ガッカリする中国の「そういうとこ」
紀実作家・安田峰俊さんによるこんな記事を読みました。
先ごろ日本で行われたサッカーワールドカップ予選の日本対中国戦を、「中国側のサポーターとして」観戦しようという試みです。よくこんな有意義かつ面白い企画を思いつくものだと唸らされます。
サッカーに毛ほども興味がないままの実況や、日本が点を取るたびにごっそりと帰ってしまう中国サポーターなど笑いどころたっぷりなのと同時に、そこに駆けつけた中国人がどのような人たちであったのかをつぶさに観察する記事となっています。ある種、中国本国ですら見られない「中国人のリアル」がそこにあるとまで言えるでしょう。
内容はぜひご自身で読んでみてほしいのですが、僕としては後編記事の最後の部分に強く共感せざるを得ませんでした。そこでは中国サポーターたちのマナーの大幅な向上に舌を巻きつつも、その中には抗日戦争当時の八路軍の軍服を着て物騒な内容演説を打つ人物がいたことや、それに賞賛を浴びせていた人が相当数いたことを評して、安田さんはこのような言葉を投げかけています。
これ、つとに最近の中国に対して思うことです。
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国が豊かになり、世界に誇れる部分をたくさん持つようになった中国。世界的なプレゼンスも増してきており、まさに超大国といえるようになりました。スマートフォン・インフラで世界をリードし、最近では電気自動車分野での躍進も目覚ましいものがあります。
そこに暮らす人々も、僕がみてきた10年だけでも変わりました。住み始めた当時、散歩をしているとどこかのベランダからゴミ袋が目の前に降ってきて、相当なカルチャーショックを受けたものですが、いまそんなことをする人はあまりいなくなりました(ちょっとはいる)。国が豊かになり、マナーも見違えるように向上したのです。
そんな中国のことを、そこに関わるものとして誇り、称賛したい気持ちもありつつも、日本というフィルターを通して中国を見ていると、どうしてもそれを手放しでできなくなる気持ちにさせられてしまう場面が出てきます。
パブリックエネミーに設定された日本は、都合よく叩いてもいい対象として国民の溜飲を下げることに使われたり、SNSで耳目を集めるために用いられたりします。そのやり方は明らかにバランスを欠いており、日本人としては悲しい気持ちにさせられます。
そして悲しさを加速させるのが、これが国の方針として一定程度許容されていることと、そこに乗っかって「日本相手なら何をやってもいい」という発想を過剰に内面化させる人間があまりにも多いということです。
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