Twitterと、イーロン・マスクと、中国と
——と、字余り気味の七五調で始めてみました。
今日はイーロン・マスクによるTwitter買収に思うことを、中国を絡めて書いてみたいと思います。
Twitterの「恣意性」をめぐって
イーロン・マスクによるTwitterの買収から20日ほどが過ぎました。ここ最近は社員の大量リストラや認証マークの有料化など、さまざまな話題が毎日のようにタイムラインを賑わせています。
なかでも話題になったのは、キュレーションの終了です。ユーザーに話題のトピックとして提示されるニュース記事の選別が、今回の買収をうけて終了したようです。
もともとTwitter内でニュースフィードに提示される記事には恣意性があり、特定の思想がかなり入り込んでいたのではないかという話がありました。そして、それはかなりの部分で事実だったようです。
このキュレーションの件も含めて、今後のTwitterという場をめぐって「どれほど言論の自由が保たれていくのか、あるいは保たれるべきか」ということに多くの関心が集まっているように見えます。
マスク氏自身は、言論の自由の信奉者として振る舞っています。だからこそあからさまに偏向していたTwitterのメディアキュレーションをやめさせたのでしょうし、いわゆる「人権チーム」をリストラしたことなどからも、Twitterの言論的な方向性を少なくとも「いったんはリセット」しようとしていることが見て取れます。
個人的には、特定の思想に肩入れすることにできる限り慎重であろうとするマスク氏の姿勢には、ある種の好感を持っています。
ここ数年間は特に、Twitterという空間がプッシュするものがあまりにも特定の思想的な方向に偏っていたことが、利用者の実感としてありました。そこを健全化するという意味で、マスク氏のやろうとしていることは理解できます。
——ただいっぽうで、じゃあこれを機にTwitterが完全に自由な言論空間になるのかというと、そんなことはありえないとも思います。
白饅頭さんが指摘するように、メディアやSNSプラットフォームが何らかの意思を持たないということはありえません。そこにいる人たちが語っていることのうち、何を重視し、何を重視しないかという取捨選択は、必ず行われます。そこには、どれだけ公平にしようとしても生まれる恣意性のようなものが、どうしても含まれてしまうでしょう。
仮に、これまでのTwitterが抱えていたリベラル・ポリコレ的な恣意性が完全に駆逐されたとしても、そこにはまた別のベクトルの恣意性が入り込むことは避けられないだろうと思います。
中国と「ペッチョリ」のマスク氏
で、そのTwitterにこれから入り込むかもしれない「別ベクトルの恣意性」ということを考えたときに、気になってしまうのはイーロン・マスク氏と中国の距離感です。
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