Amazon Prime会員なら無料です
以下は女性のファッションについてのマイナビウーマンの記事です。
戦後のアメリカと日本は様々な意味で密接な関係でした。当然、良い面と悪い面というものがありましたが、こと流行においてはタイムラグなしで世界の最先端ファッションを知ることができるようになり、当時の若い女性たちは大変に活気づいたようですね。
今回は、アンダーソンの音楽と歴史とファッションとを個別に書くというよりは、全てがシームレスに混ざり合っているそのままを一筆書きのように書いてみました。
戦前戦後の空気を少しでも感じていただけたら嬉しいです。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます!
リクエスト、スキ、感想などなど、たくさんの反応をお待ちしています。
(ヘッダー:Leroy Anderson as conductor of the Harvard University Band in 1929(1929)引用:米PBS)