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未来社会に関する試論

「人の子よ。イスラエルの家が自分たちの不義を恥じるために,彼らに神殿を示し,彼らにその模型を測らせよ」(エゼキエル書40-10)
 


ユートピア論の必要


 ユートピア論の始まりは,古代ギリシャとユダヤです。紀元前5世紀,古代ギリシャの哲学者プラトンは,理想的な国家を構想しました。紀元前6世紀,古代ユダヤの預言者エゼキエルは,理想的な神殿を構想しました。つまり,政治的共同体(国家)と宗教的共同体(教会)の理想が,古代世界において誕生したのです。そして,西洋文明は,プラトンとエゼキエルの理想に向かって,国家と教会を形成してきました。
 現代文明に必要なのは,新しい理想です。新しい文明を導くユートピア論です。ノーベル経済学賞を受賞したフリードリヒ・ハイエクは,自由を土台としたユートピア論を唱えました(「自由の条件」「法と立法と自由」)。つまり,ハイエクは,近代資本主義的な自由をもとに,新しい社会を構想したのです。

ユートピアの原理


 新しいユートピア論の土台は,人格でなければなりません。なぜなら,ハイエクの重んじた自由は人格の一要素であり,人格全体を網羅していないからです。
 人格とは,「全体としての人間」です。宗教的には,神の似姿と呼んでもいいでしょう。カントが「人倫の形而上学」で主張したように,人格は他の人格(隣人)を要請します。人格は,他の人格と共生してこそ,人格たりえるのです。また,ベルジャーエフが「奴隷と自由」において論じたように,人格は超人格(神)を要請します。超人格が存在するからこそ,人格は高みを目指し,精神的に向上しようと欲するのです。さらに,人格は非人格的な自然をも考慮に入れねばなりません。なぜなら,人間は自然を統御するよう,神に創造されたからです。
 自己と他者と神と自然。これら全体が有機的に交流してこそ,人格は人格たりえるのです。そして,人格が有機的に作用する共同体こそ,イエスのいうエクレーシアであり,パウロのいう「キリストの身体」であり,カントのいう「人格の王国」です。

※エクレーシアは通常「教会」と訳されますが,イエスが意図した意味と歴史的な教会概念が矛盾するため,敢えて原語のまま呼びます。

人格とは何か?


 では,人格とは,具体的に何を意味するのでしょうか?理想的共同体が人格の王国であるならば,人格の意味を明らかにせねばなりません。人格には,二方面があります。
 第一に,神の似姿としての神性です。つまり,神は万物の創造主ですから,人格にも創造性があるのです。第二に,神の被造物としての人性です。つまり,人間はこの世を統治するよう神に委託されましたから,人格は神に対して責任を有するのです。人格は,神と共に創造し,神に対して責任を持つ。すなわち,神性と人性の融合こそ,人格の本質です。
 この高貴な人格を体現した人物こそ,イエス・キリストでした。彼は,キリストとして神性を持ち,イエスとして人性を持ち,人格の象徴としてこの世に降りました。キリスト・イエスに似ること。これが,この世に生まれ落ちた我々の目標であり,究極の「生きる意味」なのです。

理想的共同体の法


 理想的共同体の法とは,一体何なのでしょうか?そもそも法とは,人間や組織を外的に拘束する仕組みです。しかし,人格は自由な存在ですから,外的な拘束を必要としません。人格は,精神的に自由であるが故に,内的な原理を重んじます。法ではなく倫理の支配。これが,理想的共同体の法と言えるでしょう。
 人格の理想はイエス・キリストですから,理想的共同体の倫理もイエス・キリストの生涯を通じて論じなければなりません。なぜなら,イエス・キリストこそ神の現実であり,イエス・キリストこそ人格の原型だからです。
 イエス・キリストは,人となり,十字架につけられ,復活し給うた方です。イエス・キリストが人間になったことにより,我々は人間らしくあらねばなりません。イエス・キリストが十字架上で裁かれたことにより,我々は神に裁かれた人間として,あらゆる苦難に耐えねばなりません。イエス・キリストが復活し給うたことにより,我々は新しい人間として世界に関与せねばなりません。

「人間らしく憐れみ深くあれ!あらゆる困難にめげない忍耐強い人間であれ!新しい価値を創造する勇気ある人間であれ!」

 理想的共同体の門には,この三つの標語が掲げられています。
 

以下は参考書籍です。



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