日本、そして中国を覆う「言い訳」としての多様性の話
先日、こんな記事を読みました。
早稲田大学講師の楊駿驍さんによる、中国の労働者に関する論考です。
中国において、時代ごとに労働者がどのように扱われてきたのか、そのなかで彼らは何を考え、自信をどのように位置付けてきたのかということを、労働者自身らがそらんじた「詩」という文脈から解き明かそうとしています。
中国、そして世界が抱える、どうしても弱者からの搾取を必要とするという”持病”の根深さについて喝破し、それに僕たちはどう向き合っていくべきかを考えさせる名文だと思いました。有料記事ですが、ぜひ全文を読んでみてほしいと思います。
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僕が文章の中でとりわけ印象に残ったのは、価値観が「多様化」しつつある中国の現状についての言及です。
改革開放後、そして市場経済の導入後の中国では、計画経済時代の労働者を賛美する建前さえ失われ、「世界の工場」を成り立たせる道具として労働者が使い捨てられてきました。労働者たちが自らを描写する詩は、自らの存在価値のなさを蔑み、自虐するものになっていきました。
そして、近年は特にコロナ後に鮮明になった経済的停滞のおかげで、農民工のような単純労働者はおろか、ホワイトカラーを含む中産階級ですら「良い大学に入り、良い仕事に就き、良い給料をもらって、良い生活を送る」というスタンダードな人生への夢を持てなくなりました。搾取され、使い潰される若者の裾野が拡大しているのです。
そんな中、出前の配達員などや清掃業などの仕事に大学生がつくようになったことや、若者が故郷の地方都市や農村にとどまるようになったことを、若者の「価値観の多様化」として称賛する記事を見かけるようになったとしながら、筆者はその状況をこう評しています。
これ、まるっきりかつての日本で起きたことと同じようにも見えます。
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