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松茸と手筒花火と徳川幕府(そして薪ストーブに松を入れると割れる)


・なぜ松茸は江戸幕府に献上されたのか


秋の味覚、松茸は江戸時代は庶民の手に届かないものだった。各藩、領内で採れた松茸はすべて江戸幕府に献上しなければいけなかったからだ。
(この話、裏をとっていないが、YouTubeでホリエモンこと堀江貴文さんが言っていた。ホリエモンは面白い歴史の話をするおじさんだ)

この動画の3:40暗いから松茸について語っている

別に徳川家が松茸が好きだったからではない。
松茸はその名の通り、赤松の周辺、同芯円上に発生するキノコだ。
つまり松茸の量が分かれば、領内にある赤松の量がだいたい分かる。
実際に幕府が把握したかったのは赤松の前年比、変化量だろう。

松明(たいまつ)という言葉がある通り、松という木はよく燃え、しかも高温になる。
これは松の密度が低いことと、松脂(まつやに)を多く含んでいるからだ。
この高温でよく燃える木材は鉄の精錬のため重宝されていた。
50kgの鉄を精錬するためには、燃料として一山分の木材が必要と言われている。
鉄は武器を作るために使われる。
松茸の変化量を把握することで、各藩の軍拡を牽制していた、ということだそうです。

・薪ストーブに針葉樹を入れると割れる。

松というのは本当によく燃えて高温になるようで、薪ストーブに松をはじめとした針葉樹の薪を入れると温度が急激に上がりすぎて鋳物でできた薪ストーブは温度変化に耐えきれずに割れてしまうそうだ。針葉樹は鉄を溶かすほどの高温を作り出すのだから無理もない。
だからその辺によくある針葉樹ではなく、わざわざ値段の高い広葉樹の薪を使わなければならない。しかも薪割りして2年くらい乾燥させたものでないとうまく燃えないそうだ。

このへんの問題を解決した薪ストーブを開発した人のYouTube番組が面白かった。

これは本当におもしろいのでいろんな人に見てほしい。
この薪ストーブ欲しい。青竹も燃やせるようだ。
この薪ストーブ、外側は鉄でできているが、内側は耐火セメントで覆われており、1000℃以上の高温に耐えられる作りになっている。
高温で完全燃焼するため、煤もあまり出ないそうだ。

・手筒花火は江戸時代の軍事演習

さて、各藩の軍拡阻止のために松茸を献上させるような慎重派の徳川幕府だが、譜代の中でも特に幕府に近い藩には軍事演習を許可していた。
しかも超ド派手な軍事パフォーマンスと一緒に。

手筒花火(写真はWikipedia)

愛知県豊橋市に壺屋という駅弁を作っている会社がある。
手筒花火弁当なるものを販売しているのだが、その中に手筒花火の由来が書かれた紙が入っている。

壺屋の手筒花火弁当

吉田藩(現在の豊橋市)は幕府から火薬の取り扱いを許可されていたそうだ。

”手筒花火は奉納する人々の手によって、最初から最後まで作られる得意な花火であり、もっとも原始的で豪快な中に素朴な美しさを持っている。”

手筒花火弁当の手筒花火の由来より抜粋

手筒花火の最大の特徴は最初の竹を切るところから最後の火薬を詰めるところまで、全て奉納する人が自分自身の手によって行うことである。

下記の写真を見てほしい。
これは大型の手筒花火だが、見た目も構造も大砲とほとんど同じだ。
手筒花火の期限は徳川の砲術隊の技術が元になっていると言われている。
こんなものを一から自分たちの手で作るのだ。

大筒花火(豊橋市・吉田神社)

現在も手筒花火は豊橋市周辺では盛んに製造されており、火薬の取り扱いと爆発音に慣れるため、地元の子どもたちは祭りになると山ほど爆竹を鳴らしている。昔は爆竹を鳴らしながら町内を練り歩いていたらしい。うるさい。

・その他

これは大航海時代、スペインやポルトガルが南米大陸を侵略した際、最大の武器は何かというようなことが書かれているようだ。(本は読んだことないけど、DVDは見たことがある。

銃にも鉄にも病原菌への耐性もない南米大陸は欧米に蹂躙され、あっという間に侵略されてしまったが、日本は銃も鉄も病原菌への耐性も十分すぎるほどあった。

大航海時代、つまり日本では戦国時代から江戸時代だが、この時代に世界で一番鉄砲を持っていた国は日本である。しかもダントツで。
鉄の精錬ができたのも十分な燃料(松)があったおかげだろう。木が育つのは水が豊富だからだ。日本は鉄資源が豊富ではない。
病原菌というのは、だいたい人口が多い中国大陸で発生している。地理的に近く、古代より深い交流があった日本には大陸から何度も病原菌が入ってきていた。この辺りの耐性というのはヨーロッパよりも日本のほうが断然強い。
というわけで、ヨーロッパは日本を侵略できなかった。


国友(くにとも)は、近江国坂田郡の地名で、現在の滋賀県長浜市国友町。戦国時代から江戸時代末期まで、根来と並び称される鉄砲の生産地として栄えた。國友とも書く。

Wikipedia

国友周辺で鉄砲づくりをしていた人たちのことを国友衆と言うそうだ。
信長も秀吉も家康もこの地を所領し、鉄砲の生産地として重要視していた。
この辺の技術がもとになって手筒花火ができたのだろう。


・歴史というのは学者の解釈で読み解けるものなのだろうか。
信長でも秀吉でもいわゆる歴史上の人物というのは、英語で言うとクレイジーな人たちなので、そんな人たちの突飛な発想や行動を常識人が解釈できるとはあまり思えない。だからホリエモンが面白い歴史の話をするのだ。

歴史というのは勝者が書き換えたり、後の作家が話を盛ったりしたものがあたかも真実のように語られるが、それは言ってみればフェイクニュースである。しかし盛ったりフェイクのほうが面白いので広まってしまい現在に至る。


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