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双極性障害のわたしが会社員を続ける理由

わたしは29歳の時、社会人入試で看護学校に入学した。
娘が1歳の時に離婚してシングルマザーだったわたしは、ひとりで娘を育てるのであれば金銭的に手に職をつけるのが最善だと思っていた。
当時、看護師さん向けの研修を企画する団体で働いていて、研修内容や看護師さんの話を聞いているうちに稼げる仕事という目的よりも、絶対に看護師という職に就きたいと思うようになった。
さらに、自分が住んでいる自治体に「ひとり親が看護師のような就職に有利な資格(通信教育などではなく、通学する必要があるものに限る)をとるために進学する間の生活費を給付してくれる制度」があったことにも背中を押された。


学校生活は楽しかった。
娘は5歳になったばかりで育児と学業の両立は正直大変ではあったけれど、興味があった病気や看護のことを学べることが楽しくて、勉強はかなり頑張った。成績はほとんどの教科で1位だった。
1年生の冬から本格的に実習が始まり、娘が寝てから深夜2時、3時まで勉強をして睡眠時間が2時間という生活が3ヶ月ほど続いたが全く苦ではなかった。
昼間に眠くなることもなく、予習もばっちりなので病棟で怒られるようなこともなく、実習の評価はその専門学校はじまって以来の高得を叩き出した。
なんの問題もなく1年生を終えるはずだったある日、学校に向かう途中の道で突然めまいと動悸が激しくなって学校にたどり着くことができなかった。


翌日から寝たきりになった。
ここから、内科を受診し異常は何もなし。
精神科を勧められて受診、うつ病の診断。
ちょうど春休みの時期だったため、少し休んで新学期になればまた学校に行けると思っていたのに、もらった抗うつ薬を飲んでも悪化する一方。
いつになっても布団から起き上がることもできず、どうにもならず実家の母に事情を話してしばらくの間、実家にお世話になることになった。


娘の相手すらできないどころか、トイレに行くことすら必死だった。
そんな状態にも関わらず、その時わたしの頭の中を占めていたのは学校に行けなくなることだった。
看護学校は1日でも休めばついていけなくなる。あんなに好きで、得意で、天職になるんだろうと思っていた看護師になれなかったらどうしよう。
動きたい気持ちはあるのに動けない。
どうしよう、どうしよう。
そんな状態を見かねた母が「これは本当にうつ病なのか?」と疑い、別の病院に行くように勧めてくれた。


セカンドオピニオンのつもりで違う精神科に行ってみたところ、診断名がうつ病から双極性障害に変わった。その診断をしてくれたのが今の主治医で、かれこれ14年近いの付き合いになる。
双極性障害の診断を受けて、わたしは悩みに悩んだ末、看護学校を退学することを決めた。


当時のわたしは自分が双極性障害ということを頑なに認めなかった。
主治医には「あなたが寝なくても活動できて、成績も良くて学校でも評価されていたのは躁状態だったからです」と言われた。
躁状態は普通の状態ではないと言われることが、まるで自分が頑張ってきたことが否定されたようだったし、躁状態の自分が通常モードの自分だと思っていたので自分が何なのかわからなくなった。
看護師になることもできなくなり、生きてる意味ある?という気持ちにもなったが、おかしなことを起こさなかったのは娘がいたからである。


双極性障害と診断され、すぐに抗うつ薬はやめることになった。
代わりに気分安定薬が処方されるようになった。
薬もいろいろ試して、少しずつ動けるようになってくると相変わらず病気だと認めないわたしは主治医の猛反対を押し切りバイトを始めた。
そしてバイト5日目に突然耳が聞こえなくなり、すぐにまたうつ状態に戻った。


主治医はわたしの過去の話を聞いて、おそらくかなり昔から双極性障害があったのではないかと言っていた。というのも、看護学校の時と同じ状態を10代の頃、美容専門学校に通っていた時にも起こしていたからである。
美容学生時代も寝る間を惜しんで勉強をしていて、成績はクラストップだったのに卒業間近の1月に拒食症と抑うつ状態で精神科に通っていたのだ。


