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何かを好きでいることの意味

とても不思議で、嬉しいことがあった。

一緒に働いているメンバーの幼馴染という人が、ゴールデンウィークに東京から丹後に来てくれた。出版社に勤めているそうで、自然と本の話になる。

「小説を読むようになったのは、吉本ばななさんのキッチンを読んだのがきっかけで」

とても好きな本が出てきた。
小学生の頃、塾の国語のテストで出てきたキッチンの冒頭が好きすぎて、全てを読みたくて小6のお誕生日に本を買ってもらった。それから暗記するほど読んだ大切な本。

「そのあとは、江國香織さんとか女性の作家さんをたくさん読んで」

えっ!
高校生の頃、私はつまらない授業の時間にはずっと江國香織さんの小説やエッセイを読んでいた。ブックオフに通って、500円の文庫本をたくさん買った。どうしても、早く大人になりたかった。

「特に『きらきらひかる』とか」

はい、江國香織さんの小説で一番好きです。

一気に、私は高校時代に戻ったような感覚をおぼえる。
私は『きらきらひかる』に出てくるシャンパンマドラーのお話が大好きで、「安物のシャンパン」という見たことも飲んだこともない、けれどきっと美しくて甘い、その儚そうな飲み物に憧れをいだいていた。

「当時の恋人に、シャンパンマドラーを贈りました」

私よりロマンチックで、笑ってしまった。
同世代だから、お互い10年ほど前の自分を振り返って、やっぱり本って良いなあと感じた奇跡のような時間だった。そして、大人になった今こうして話ができる楽しさを知った。



「好き」という気持ちは、色褪せることがないように思う。
今も江國香織さんの小説を読んでいるかというと、たまに好きなお話の好きな部分を読む程度で、高校時代のどっぷりとハマっている感覚はない。

ただ、好きな気持ちが薄れたわけではなく、ありありと高校時代に戻れたように、変わらず心の中にある。
きっと「好き」というエネルギーをかけた事実が、積み重なっていくだけなのだ。

そういえば、私のTwitterのアカウント名は @su_ki_daaa で、好きという気持ちを大切にしようと決めてつけたものだ。
大学1回生の5月くらい、鴨川デルタで「す・き・だー!」と叫びながら決めた(あの頃は、若かった)。

当時、私は自分の好きなことに、自信がなかった。
本も好きだったし、広告も好きだったし、詩も、バレーボールも、田舎の空気も、文章を書くことも、ファッションも、音楽も好きなものは確かにあったのに、「私より、もっと好きな人がたくさんいる」という理由で、なかなか口にできなかった。

自己紹介はいつも曖昧で、話題が他の人に移るのを待っていたように思う。
「好き」をいう気持ちを、まっすぐに見つめるのが怖かった。
そんなとき、一緒に鴨川デルタに行った友達ができた。彼女は好きなことを溌剌と話す人で、彼女の好きなことの話を聞くのは面白くて、すこしずつ私も自分の「好き」を言葉にできるようになっていった。

「これ、すず好きそう」と何かを紹介してもらえることが増えて、人の好きなものにも気づくようになった。好きなことを話すのは楽しく、「好き」で繋がれる関係は愛おしかった


あれから10年以上が経ち、今の私は「好きを思い出すこと」が楽しくなっている。

小学生の頃に好きだったこと、中学生の頃に通学電車で夢中で読んだ本たち、高校生で観た映画、行ったお店、買った服、出会った人たち。それらは、今の私の一部になっていて、これからも心の中でずっと付き合っていく。古くからの友達のように。

何かの折に、誰かと過去の「好き」が重なる瞬間があったり、「好き」を語る機会があったりしながら、また深く好きになっていく。そういう人生の楽しみ方のようなものを知った。

数年前、日々noteを書いていた頃のテーマは、「自分を愛す」だった。自分のことを好きになれれば、何もかも上手くいくような気がして、頑張った。
今思えば、それは方向が違っていたのかもしれない。

自分を愛するとは、いつも変わらず自分が好きなものを好きでいることのような気がする。
どのくらい好きかという程度の比較をすることなく、ただ純粋に「好き」でいること。その気持ちを大切にしながら、自分のペースで深めていくことに、意味があるのかもしれない。

そして私は、その人が大事に深めてきた「好き」の話を聴くのが、たまらなく好きなのだ

好きになったきっかけは何か、それはいつなのか、どんなふうに好きなのか。語ってくれるときの表情は美しかったり、可愛かったりして、幸せな気持ちで満たされる。およそ興味を持ったことのない場合が多いから、知らないことを知れるというのも嬉しい。
相手を知る方法はたくさんあれど、私は、言葉にされた「好き」を受けとって、体に沁み渡らせながら理解していきたい。だから、人と出会っていくことも、一緒に何かに取り組むことも好きなのだと思った。



文章を書くことから離れていたしばらくの間、私の時間の中心が、私ではなかったように思う。意図してそうしていたのに、気づけば心もとなくなってしまった。それは、好きなことを「好き」と言えない頃の感覚に似ていた。

書くことは私にとって、自分を愛することだ。

それは、今も変わらない。

昨日、友人夫婦が丹後に遊びに来てくれて、初めて自分の運転で好きな場所をまわった。
たった2時間ほどの時間の中に、私の「好き」が詰まっていて、あらためて価値観を振り返る時間になった。
車中の会話の中で、「文章を書くことが好き」という話になった。少しずつ今住んでいる場所で、好きな仕事をしていきたい。その姿勢が、まぶしくて潔かった。

私も、文章を書くことが好きだ。
そうはっきりと感じた。

何かのための文章を書くことももちろん好きで、仕事になっていることもあるけれど、それだけじゃなく、一人部屋を持つような、自分にだけ向き合える大切な時間だったことを思い出した。

京丹後市丹後町間人 海の棚田

丹後に住みながらも初めて見たこの景色に圧倒されながら、
「また書いていこう。」そう思った。



何かを好きでいる意味は、きっとたくさんあって、これからも出会っていくのだろう。

ある人から「めっちゃ過去と対話しつつ、それにより更に鮮明に浮かび上がる『今、ここ』を包みこむように大事にしている」と言ってもらった。
過去と対話するのは、ずっと続けている趣味のようなもので、楽しくもあり苦しくもあるけれど、私の大切なあり方なのだ。
時間軸がベースにあって、今を確かめるように過去をいつくしむ

これからは、書くことを通して、未来を描くこともやってみたい。「好き」は語れるようになっても、まだ未来を言葉にするのは怖いし、曖昧にしがちだから。

時間軸を大事にするという私のまま、視点を未来にも移していく。

31歳の私の密かな目標です。


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朱珠/Suzu Inamoto
サポートいただき、ありがとうございます! 有料noteを読んで、学びにして、また書きたいと思っています。