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「話せばわかる」は幻想だが、それでも話すことには意味があると思う話
くまてつさんのnote。読みながらうなずきまくりました。
「話せばわかる」なんていうのは、本当に幻想です。
話してもわからないどころか、話の通じなさに絶望したり、話すことによって嫌なところがより鮮明に見えてしまって、余計に相手を嫌いになってしまうことさえあります。
「話せばわかる」を臆面もなく口にする人というのは、よほどコミュニケーションというものに真剣に取り組んでこなかったか、普段押し付けがましいコミュニケーションしかしておらず、ただ一方的に捲し立てて相手がポカーンとしているのを「わかりあえた」と勘違いしているだけの人でしょう。
とはいえ、僕自身中国に来るまでは「話せばわかる」をどこかで信じていたようなところがあります。中国という異文化に挑戦するにあたって、言葉や文化の壁があってもコミュニケーションを重ねていけば、きっとわかりあえないことなんてないだろうと。
そしてその期待は、脆くも崩れ去ることになりました。いくら話を聞いたところで理解できない文化や習慣、そしてどれだけ話しても理解されることのない自分の思いや気持ち。自分が日本といういかに均質化された空間にいたのかを思い知らされました。
最初は言葉(中国語)ができないからうまく伝わっていない、あるいは相手のことをわかりきれていない部分があるのだろうと思っていましたが、言葉をどれだけ上手に話せるようになっても変わりませんでした。むしろ言葉の壁が崩れたことで後ろに見えてきた「文化の壁」や「信仰の壁」の強固さに絶望さえしました。
僕は異文化を通して言葉の無力さ、ひいては「話せばわかる」という言葉の虚しさを自覚し、それまでのコミュニケーションを反省するに至りました。
ひょっとしたら言葉を交わしただけで「わかった」気になっていたのは、僕自身かもしれなかったのです。
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ただ、「話せばわかる」ということが幻想だとしても、それでも「話す」ことをやめてしまったり、諦めてはいけないんじゃないかという気持ちもどこかには持っておりまして。
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