振り返ってみると、わたしは好きなことをしている時、寝食も忘れて没頭することが多い。これは自閉スペクトラム症の特性もあるかもしれない。
とにかく好きなことに対しては誰よりものめり込むし、結果も出したいと思ってきた。
結果=1位でなくては意味がないとも思っていた。
看護学校と美容学校、どちらも全く同じパターンで体調を崩していることに気づいて、初めて双極性障害であることを受け入れることができた。
というか受け入れざるを得なくなった。
頑張っている時の自分は躁状態で、躁状態は長く続かない。躁状態が強ければ強いほど、うつ状態の沈み方も深い。


その後、紆余曲折しながら良くなったり悪くなったり、一進一退しながらもなんとか働けるところまで持ち直した。これも「娘をひとり親として育てていかなくてはいけない」という使命があったからできたことだと思う。
そしてその過程の中で、自分に対して大きな決め事をした。


好きなことを仕事にするのはやめよう


ずっと好きなことを仕事にしようと思っていた。そのほうが楽しいし頑張れる。好きでもない仕事を1日中するなんて自分時はできないだろうと。
でも、好きなことを仕事にしようとすると、必要以上に頑張ってしまう。どれだけ双極性障害だと認めたところで、この勝手に頑張ってしまうモードは止められないだろうと自分でもわかっていた。
だから好きなことは仕事にしない。割り切って仕事はお金を稼ぐことを目的にしようと決めた。
その結果、特に興味があったわけでもない、経験もない経理の仕事を今している。縁あって入社した会社で10年間、そのうち5年間は双極性障害のことを誰にも話さず働いた。
5年目にまたうつになって2ヶ月休職したため、その時に双極性障害であることをオープンにして、オープンにしたけど一般雇用で引き続き働いた。
途中、国家資格を1つと民間の資格を1つ取得した。
この勉強中だけはまた頑張りすぎるモードが発動したけれど、何とか自分でやりすぎることを自制して乗り切った。


結果、10年で年収が2倍の600万円を超えた。
ここまでいくのには自分で言うのもおこがましいが、ものすごく努力をしてきた。
仕事中は必死で頑張るので家では廃人のように何もできない時もあった。
躁鬱の波も上がったり下がったり、自分で精神状態を逐一チェックしながら、付き合いながらの生活だ。
努力の甲斐あって娘を私立高校に行かせることもできたし、専門学校に進学させることもできた。娘は専門学校を中退してしまったけれど東京で就職することになり、初めての引っ越しにかかる初期費用も出してあげることができた。


本当は今でも会社員きついな、向いてないな、好きなことで稼げたらいいのになと思うのことは毎日毎日、何度もある。
でも好きなことをして、頑張りすぎる自分も知っている。
だからあえて会社員を続けている。
興味のなかった経理の仕事も今では好きになりつつあるけれど、仕事は仕事と割り切って働く。
それができるのも会社員の良いところだと思っている。あと倒産でもしない限りは毎月給料は振り込まれるし、またうつ状態がきても有給休暇もあるし傷病手当もある。
全くの収入ゼロになる可能性は低いことも、心の安定につながっている。


そういう言いつつわたしは、つい先日まで個人事業主になろうと画策していたけれど、一旦保留に。
この夏に転職先した職場がどうにも合わずに退職願を直に社長に持ってところ、役員にするつもりでヘッドハンティングしたのだから辞められては困ると退職願を突き返された。
社長はわたしが双極性障害であることを知ったうえでわたしをヘッドハンティングしてくれた。休みが少なくて身体がしんどいと言ったら、各週休二日だった土曜日休みを完全週休二日にしてくれた。
わたしだけのために、びっくりである。
せっかく期待してくれているのだからもう少し頑張ってみるか、と思い直して働き始めたところ今の職場も悪くないと思えるようになってきている。


人それぞれ向き不向きはある。
わたしのように好きなことで頑張りすぎてしまう人は、仕事は仕事と割り切って会社員を続けてみるというのもひとつの選択肢。
人間関係がきっかけで精神疾患になってしまった人は、在宅でできる仕事や個人事業主になることを目指すのもひとつの選択肢。



模索しながら自分に合う生き方を選べばいいし、正解はないし、最適解があるだけだ。



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