映画感想「峠 最後のサムライ」
今年は日本映画の当たり年。それも特に、時代ものに絡む映画の絶好調っぷりが伺えます。この作品もおなじみ映画館、豊田市駅前のkitaraにて鑑賞。
先日に観た「大河への道」は落語をもとにしたコメディ調の親しみやすい時代劇もあるよ、な現代も重ねた作品で、この「峠 最後のサムライ」はがっつり本格派の歴史もの。
時代を醸すためのロケや衣装や道具や、撮影場所としての古くから残る日本の風景や建物へのリスペクトは似ていても、まったく違う味わいになっているので、時代ものの作品も深い、と感じます。
昭和の歴史作家と言えば、池波正太郎氏や吉川英治氏など、戦前・戦後の雨後の筍のように現れた方々のなかでも、最も多くの時代と作品とを世に知らしめたかもしれないという方が司馬遼太郎氏。この方々については、氏、ではなく昔に作家の方々をお呼びしていた先生だろ、とツッコミを入れる方もいらっしゃるかも……無礼を申し訳ございませんm(__)m このあとに歴史上の人物も、氏とお呼びしたいので。
幕末の新選組にしてもそうなんですが、彼にかかると敗北して消えていった側の人間たちが、実に魅力的に蘇ってくるところがいい、と映画の原作となった「峠」の主人公、河井継之助氏の物語を観て感じました。
誰だって、戦争でひとが死ぬ、負傷する、大切な家や物が壊れる、そんなことは嫌に決まっています。しかし相手が極めて横暴で、尊王という大義を掲げながら、実のところは薩長土肥側の思惑によって革命を起こして好き放題したいだけじゃないか、それを官軍として認め、スルーしてもいいのか? という問いを、河井継之助氏が命がけで自軍、そして官軍に問いかけ、和平交渉が破談となったあとは大局的に負けが確定していると分かりながら戦いの道へ進む。
敗北者側の人間の物語を描く、という歴史の流れは、司馬遼太郎氏がお名前をすこしお借りした中国の司馬遷氏が描いた「史記」の楚の国の王項羽氏、蜀の国の生き残りとして陳寿氏が描いたあの著名な「三国志」にもずっと通じていることで。
勝者の歴史は大々的な神話なり正式な歴史書なりで華々しく書かれるのだから、そうでない敗者として消えたひとびとのことこそ、今の時代には掬い取って表現されるべき内容なのかもしれない、とも思います。
やむにやまれず、大国ロシアと今も戦っているウクライナのひとたちのことを重ねずにもいられず。戦争という絶対悪、しかし相手が急に攻めてきたらどうするという問いに対する、アンサーとして徹底抗戦をすれば、学校も病院もショッピングモールも劇場も潰され、捕虜で反ロシア的とみなされたひとたちの行方は収容所送りで行方知れず、子どもたちも無抵抗な住民も一緒くたに爆撃・虐殺。
そこまでされて黙れるのか、という問いが起こります。
今は、民間人への攻撃は国際的に戦争犯罪になる時代で、すでにウクライナ側の捕虜となったロシア兵の裁判については始まっており、ロシア国内が裁かなくとも、いずれ世界の目が無辜のひとびとを殺害した罪、を裁くことにはなるでしょう。
大義のない戦争に、ロシア兵がロシア兵を戦場で撃ったり、戦車ごと投降したり、チェルノブイリ原発の近辺に塹壕を掘った兵士たちが被ばくしたり、という情報もあるので、本気でどうにもならない泥沼となっている状態ですが、一刻も早く戦争を終わらせてほしい。
かつての日本で起きた幕末の戦争の映画であるこの作品「峠 最後のサムライ」を観終えて、平和のありがたさと尊さ、それを保つことの大変さと大事さを感じます。
豊田市駅の青空カフェで「生活者のための総合雑誌 ちゃぶ台9 二〇二二 春/夏号」という本を、特集の「書店、再び共有地」というフレーズに惹かれて購入。
GAZAビル内の本屋さんでも「夢を叶えるゾウ0」や「13歳からの地政学」を買って、いよいよ夏の猛暑が早くも始まり、新型コロナウイルスの患者もすこし増加傾向にあるこの時期、涼しいところで本を読む時間を増やしていこうと思います。
※ 見出しの画像は、みんなのフォトギャラリーよりシゲクさんの作品をお借りしました。ありがとうございます。