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「中国を好きでも、嫌いでもない」が過去イチ揺らいでいます

僕、中国にだいたい9年半くらい住んでるんですね。その中でnoteを始めたのが2020年の3月なので、だいたい4年半くらい続けていることになります。

その間ずっと、僕は中国を「好きでも嫌いでもない」というスタンスで過ごしてきました。日本に比べていろいろ理不尽なことも起こるけれど、かわりに日本では体験できないようなエキサイティングなことも起こる国。

さまざまなイライラに見舞われながらも、時にこの国で受け取ってきた優しさの数々を思い出して、「まあ、悪いことばかりでもないしな」と、この国に向き合ってきました。いつもギリギリのところで、大好きにも大嫌いにもさせてくれない国。それが僕にとっての中国です。

それに、noteを始めてからは特にこの「好きでも嫌いでもない」ということを意識して維持するようにしてきました。

僕がnoteを始めたきっかけのひとつは、当時SNSやメディアに溢れていた(今もかもしれませんが)、中国に対する偏った見地からの発信です。あちらに真偽も定かでないようなことを交えて口汚く中国を批判するようなものがあれば、まるでカルトのように中国をただ賛美する言葉がネットを飛び交っていました。

僕が自分の目で見た中国は、そのどちらでもないですよ、ということを伝えたかったのです。

そうして中国に向き合う日々は、充実していました。観察者としての一定の距離を保ちながら、この国で起きたこと、見たことをありのままに言葉にしていくことは、僕のライフワークになっています。

しかし、いまこの「好きでも嫌いでもない」が、過去経験したことないほど揺らいでいます。

その揺らぎの針は言わずもがな「嫌い」のほうに傾いており、その原因はもちろん、先日の深圳市における日本人学校の児童殺傷事件です。

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